君はチラリ

メディアの中の少女たち。
ヒロインからエキストラまで。

君はチラリ

メディアの中の少女たち。
ヒロインからエキストラまで。

君はチラリ

メディアの中の少女たち。
ヒロインからエキストラまで。

スポンサーサイト

Posted by AK on --.-- スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『バナナフィッシュにうってつけの日』

Posted by AK on 03.2007 小説   0 comments   0 trackback
大文豪の蒼きリビドーが燃え上がる
法を犯さない変態男とピュアな幼女の火遊び水遊び


 私は女児の足が好きだ。脚ではなく足が好きだ。つまり、くるぶしから下、踵とか土踏まずとか指とか、そういうのが付いている部分が好きだ。

 ロリコンという時点ですでに変態の極みであるので、「ひょっとして俺っておかしいんじゃないか」などと人並みに悩むことはなかったけれど、それでも自分で自分を不思議に思うことはある。冷静に考えてみて、汚いだけだろう足なんて。臭いし

 それでも魂の欲求には抗い難いものだ。暑がりなのに夏が好きなのはサンダル履きの女児が見たいから。日本の過疎掲示板がたまに外人連中に乗っ取られて、アレなモロ画像が大量に貼られることがあるが、そういう画像を見ても欧米の女児というのは基本的にペディキュアを塗っている。「洋炉(白人少女)じゃ抜けない」という人間が同じロリコンに多いのも、そういう分不相応な出で立ちに道義的な反感を覚えるからかもしれない。

 だが、ペディキュアを塗っていようがいまいが、足は足だ。携帯にストラップをつけても基本機能が損なわれることはない。それは足も同じことである。装飾の有無は足の魅力に何らの影響も及ぼさない。プラスになりこそすれ、マイナスに転じることはあり得ない。小さければそれでいい

 日本文芸界における足フェチの重鎮といえば谷崎潤一郎であり、その正統な後継者が村上龍だろう。前者は興味がないのでよく知らないが、ドラゴン村上の著作中に何の脈絡もなく登場する足描写ではずいぶんと笑わせてもらった。連作エッセイ「すべての男は消耗品である」で村上は、丸1回を使って足フェチとはなんぞやということについて自己問答している。曰く足は進化から取り残された唯一の器官であり、そこへ劣情を覚えるフェティシズムが存在するのであろう、というようなことを書いていたように思う。だが、私はドラゴン村上のそういう教養主義的な姿勢に疑問を呈したい。

 考えてどうする? 感じるんだ!

 フェチにおける快楽とはフィーリングにそのすべてが委ねられている。考えれば負けなのだ。いや、もしかすると村上は「思考」をオカズにする高度なオナニストであるのかもしれない。そうだとすれば彼のスタンスは極めて合理的なものだといえるだろう。

 私が『バナナフィッシュにうってつけの日』という短編小説を読んだとき、まず初めに抱いた感想が「話の筋はよく分からないけれど、やっぱり幼女の足は最強だな」というもの。たった23ページの短編小説において幼女の足首を掴む描写が3度も書かれているのだから、これは只事ではない。この短編において、主人公シーモアは半ば精神異常者として書かれているけれど、彼の強烈なフェティシズムの前ではそういったサイコな文脈も霞んでしまう。

 ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー。第二次大戦中は英国諜報部でスパイ訓練を受け、ノルマンディー上陸作戦へ参加した軍歴の持ち主であり、戦後は自著のメディアミックス(映画化等)を頑として認めない偏屈な物書きとして知られている。長編の代表作が『ライ麦畑でつかまえて』、『フラニーとゾーイー』であるならば、短編の代表作は紛れもなく『バナナフィッシュにうってつけの日』であろう。

 この短編小説は内容的に2部構成となっている。前半は、リゾートホテルに泊まっているミュリエルという女性が長距離電話で母親と会話をする描写が延々12ページ。ミュリエルはシーモアの妻であり、彼の「異常な言動」を憂慮した母親から「あのキチガイは大丈夫なの? 海岸で合衆国憲法を朗読してたりしない?」などと確認の電話を受けているというのが前半のシークエンスだ。

 それから後は、主人公シーモアがビーチで幼女と戯れる描写が続き、唐突なラストで幕を閉じる。シーモアの相手をする幼女の名はシビル・カーペンターといい、セパレート水着が可愛い白人少女の鑑みたいな子。さて、この子が母親にサンオイルを塗ってもらう場面では、さすが大文豪というべき秀逸な描写がみられる。



 カーペンター夫人はシビルの肩に日焼け止めのオイルを塗っていた。翼を思わせる華奢な肩甲骨のあたりにまで一面にひろげてゆくところである。 (J・D・サリンジャー 『バナナフィッシュにうってつけの日』)



 「翼を思わせる華奢な肩甲骨」とは、要するに天使だと言っているわけだ。決して「天使みたいに綺麗な」だとか「この世のものとは思えない美少女」などと書かない、シャイな巧さ。美少女を美少女と書くことは簡単だけれど、それを敢えて読者のイマジネーションに任せるところが「文学」たる所以なのである。想像力に訴えるということはそれだけ物語世界へ没入させやすいということで、これができるかできないかが、巧い作家とそうでない作家の分かれ目であるといえる。

 ちなみに、シビルの年齢に関してもサリンジャーは「カナリヤ色のセパレーツの水着を着ているが、その上の部分が実際に必要になるのは、あと九年か十年してからのことだろう」と書いている。就学前の女児をこれほどまで陰湿に書く男を私は知らない。おそらくムッツリスケベなのだろう。

 文学談義はこのぐらいにして、主人公シーモアがいかに変態性欲者かという話題へ移る。彼がホテルでピアノを弾いているときにシャロンという少女を膝に乗せた話を引き合いに出し、シビルがやきもちを焼く場面がある。そこで彼がシビルに言ったことといえば「シャロンを君だと思うことにしたのさ」という台詞。アメ公はどうしてこうも殺し文句が冴えているのか。私がシビルだったら骨の髄までメロメロにされた挙げ句、無毛の股ぐらをパックリと差し出していたことだろう。というか、これは大人の女に使うべき台詞ではないか。シーモア、お前……。

 先ほど足首がどうのこうのと書いたが、シーモアがシビルの足に執着する場面はたしかに数度書かれている。というか、そこだけ妙に浮いた、異常な描写といってもいい。挙げ句の果てには、沖合でシビルと戯れているとき、おもむろに彼女の足を掴み上げて土踏まずにキスをする。なんと羨ま、いやけしからん男だ。全世界の女児足フェチが夢に見ていることを、よくもヌケヌケと……。

 しかし、シーモアが本当に異常だと分かるのはこの後の描写だ。彼はシビルと別れたあと、ホテルのエレベーターでどこぞのご婦人に「あなた、ぼくの足を見てらっしゃいますね」などと言い出す。「こそこそ盗み見するのはごめんだ」と。変態呼ばわりされた婦人はすぐにエレベーターを立ち去ってしまうのだが、この描写には2つの意味があると私はみている。ひとつはシーモアが真性のサイコであるということ。もうひとつは、彼のシビルの足に対する執着へ、明らかに性的なニュアンスが含まれていたということだ。

 この小説には、シーモアという男がいかに異常かということがそれとなく、しかし強烈に書かれているが、それは彼の足に対するフェティシズムへすべて集約されている。とどのつまり、足フェチは異常者なのである。私は異常者なのである。そんな私が全国の足フェチ諸氏へ言いたいのは、決して間違いを犯すなということだ。同志よ早まるな。生きている限り、(合法的な)機会は巡ってくるぞ。多分。

 この『バナナフィッシュに~』を手に取ったとき、始めは強烈なオチも含めて話の意味がよく分からなかった。が、今なら少し理解できる。この短編は、不可解な死を遂げた異常者の言動を、その背景を織り交ぜながら時系列に追ったフェイクドキュメンタリーなのである。彼が心を病んだ原因にしても、明確ではないにせよ「戦争」「軍隊」というキーワードが随所へちりばめられており、想像は容易だ。またその人物造形は、大戦兵士であったサリンジャー自身の映し鏡であるとも言える。サリンジャーが足フェチであったかどうかは知らないが。

 この短編には『バナナ魚日和』『バナナフィッシュに最適な日』等、いくつかの日本語訳が存在する。原書で読めればそれに越したことはないが、とりあえず野崎孝の秀逸な訳である『バナナフィッシュにうってつけの日』がいちばんうってつけであることは間違いない。短編集「ナイン・ストーリーズ」収録なので、書店で見かけた場合はぜひ手にとってみてほしい1冊だ。



  原題 “A Perfect Day for Bananafish”
  1974年 新潮社
  J・D・サリンジャー 著


  • password
  • 管理者にだけ表示を許可する

trackbackURL:http://kimichira.blog90.fc2.com/tb.php/12-ba71f0ae

バックナンバー

ジャンル

ブログ内検索

プロフィール

AK

Author:AK

しりとりしようぜっ!
まず俺からな。

「ロリコン」


励ましのお便り

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。