シュヴァンクマイエルの『アリス』
幼年期に「終り」はない!
スメタナの祖国が生んだ地上最強の少女映画
昔、繰り返し読んでいた童話がある。ハンス・クリスチャン・アンデルセン作『眠りの精のオーレ・ルゲイエ』。図鑑ほどのサイズもあるアンデルセン全集で、私はこの話ばかりを読んでいた。
中国の女性とチャットをしたとき、子供の頃にいちばん印象深かった本は何か、という話になり、私はアンデルセンの名を挙げた。「へえ、偶然。私もなの」と彼女は言い、好きな場面やエピソードを矢継ぎ早に畳み掛けてきた。私は内心焦った。いちばん印象深いのは間違いないが、憶えている話といえば「オーレ・ルゲイエ」だけなのだ。
殴れば人も殺せそうな童話全集の中で「オーレ・ルゲイエ」だけを何度も読み、逆にそれ以外の話は鼻歌雑じりで斜めに眺めただけ。『赤い靴』の主人公が何色の靴を履いていたかも憶えていない有様だ。彼女は『人魚姫』がお気に入りだと言ったが、はてそのお姫様が魔女にもらったものは手か足か。いや、髪の毛だったかな?
「オーレ・ルゲイエ」は夢の物語だ。オーレは北欧の伝承に登場する睡魔の一種で、彼の持つ魔法のミルクを瞳に受けた子供はたちまち深い眠りに落ちる。物語では、7晩の夢の冒険をする少年が登場し、絵画の中の泉からオモチャの兵隊の結婚式まで様々な場所を探訪した。子供にとって、もっとも身近でアクセスしやすい非現実は夢である。ディズニーアニメのように、魔法の粉に包まれて異世界を冒険するといった趣ではなく、あくまでも「身近」なファンタジーとして夢は有効的だ。
子供の世界と夢は親和性が高い。この手の物語が古来から独特の魅力を放ってきたのも、夢が単純な非現実ではなく、それが紛れもない現実の一部だったからであろう。たとえば空を飛ぶ夢にしても、一足飛びで深宇宙の彼方へジャンプできるというものではなく、電柱の高さ以上は浮遊できないとか、何か道具を使わなければ飛行できないとか、理不尽な制約があるのも夢の魅力である。
近年もっとも成功を収めた夢の物語といえば『不思議の国のアリス』であり、そのパロディという断り書きがありながら類例を遥かに引き離すクオリティを見せた実写映画が、チェコのヤン・シュヴァンクマイエル監督による『アリス』である。本場英国でさえ「アリスの実写化」には微妙な作品が多い中、自らの幼児体験を下地に複雑怪奇で幻想的なワンダーランドを構築してみせたシュヴァンクマイエルは、童話フリークやシュルレアリストに感嘆と称賛の嵐をもって迎えられた。
シュヴァンクマイエルの『アリス』は、ルイス・キャロルこと数学講師チャールズ・ドジソンによる童話『不思議の国アリス』を念頭に置いてはいるものの、その完全な実写映画化作品ではない。冒頭で“Inspired by Lewis Carroll's Alice In Wonderland”とクレジットされているように、あくまでもパクリ、じゃなくてインスパイア作品であるとのことだ。オマージュとかリスペクトとか、ああいう感じである。飲ま飲まイエイである。
シュヴァンクマイエルは、この映画を自らのプライベートフィルムと位置づけている。3年の歳月を経て作り上げられた彼の「アリス」は、彼自身の幼年期の暗喩なのだそうだ。シュヴァンクマイエルへのインタビューを掲載した『アリス』のライナーノーツが手元にあるが、彼はその中でこう述べていた。
「私は未だかつて自分の幼年期を、何かもう既に過ぎ去ったもの、何処かに置き去りにして来たものとして見たことは一度もありません」
彼の「アリス」は冒頭、英国流のポップでカラフルな子供部屋とはかけ離れた、虫の死骸や壊れた人形が転がる薄暗い部屋に横たわっている。ふと隅に目をやると、そこにはガラスケースに収められた白兎の剥製が。兎は自らの意思で動き出し、釘で固定された両腕を引き抜いて騎士の装いを身に纏う。彼は鋼鉄の裁ちばさみを携え、岩と土くれが漠々と広がる荒野へ駆け出すのだ。彼を追って飛び出すアリスは、緩やかな丘の上に1脚の机を見つけ、その引き出しから遥かな地下の国へ迷い込む。
インスパイアということで、細部に渡って「原作」からのアレンジが加えられている点もこの映画の魅力だ。アリスが不思議の国へ向かう直接の入り口である「兎の穴」は、本作では歪な木製エレベータへと変更されている。巨大な歯車で緩やかに下降するそれは正面の壁が抜けており、階層ごとに並ぶ棚には様々な物が並んでいる。ジェニー・ハーニバス(合成標本)や瓶詰めの画鋲、捨てられた人形など。
エレベータは加速する。「Exit」と書かれた階層を過ぎたあたりでアリスは床を突き破り、直下の部屋へと投げ出される。このエレベータはシンドラー社製に違いない。ここから、アリスにとって文字通りの悪夢が始まるのだ。この映画が一部の層から「少女いじめ」と反発を買う原因も、ひとえにシュヴァンクマイエルの子供じみた――それ故にリアルな――ガジェットへの偏愛がある。壊れかけていたり、理不尽な改造を施されていたり……。それに付き合わされるアリスは堪ったものではない。
この映画でアリス役を演じるのは、クリスティーナ・コホウトヴァーという女の子だ。いつ、どこで生まれたのか判然とせず、ネットを適当に探してみてもバイオグラフィーらしきものは見当たらない。ただ、見た感じは7、8歳ぐらいで、ふんわりとした金髪に大きなグリーンの瞳が特徴的な、恐ろしく可愛い子だ。まさしくそれは、絵に描いたような金髪幼女であり、近代映画史上5本の指に入る美少女子役と言って過言ではない。
この150年で数多のジャンルにおいて試みられた「実写アリス」のどれをも凌駕する、クリスティーナ・コホウトヴァー演じる「アリス」。演技過剰で妙に大人びていたり、どんな困難にぶち当たっても頭の弱い子みたいに終始ニコニコ笑っていたり、そういうハリウッド的な不自然さがまったく見られない。劇中はほとんど仏頂面で、演技もまったく素に近い状態である。フナムシの缶詰に本気で驚いていたり、固い引き出しを無理矢理こじ開けようと必死の形相を見せたり、とにかく「素顔のアリス」が文句なしに素晴らしい。
シュヴァンクマイエルはアップを多用する監督としても知られている。季刊コミッカーズ2001年秋号のインタビュー記事において彼は、「私にとって全体は静的なもの、細部は動的なもの」と述べており、物や人の動きを直接的に見せる手段としてアップを使っていることが分かる。
ともあれ、劇中においてクリスティーナ・コホウトヴァーちゃんのドアップが度々映し出されるものだから、変態には堪らない映画だ。それこそ耳の穴から足の指先に至るまで、およそクローズアップされない部分はない。(ある種の人にとって)妙齢の金髪幼女を全方位から、あらゆる部位をズームするシュヴァンクマイエルのカメラは、もはや静と動のバランス云々というよりも、凝視のそれに近い病的なフレームワークである。
また、パンチラどころかパンモロがあったり、スカートが胸の辺りまでたくし上げられていろんな部分が丸出しになったり、凝視というか窃視の方面でも十二分に満たされることうけあいである。もっとも、これらは狙って撮られた絵ではなく、単純に構図の問題や撮影中のハプニングなのであるが、そこがまた素敵。エコールとかいう退屈な映画を撮った誰かさんにはぜひとも見習っていただきたいものだ。後ろめたいエロスを排したノスタルジーなど、どこにもありはしない。
ある方面では、この作品をして「ロリコンの好みじゃないと思う。グロいし、暗いし」などと囁かれているのだが、とんでもない話だ。変態を舐めてもらっちゃ困る。たしかに、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールちゃんは俺の嫁、などとのたまう2次元専科のエセ変態には辛い作品かもしれないが、我が国古来の稚児趣味の正統な継承者である現代ロリコンにとっては、文字通り「夢のような」映画なのだ。
幼年期は忘れるものでこそあれ、失うものではない。谷の底に落として永遠に取り戻せない時間ではなく、部屋のどこかに仕舞い込んでその在り処を忘れてしまった記憶のひとつに過ぎない。これに因れば、小児性愛とは、物覚えが悪い懐古主義者の極論であるとも言える。
観念の話はしていない。多くの小児性愛者にとって、彼らの幼年期は美化されている。実際の生活が幸福であったか不幸であったかに拘らず、義務や責任といった社会性から遠く離れた場所で社会の庇護を受けるという矛盾した存在の「子供」を、彼らは信仰の対象としている。Wikipedia日本版には「子供に性的夢想を抱く人間」と表現されているが、言い得て妙といったところだろう。
「子供というのは、教育者的立場よりむしろ小児性愛者の観点からの方がよりよく理解出来る」とは、ルイス・キャロルを指して言ったシュヴァンクマイエル自身の言。彼もまた、この言に則って「子供の世界」を再現せしめたアーティストのひとりなのだろうか。私見によると、小児性愛者とは子供になろうとする者のことである。
『アリス』は、ヤン・シュヴァンクマイエル監督の長編デビュー作だ。それまでショートフィルムばかり撮っていたシュヴァンクマイエルが満を持してベルリン映画祭へ出品した本作は、第1作とは思えないほど冷静な作りであり、この手のクレイアニメを初見の人にも概ね評判がいい。2000年に発売された最初のDVDは長らく廃盤となっていたが、最近トールケースで再版されている。アート映画だからと身構えず、紅茶にクッキーなど頂きながら深夜にダラダラと見るのがお勧めだ。
原題 “Něco z Alenky”
1987年 スイス・西独・英国合作
ヤン・シュヴァンクマイエル監督
スメタナの祖国が生んだ地上最強の少女映画
昔、繰り返し読んでいた童話がある。ハンス・クリスチャン・アンデルセン作『眠りの精のオーレ・ルゲイエ』。図鑑ほどのサイズもあるアンデルセン全集で、私はこの話ばかりを読んでいた。
中国の女性とチャットをしたとき、子供の頃にいちばん印象深かった本は何か、という話になり、私はアンデルセンの名を挙げた。「へえ、偶然。私もなの」と彼女は言い、好きな場面やエピソードを矢継ぎ早に畳み掛けてきた。私は内心焦った。いちばん印象深いのは間違いないが、憶えている話といえば「オーレ・ルゲイエ」だけなのだ。
殴れば人も殺せそうな童話全集の中で「オーレ・ルゲイエ」だけを何度も読み、逆にそれ以外の話は鼻歌雑じりで斜めに眺めただけ。『赤い靴』の主人公が何色の靴を履いていたかも憶えていない有様だ。彼女は『人魚姫』がお気に入りだと言ったが、はてそのお姫様が魔女にもらったものは手か足か。いや、髪の毛だったかな?
「オーレ・ルゲイエ」は夢の物語だ。オーレは北欧の伝承に登場する睡魔の一種で、彼の持つ魔法のミルクを瞳に受けた子供はたちまち深い眠りに落ちる。物語では、7晩の夢の冒険をする少年が登場し、絵画の中の泉からオモチャの兵隊の結婚式まで様々な場所を探訪した。子供にとって、もっとも身近でアクセスしやすい非現実は夢である。ディズニーアニメのように、魔法の粉に包まれて異世界を冒険するといった趣ではなく、あくまでも「身近」なファンタジーとして夢は有効的だ。
子供の世界と夢は親和性が高い。この手の物語が古来から独特の魅力を放ってきたのも、夢が単純な非現実ではなく、それが紛れもない現実の一部だったからであろう。たとえば空を飛ぶ夢にしても、一足飛びで深宇宙の彼方へジャンプできるというものではなく、電柱の高さ以上は浮遊できないとか、何か道具を使わなければ飛行できないとか、理不尽な制約があるのも夢の魅力である。
近年もっとも成功を収めた夢の物語といえば『不思議の国のアリス』であり、そのパロディという断り書きがありながら類例を遥かに引き離すクオリティを見せた実写映画が、チェコのヤン・シュヴァンクマイエル監督による『アリス』である。本場英国でさえ「アリスの実写化」には微妙な作品が多い中、自らの幼児体験を下地に複雑怪奇で幻想的なワンダーランドを構築してみせたシュヴァンクマイエルは、童話フリークやシュルレアリストに感嘆と称賛の嵐をもって迎えられた。
シュヴァンクマイエルの『アリス』は、ルイス・キャロルこと数学講師チャールズ・ドジソンによる童話『不思議の国アリス』を念頭に置いてはいるものの、その完全な実写映画化作品ではない。冒頭で“Inspired by Lewis Carroll's Alice In Wonderland”とクレジットされているように、あくまでもパクリ、じゃなくてインスパイア作品であるとのことだ。オマージュとかリスペクトとか、ああいう感じである。飲ま飲まイエイである。
シュヴァンクマイエルは、この映画を自らのプライベートフィルムと位置づけている。3年の歳月を経て作り上げられた彼の「アリス」は、彼自身の幼年期の暗喩なのだそうだ。シュヴァンクマイエルへのインタビューを掲載した『アリス』のライナーノーツが手元にあるが、彼はその中でこう述べていた。
「私は未だかつて自分の幼年期を、何かもう既に過ぎ去ったもの、何処かに置き去りにして来たものとして見たことは一度もありません」
彼の「アリス」は冒頭、英国流のポップでカラフルな子供部屋とはかけ離れた、虫の死骸や壊れた人形が転がる薄暗い部屋に横たわっている。ふと隅に目をやると、そこにはガラスケースに収められた白兎の剥製が。兎は自らの意思で動き出し、釘で固定された両腕を引き抜いて騎士の装いを身に纏う。彼は鋼鉄の裁ちばさみを携え、岩と土くれが漠々と広がる荒野へ駆け出すのだ。彼を追って飛び出すアリスは、緩やかな丘の上に1脚の机を見つけ、その引き出しから遥かな地下の国へ迷い込む。
インスパイアということで、細部に渡って「原作」からのアレンジが加えられている点もこの映画の魅力だ。アリスが不思議の国へ向かう直接の入り口である「兎の穴」は、本作では歪な木製エレベータへと変更されている。巨大な歯車で緩やかに下降するそれは正面の壁が抜けており、階層ごとに並ぶ棚には様々な物が並んでいる。ジェニー・ハーニバス(合成標本)や瓶詰めの画鋲、捨てられた人形など。
エレベータは加速する。「Exit」と書かれた階層を過ぎたあたりでアリスは床を突き破り、直下の部屋へと投げ出される。このエレベータはシンドラー社製に違いない。ここから、アリスにとって文字通りの悪夢が始まるのだ。この映画が一部の層から「少女いじめ」と反発を買う原因も、ひとえにシュヴァンクマイエルの子供じみた――それ故にリアルな――ガジェットへの偏愛がある。壊れかけていたり、理不尽な改造を施されていたり……。それに付き合わされるアリスは堪ったものではない。
この映画でアリス役を演じるのは、クリスティーナ・コホウトヴァーという女の子だ。いつ、どこで生まれたのか判然とせず、ネットを適当に探してみてもバイオグラフィーらしきものは見当たらない。ただ、見た感じは7、8歳ぐらいで、ふんわりとした金髪に大きなグリーンの瞳が特徴的な、恐ろしく可愛い子だ。まさしくそれは、絵に描いたような金髪幼女であり、近代映画史上5本の指に入る美少女子役と言って過言ではない。
この150年で数多のジャンルにおいて試みられた「実写アリス」のどれをも凌駕する、クリスティーナ・コホウトヴァー演じる「アリス」。演技過剰で妙に大人びていたり、どんな困難にぶち当たっても頭の弱い子みたいに終始ニコニコ笑っていたり、そういうハリウッド的な不自然さがまったく見られない。劇中はほとんど仏頂面で、演技もまったく素に近い状態である。フナムシの缶詰に本気で驚いていたり、固い引き出しを無理矢理こじ開けようと必死の形相を見せたり、とにかく「素顔のアリス」が文句なしに素晴らしい。
シュヴァンクマイエルはアップを多用する監督としても知られている。季刊コミッカーズ2001年秋号のインタビュー記事において彼は、「私にとって全体は静的なもの、細部は動的なもの」と述べており、物や人の動きを直接的に見せる手段としてアップを使っていることが分かる。
ともあれ、劇中においてクリスティーナ・コホウトヴァーちゃんのドアップが度々映し出されるものだから、変態には堪らない映画だ。それこそ耳の穴から足の指先に至るまで、およそクローズアップされない部分はない。(ある種の人にとって)妙齢の金髪幼女を全方位から、あらゆる部位をズームするシュヴァンクマイエルのカメラは、もはや静と動のバランス云々というよりも、凝視のそれに近い病的なフレームワークである。
また、パンチラどころかパンモロがあったり、スカートが胸の辺りまでたくし上げられていろんな部分が丸出しになったり、凝視というか窃視の方面でも十二分に満たされることうけあいである。もっとも、これらは狙って撮られた絵ではなく、単純に構図の問題や撮影中のハプニングなのであるが、そこがまた素敵。エコールとかいう退屈な映画を撮った誰かさんにはぜひとも見習っていただきたいものだ。後ろめたいエロスを排したノスタルジーなど、どこにもありはしない。
ある方面では、この作品をして「ロリコンの好みじゃないと思う。グロいし、暗いし」などと囁かれているのだが、とんでもない話だ。変態を舐めてもらっちゃ困る。たしかに、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールちゃんは俺の嫁、などとのたまう2次元専科のエセ変態には辛い作品かもしれないが、我が国古来の稚児趣味の正統な継承者である現代ロリコンにとっては、文字通り「夢のような」映画なのだ。
幼年期は忘れるものでこそあれ、失うものではない。谷の底に落として永遠に取り戻せない時間ではなく、部屋のどこかに仕舞い込んでその在り処を忘れてしまった記憶のひとつに過ぎない。これに因れば、小児性愛とは、物覚えが悪い懐古主義者の極論であるとも言える。
観念の話はしていない。多くの小児性愛者にとって、彼らの幼年期は美化されている。実際の生活が幸福であったか不幸であったかに拘らず、義務や責任といった社会性から遠く離れた場所で社会の庇護を受けるという矛盾した存在の「子供」を、彼らは信仰の対象としている。Wikipedia日本版には「子供に性的夢想を抱く人間」と表現されているが、言い得て妙といったところだろう。
「子供というのは、教育者的立場よりむしろ小児性愛者の観点からの方がよりよく理解出来る」とは、ルイス・キャロルを指して言ったシュヴァンクマイエル自身の言。彼もまた、この言に則って「子供の世界」を再現せしめたアーティストのひとりなのだろうか。私見によると、小児性愛者とは子供になろうとする者のことである。
『アリス』は、ヤン・シュヴァンクマイエル監督の長編デビュー作だ。それまでショートフィルムばかり撮っていたシュヴァンクマイエルが満を持してベルリン映画祭へ出品した本作は、第1作とは思えないほど冷静な作りであり、この手のクレイアニメを初見の人にも概ね評判がいい。2000年に発売された最初のDVDは長らく廃盤となっていたが、最近トールケースで再版されている。アート映画だからと身構えず、紅茶にクッキーなど頂きながら深夜にダラダラと見るのがお勧めだ。
原題 “Něco z Alenky”
1987年 スイス・西独・英国合作
ヤン・シュヴァンクマイエル監督

『わたしを離さないで』
慈愛と哀しみに満ちた、もうひとつの世紀末
彼女の思い出は誰かの人生となりうるか?
子供の頃、歩いて4、5分の近所に友達がいた。用もないのに互いの家を行き来し、自転車で連れ立っては近くの動物園でソフトクリームを食べ、「学研の科学」の付録を一緒に組み立てる。そういう友達だ。
随分近くにあるのに何年も歩いていない道、というものが誰にでもあると思う。今の私にしてみれば、友人の家はそんな場所の一角にあり、先日気まぐれにその道を歩いてみた。憶えている限り十数年ぶりだ。歩こうと思えばいつでも歩けるのに、私はそうしなかった。その場所に格別嫌な思い出があるとか、放し飼いの猛犬が道を塞いでいるとか、そういうわけではない。私の家は坂の上にあるが、友人の家はさらに急な坂道を登った場所にあった。要するに面倒くさかったのだ。
友人とは、彼が遠方の寮制学校へ進学して以来会っていない。携帯電話なんかが普及する前のことだから、今となっては彼がどこで何をやっているのかも知らない。彼の家族とも、彼が単身遠くへ行ってからなんとなく疎遠になり、これまた十数年会っていない。親交のあった2つの家族が、ある時期を境に赤の他人になったと言えば分かりやすいかもしれない。
久しぶりに友人の家を訪ねた私は、暫し面を食らう。そこは当時の面影を残したまま、無人の廃屋と化していた。窓という窓がブルーシートで覆われ、壁は所どころ崩れており、猫の仔1匹住んでいる気配がない(昔は3匹の猫が飼われていた)。いつからこの様なのか。そういえば、数年前の冬に遠目で玄関付近を眺めたところ、階段の積雪がそのまま残されていて、そのときすでに人が出入りしている気配はなかった。
廃屋の前に立って周りを眺めているうち、だんだんと奇妙な気分になる。長い旅行から帰って馴染みの公園に行き、砂場で数日前の自分の足跡を発見した子供のような気分。自分が去ってからというもの、誰にも省みられることがなかった場所。なまじ新しい住人がいなかっただけに、そういう思いは一層強くなる。昔の写真を眺めるよりも、当時の記憶が鮮烈に蘇る。
連休明けの職場で自分の机がなくなっていようが、納めたはずの国民年金が給付されまいが、自分という人間はたしかに存在している。出会いや別れ、獲得と喪失を繰り返し、幸も不幸も経験してその存在は確固たるものとなる。社会的な価値や理由は、そうした現実存在(実存)を修飾するための方便に過ぎない――これを哲学の方面で「実存は本質に先立つ」などと言う。目に見える自分を認めてそれを活かせ、人間は魂(本質)の容れ物ではない、というわけだ。
無神論などでしばしば用いられる概念であるが、これをテーマとした文芸作品で近年もっとも重要なタイトルといえば、英国人作家カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』ではないだろうか。SF的な舞台設定にも拘らず過度なドラマは避け、ある女性の回想という形を取って展開されるその物語世界には、不思議と宗教的な「安らぎ」が通底している。
神の慈愛と実存主義、相容れないはずの両者が同じ根から出た2本の枝葉のように寄り添って見える理由は、何も彼がブッカー賞受賞にかこつけて女王陛下に見初められたというわけではあるまい。また、女性の回想文という設定から来るフェミニンな「安らぎ」でもないようだ。その原因は、彼が作り出した物語世界そのものにあると私はみている。
1990年代末のイギリス。31歳のキャシー・Hは「提供者」と呼ばれる特殊な人々の介護に携わっている。彼女はこの道11年のキャリアであるが、その役目もあと数ヶ月で終えようというところだ。退職間際の彼女が思い起こすのは、かつて自分がいた「ヘールシャム」と、そこで共に育った仲間たちのこと。美術教育に特化したその不可思議な養育施設で、彼女は親代わりの「保護官」たちに見守られながら子供時代を過ごしている。
このように、物語の導入では「ヘールシャム」で過ごしたキャシーの少女時代が描かれる。いわゆる寄宿舎物と言っていいかもしれない。「ヘールシャム」には肉親を欠いた――社会的な意味ではなく、生理的に――特殊な子供たちが集められ、それはある種の施策に則って運用されている。彼らは規則的な寮生活を送り、決められたテリトリーから出ることを許されていない。また、部外者が「ヘールシャム」に入ることもタブーだ。
唯一の例外として、「マダム」と呼ばれる謎の女性が年に数度「ヘールシャム」を出入りし、生徒たちが授業で作り上げた美術品の数々を持ち去っていく。マダムのめがねに適うことは、生徒たちにとって大変な名誉らしい。彼らは、持ち去られた作品群が「マダムの展示館」に整然と並べられる、と信じている。
やがて小説は、何かをひた隠す「保護官」たちの不穏な言動や、「ヘールシャム」出身者を色目で眺める他施設の若者たちへとフォーカスし、英国が、あるいはこの世界全体が見ないふりをしてきた理不尽な真実へと突き当たる。「提供者」とは何か? 孤児たちの間で都市伝説のように語り継がれる「ヘールシャム」出身者だけの特権とは? 子供たちの美術品を収集していたマダムの真意は?
イシグロがこの小説へ着想したのは、今から17年も前だそうだ。その頃は、核兵器で短い生涯を終える英国の若者たちを描いた、ある種の終末物として構想されていたらしい。しかし、1997年に現実のニュースとして取り沙汰され、バチカンが非難声明まで出したある事件によって、今日我々が見る長編小説『わたしを離さないで』が誕生したのだという。このあたりの経緯は去年の読売新聞に掲載されたインタビュー記事に詳しい。
まがりなりにもハードコアな文学者として知られるイシグロがサイエンス・フィクション的な舞台設定を行ったのは、この作品に対する数多の書評で伝家の宝刀のように振りかざされる「科学万能主義への警鐘」や、「人類の未来を憂慮」した結果ではあるまい。それにしては話題の中心が個人の言動へ偏りすぎてしまっている(というか、そういう書評を出す連中は本当にこの小説を読んだのかと小一時間問いたい)。
とどのつまり、そういうキャッチーな舞台設定の真意は、誰の目にも荒唐無稽な世界観を、身分も境遇も異なる読み手1人ひとりの生活のメタファーとして機能させたかったというところだろう。スリップストリームと呼ばれるオーバージャンルな作品ではよくある手法だ。事実、上記のインタビュー記事でイシグロは、これらの世界観がさして重要ではなく、そこから連想されるであろう映画的なムードやアクションも意図的に排したと断じている。不必要とまでは言わないが、カルチャー雑誌の誌面を割いてオタク的に深読みするほどの背景ではない。
その代わりに読み手を圧倒するのは、主人公キャシーが回想する子供時代の小話の数々である。モデルの存在を意識せざるを得ないほど緻密に、しかし叙情的に書かれたそれは、数珠のように紡ぎ上げられた苦楽のひと粒ひと粒であり、Hという暗号姓を持つ1人の女性の壮絶な人生を彩るピースである。
そして、この小説を一読した私が抱いた感慨――神性と実存の相似形――の正体は、この物語が主人公キャシー・Hの回想ということ以上に、彼女が死にゆく「提供者」の1人へ語り聞かせた「噺」だということだ。『異邦人』の真の主人公はムルソーの裁判で彼の半生を目撃した新聞記者、という説があるように、『わたしを離さないで』の一人称は実はキャシーではなく、彼女の思い出話を根掘り葉掘り聞き、それを自分のものにしようとした瀕死の「提供者」ではないのか。ちょうど、神父にキリストの復活を説かれてリラックスする死刑囚のように。
物語の冒頭でキャシーに介護されている名もなき「提供者」は、彼女のような恵まれた出身ではない。国営の粗末な「ホーム」で育ち、思い出らしい思い出など何ひとつないまま自らの「使命」へ邁進した彼は、その生涯を終えようという間際に怖気づく。死の恐怖ではない。幸も不幸もなく、無味乾燥な人生を送った自らの魂に対する空虚感だ。同じ「使命」を持ちながら、大多数の英国民がそうであるような黄金の幼年期を過ごしたキャシーに対し、彼は羨望よりシビアな渇望を露にして、彼女の思い出話へ聞き耽る。天国への階段を昇るには豊かな魂が要る、とでも言わんばかりに。
「人の一生は私たちが思っているよりずっと短く、限られた短い時間の中で愛や友情について学ばなければならない。いつ終わるかも知れない時間の中でいかに経験するか。このテーマは、私の小説の根幹に一貫して流れています」
――カズオ・イシグロ 2006年6月12日、読売新聞のインタビューで
尚、『わたしを離さないで』という題名は、作中に登場する歌の名前でもある。「ヘールシャム」のリサイクルバザーで買ったカセットテープに収録されているこの曲を、幼いキャシーは体を揺らしながら何度も聴く。彼女は、「……オー、ベイビー、ネバー・レット・ミー・ゴー、わたしを離さないで……」とリフレインするこの歌に、ある光景を重ねているのだ。
それは、字面から想像できるような、恋人同士のくんずほぐれつなどという話ではなく、まだ見ぬ肉親の幻影でもない。あるものを生来の「使命」と引き換えに喪失している幼い少女が夢見た、キュートで物悲しいビジョンなのである。
原題 “Never Let Me Go”
2006年 早川書房
カズオ・イシグロ 著
彼女の思い出は誰かの人生となりうるか?
子供の頃、歩いて4、5分の近所に友達がいた。用もないのに互いの家を行き来し、自転車で連れ立っては近くの動物園でソフトクリームを食べ、「学研の科学」の付録を一緒に組み立てる。そういう友達だ。
随分近くにあるのに何年も歩いていない道、というものが誰にでもあると思う。今の私にしてみれば、友人の家はそんな場所の一角にあり、先日気まぐれにその道を歩いてみた。憶えている限り十数年ぶりだ。歩こうと思えばいつでも歩けるのに、私はそうしなかった。その場所に格別嫌な思い出があるとか、放し飼いの猛犬が道を塞いでいるとか、そういうわけではない。私の家は坂の上にあるが、友人の家はさらに急な坂道を登った場所にあった。要するに面倒くさかったのだ。
友人とは、彼が遠方の寮制学校へ進学して以来会っていない。携帯電話なんかが普及する前のことだから、今となっては彼がどこで何をやっているのかも知らない。彼の家族とも、彼が単身遠くへ行ってからなんとなく疎遠になり、これまた十数年会っていない。親交のあった2つの家族が、ある時期を境に赤の他人になったと言えば分かりやすいかもしれない。
久しぶりに友人の家を訪ねた私は、暫し面を食らう。そこは当時の面影を残したまま、無人の廃屋と化していた。窓という窓がブルーシートで覆われ、壁は所どころ崩れており、猫の仔1匹住んでいる気配がない(昔は3匹の猫が飼われていた)。いつからこの様なのか。そういえば、数年前の冬に遠目で玄関付近を眺めたところ、階段の積雪がそのまま残されていて、そのときすでに人が出入りしている気配はなかった。
廃屋の前に立って周りを眺めているうち、だんだんと奇妙な気分になる。長い旅行から帰って馴染みの公園に行き、砂場で数日前の自分の足跡を発見した子供のような気分。自分が去ってからというもの、誰にも省みられることがなかった場所。なまじ新しい住人がいなかっただけに、そういう思いは一層強くなる。昔の写真を眺めるよりも、当時の記憶が鮮烈に蘇る。
連休明けの職場で自分の机がなくなっていようが、納めたはずの国民年金が給付されまいが、自分という人間はたしかに存在している。出会いや別れ、獲得と喪失を繰り返し、幸も不幸も経験してその存在は確固たるものとなる。社会的な価値や理由は、そうした現実存在(実存)を修飾するための方便に過ぎない――これを哲学の方面で「実存は本質に先立つ」などと言う。目に見える自分を認めてそれを活かせ、人間は魂(本質)の容れ物ではない、というわけだ。
無神論などでしばしば用いられる概念であるが、これをテーマとした文芸作品で近年もっとも重要なタイトルといえば、英国人作家カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』ではないだろうか。SF的な舞台設定にも拘らず過度なドラマは避け、ある女性の回想という形を取って展開されるその物語世界には、不思議と宗教的な「安らぎ」が通底している。
神の慈愛と実存主義、相容れないはずの両者が同じ根から出た2本の枝葉のように寄り添って見える理由は、何も彼がブッカー賞受賞にかこつけて女王陛下に見初められたというわけではあるまい。また、女性の回想文という設定から来るフェミニンな「安らぎ」でもないようだ。その原因は、彼が作り出した物語世界そのものにあると私はみている。
1990年代末のイギリス。31歳のキャシー・Hは「提供者」と呼ばれる特殊な人々の介護に携わっている。彼女はこの道11年のキャリアであるが、その役目もあと数ヶ月で終えようというところだ。退職間際の彼女が思い起こすのは、かつて自分がいた「ヘールシャム」と、そこで共に育った仲間たちのこと。美術教育に特化したその不可思議な養育施設で、彼女は親代わりの「保護官」たちに見守られながら子供時代を過ごしている。
このように、物語の導入では「ヘールシャム」で過ごしたキャシーの少女時代が描かれる。いわゆる寄宿舎物と言っていいかもしれない。「ヘールシャム」には肉親を欠いた――社会的な意味ではなく、生理的に――特殊な子供たちが集められ、それはある種の施策に則って運用されている。彼らは規則的な寮生活を送り、決められたテリトリーから出ることを許されていない。また、部外者が「ヘールシャム」に入ることもタブーだ。
唯一の例外として、「マダム」と呼ばれる謎の女性が年に数度「ヘールシャム」を出入りし、生徒たちが授業で作り上げた美術品の数々を持ち去っていく。マダムのめがねに適うことは、生徒たちにとって大変な名誉らしい。彼らは、持ち去られた作品群が「マダムの展示館」に整然と並べられる、と信じている。
やがて小説は、何かをひた隠す「保護官」たちの不穏な言動や、「ヘールシャム」出身者を色目で眺める他施設の若者たちへとフォーカスし、英国が、あるいはこの世界全体が見ないふりをしてきた理不尽な真実へと突き当たる。「提供者」とは何か? 孤児たちの間で都市伝説のように語り継がれる「ヘールシャム」出身者だけの特権とは? 子供たちの美術品を収集していたマダムの真意は?
イシグロがこの小説へ着想したのは、今から17年も前だそうだ。その頃は、核兵器で短い生涯を終える英国の若者たちを描いた、ある種の終末物として構想されていたらしい。しかし、1997年に現実のニュースとして取り沙汰され、バチカンが非難声明まで出したある事件によって、今日我々が見る長編小説『わたしを離さないで』が誕生したのだという。このあたりの経緯は去年の読売新聞に掲載されたインタビュー記事に詳しい。
まがりなりにもハードコアな文学者として知られるイシグロがサイエンス・フィクション的な舞台設定を行ったのは、この作品に対する数多の書評で伝家の宝刀のように振りかざされる「科学万能主義への警鐘」や、「人類の未来を憂慮」した結果ではあるまい。それにしては話題の中心が個人の言動へ偏りすぎてしまっている(というか、そういう書評を出す連中は本当にこの小説を読んだのかと小一時間問いたい)。
とどのつまり、そういうキャッチーな舞台設定の真意は、誰の目にも荒唐無稽な世界観を、身分も境遇も異なる読み手1人ひとりの生活のメタファーとして機能させたかったというところだろう。スリップストリームと呼ばれるオーバージャンルな作品ではよくある手法だ。事実、上記のインタビュー記事でイシグロは、これらの世界観がさして重要ではなく、そこから連想されるであろう映画的なムードやアクションも意図的に排したと断じている。不必要とまでは言わないが、カルチャー雑誌の誌面を割いてオタク的に深読みするほどの背景ではない。
その代わりに読み手を圧倒するのは、主人公キャシーが回想する子供時代の小話の数々である。モデルの存在を意識せざるを得ないほど緻密に、しかし叙情的に書かれたそれは、数珠のように紡ぎ上げられた苦楽のひと粒ひと粒であり、Hという暗号姓を持つ1人の女性の壮絶な人生を彩るピースである。
そして、この小説を一読した私が抱いた感慨――神性と実存の相似形――の正体は、この物語が主人公キャシー・Hの回想ということ以上に、彼女が死にゆく「提供者」の1人へ語り聞かせた「噺」だということだ。『異邦人』の真の主人公はムルソーの裁判で彼の半生を目撃した新聞記者、という説があるように、『わたしを離さないで』の一人称は実はキャシーではなく、彼女の思い出話を根掘り葉掘り聞き、それを自分のものにしようとした瀕死の「提供者」ではないのか。ちょうど、神父にキリストの復活を説かれてリラックスする死刑囚のように。
物語の冒頭でキャシーに介護されている名もなき「提供者」は、彼女のような恵まれた出身ではない。国営の粗末な「ホーム」で育ち、思い出らしい思い出など何ひとつないまま自らの「使命」へ邁進した彼は、その生涯を終えようという間際に怖気づく。死の恐怖ではない。幸も不幸もなく、無味乾燥な人生を送った自らの魂に対する空虚感だ。同じ「使命」を持ちながら、大多数の英国民がそうであるような黄金の幼年期を過ごしたキャシーに対し、彼は羨望よりシビアな渇望を露にして、彼女の思い出話へ聞き耽る。天国への階段を昇るには豊かな魂が要る、とでも言わんばかりに。
「人の一生は私たちが思っているよりずっと短く、限られた短い時間の中で愛や友情について学ばなければならない。いつ終わるかも知れない時間の中でいかに経験するか。このテーマは、私の小説の根幹に一貫して流れています」
――カズオ・イシグロ 2006年6月12日、読売新聞のインタビューで
尚、『わたしを離さないで』という題名は、作中に登場する歌の名前でもある。「ヘールシャム」のリサイクルバザーで買ったカセットテープに収録されているこの曲を、幼いキャシーは体を揺らしながら何度も聴く。彼女は、「……オー、ベイビー、ネバー・レット・ミー・ゴー、わたしを離さないで……」とリフレインするこの歌に、ある光景を重ねているのだ。
それは、字面から想像できるような、恋人同士のくんずほぐれつなどという話ではなく、まだ見ぬ肉親の幻影でもない。あるものを生来の「使命」と引き換えに喪失している幼い少女が夢見た、キュートで物悲しいビジョンなのである。
原題 “Never Let Me Go”
2006年 早川書房
カズオ・イシグロ 著

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