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『エコール』

Posted by AK on 07.2007 映画   1 comments   0 trackback
Tag :エコール ルシール・アザリロヴィック 少女 INNOCENCE 乳首
変態お断り! パンツなんてただの布!
『エコール』がヌケないこれだけの理由


 ロリコンも長いことやっていると、いくつかの小さな問題にぶち当たる。ひとつはオカズの確保。当然にして究極の命題だ。もうひとつは周囲のリアクション。変態性欲者と性犯罪者とを混同している人間が多いせいで、「私は子供が好きです。特にひと桁の子」などと告白しても中々理解を得られない。そして、それらをどうにかクリアしたとしても、女児サイドの自由意志の問題が頭をもたげてくる。

 自由意志は責任能力と言い換えてもいい。とどのつまり、街でかわいい子に声をかけてホテルで一戦を交えたとして、罪に問われるのは大人だけである。未成年売春(要は援交)で、身体を売った側の責任が問われることはない。刑事上では14歳未満の者を無責任能力者として扱い、その一切の違法行為を咎めないという原則がある。だが現実の司法においては、16、7歳の女子高校生が無届の売春行為を行ったとしても、実質的なペナルティが科されることはない。せいぜい補導員から「自分の体を大切にしなさい」云々とお説教を食らう程度だ。

 このことをして「フェアじゃない」と憤る向きがあることを私は知っている。未成年といっても言葉を知らない幼児ではあるまい、合意の上で成されたことはその責任も等分されて然るべきである、と。だが私は、あくまでも本気で考えた場合、このような言説は不条理ではないかと思う。抽象的な話になるが、子供に自由意志の機会を与えるべきではないというのが私の立場だ。色目を抜きに見て、ありのままの子供というのは一種のモンスターなのだから。

 先日『エコール』という映画を見た。劇場公開時から何かと話題の作品であるが、私はいまいち興味をそそられなかったためにDVDで拝むこととなったのだ。まして原作小説なんて……。この映画の公式宣伝サイトをめぐって「乳首が見えた」とか「乳首が丸見え」とか「乳首乳首乳首ヒャッホイ」とか、いろいろと議論が紛糾したことは記憶に新しい。

 とはいえ、あれだけ盛大に脱いでいれば乳首ぐらい見えて当然だ。蚊に刺された跡というかピンクの豆粒というか……。いっそのこと下の豆もシネスコサイズで映せば、DVD発売後に即回収されてプレミア価値がつくのではないかとも思うけれど、そこまでやらないのが所詮は映画といったところだろう。

 肝心の内容だが、見る前のあんな想像こんな想像がいろんな意味で当たりすぎて、いささか拍子抜けしてしまったというのが正直なところだ。押井守のせいで使えなくなった“INNOCENCE”という原題の通り、少女時代の危うさとか思春期の心の揺れ動きとか、まあそういうものを主題に戴いたアート映画である。女流監督が挑んだ「少女性」の追体験、深い森に佇む秘密の学校へ送り込まれた少女は、美しさの先に現実の悲哀を垣間見る……などと新聞の文化欄で褒められる類の作品

 舞台となる学校そのものが少女期ということの暗喩であろうことは容易に察しがつく。脱走を試みて死んだ少女、無事に逃げおおせたけれど初めからいなかったことにされた少女、しっかり者で年少組の面倒見もいいのに土壇場で「卒業」を恐れる少女。高い壁と深い森に囲まれ、隠された地下道を通らなければ入ることも出ることも叶わない少女たちの庭は、現実に存在する風景というよりも、目に見えない何か、たとえば人間の心などをメタフォリックに再現した絵画的な舞台とみればしっくりくると思う。

 ……という風に書けと言われたような気がしたので、無理して書いてみた。さて次は下世話な話題である。この映画は変態のめがねに適うか? 児童ポルノみたいな予告映像の通り、ちゃんとその方向で使える作品になってる? 結論から言う。答えはNOだ

 そもそも、予告映像でも使われた水浴びのシーンへみられるように、この作品にはダイレクトな絵が多すぎる。結局のところ、パンツはスカートの下にあってこそエロいのだ。それらをかなぐり捨てて「ほぉら純真無垢な少女だよ~」などと言われても、無粋としか言いようがない。暗がりの中の白い布を拝むために写メや手鏡を駆使し、彼の社会生命を投げ打った捨て身のエロこそがパンツァーの至高ではないか。

 乳首の問題にしたところで、初めから半裸の少女などよりも、タンクトップの脇からピンクのつぼみをチラチラと覗かせる「無用心」な子のほうが何倍もアツいだろう。「見えている」のではない、「見ている」という主体的な意識が、我々のリビドーをより強く燃焼させるのだ。それなのに、この映画ときたら

 とまあ、このあたりは製作サイドの思うつぼだろう。そういう目的で見に来た観客をいかに白けさせるかという点において、随分と考えられているように思う。「肌を映さなければ変態は欲情しない」などといった我が国の良識とは対極に位置する、見事なコペルニクス的転回だ。

 ただ、そういうことを抜きに考えても、この映画は「甘い」ように思う。

 主人公のイリスという子が森で転び、脚に切り傷を負ってグズグズと泣く場面がある。ここで一緒にいた女の子が傷口から血を掬い取り、ペロッと味見をする。しかし、これだけでは場面のインパクトとしてはイマイチだ。やはり、傷口に直接しゃぶりつくぐらいのことはしてくれないと。こちらとしてはそういうハードコアな絵を期待しているのに。

 そもそも、少女が脱いでいるだけの映像など、高速インターネットが世界中に張り巡らされたこのご時世、ある種のソフトで然るべき探索を行えば掃いて捨てるほど手に入る。私が求めているのはそういうものではないのだ。強烈な物語性とフェティッシュとに裏打ちされた、その作品でなければ成り立たないエロス、癖の強いご当地料理みたいな卑猥さを私は願ってやまない。そういう意味で、これまで私がお目にかかった映画の内でもっとも強烈な作品は、ジャン=ピエール・ジュネの『ロスト・チルドレン』であった。

 そして、これを書いてしまうと『エコール』という作品そのものを全否定するようで気が引けるのであるが、今後誰かがどこかで書くとは思えないので私が率先してみる。

 多くのアーティストが畏れ、敬い、崇め奉る「失われた少女性のイノセンス」とやらは、それほど大したものなのか? まして120分ものフィルムを費やすほど語られるべき内容があるのか? 私には、どうにもこれらがある種の人々に顕著な、過剰な自意識の排泄物に思えてならない。たとえばそれは、失われた魂を素人催眠術で掘り起こして現世の補償とする、昨今流行の稚拙な霊感セラピーと手法の上では大差ないのではないか。

 さらにこの映画における「美」や「幻想」は、人間の子供が本来持つべき動物的な欲望や、雨後の泥溜まりのように暗く不潔な怨念を体よく覆い隠し、彼らの性善説をでっち上げる小道具へ成り下がってしまっている。年長少女の自慰行為をもって「後戻りのきかない成長」を演出するあたり、製作サイドの前時代的な児童観すら透かし見えるようだ。単純な話、オナニーぐらい幼稚園児だって知っている。性の象徴として使うにはあまりに安易だ。もっとも、キリスト教的な背徳がバックグラウンドにありそうなことぐらいは分かるけれど。

 ジュネほどの屈折も、シュヴァンクマイエルほどの悪趣味もない、ただひたすらに綺麗な風景と「リアル」な少女像とをパンする純粋無垢な映像美が『エコール』という作品のすべてである。そういう意味で、真にピュアなのは劇中の少女たちではなく、監督のルシール・アザリロヴィック自身ではないだろうか



  原題 “INNOCENCE”
  2006年 白英仏合作
  ルシール・アザリロヴィック監督

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2011.10.08 16:23 | | # [edit]


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