『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』
RPGの常識を塗り替えた大河ストーリー
息子よ、孫よ、俺の屍を越えてゆけ!
CIAとFBIの違いはXファイルで覚えた。型の違う血液を混ぜると固まることを手塚治虫の漫画で読み、呼吸を整えると健康に良いことはジョジョの奇妙な冒険で知った。石鹸が回りくどい工業製品であることをファイト・クラブで、マクドナルドの店員に未来がないことをダグラス・クープランドの小説で学んだ。
私はギャンブルをやらない。パチスロは誘われても断るし、麻雀はルールすら知らず、宝くじにも国民年金にも興味がない。なぜなら、それらが徒労であることをドラゴンクエストで学んだからだ。
1990年発売の『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』には致命的なバグがあった。カジノでコインを買うときに「838861」と指定すれば、タダみたいな金額で同枚数を購入できた上、ルール通りに各種の貴重なアイテムと交換できるというものだ。
Wikipediaによると、24ビット整数のオーバーフロー現象などという暗号みたいな理由が書かれているが、要するにプログラム上のバグだろう(当時私は製作サイドが設定した裏技だと思っていた)。小学生のときに買ったドラクエIV公式ガイドブックの裏表紙には、赤ボールペンで当時自分が書いたであろう「838861まい」という字が消えずに残っている。
さて、続編の『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』である。当時の最新鋭ゲームハード「スーパーファミコン」で発売されたこのタイトルには、気がかりなことがひとつあった。ずばり「カジノであの裏技は使えるか?」……。常識的に考えて、他ハード且つ他タイトルで環境依存の裏技が使えるわけがないのだが、当時私は子供だったし、なんとなく「使えるかもしれない」などと期待していた。
結局、旧ハードで出た前タイトルの裏技など使えるはずもなく、コイン売り場のお姉ちゃんに「お金が足りませんわ」などとカードを忘れた成金オヤジみたいなことを言われて愕然とした記憶がある。一度カジノを出て教会でセーブし、「鋼鉄の剣」を買うお金でコインを購入しスライムレースなどやってみたけれど、当たる当たらないということ以前に「カジノ、つまんねえ」と勝手なことを呟いた上、リセットして本筋に専念した。要するに、イカサマができないギャンブルは私に向いていなかったのだ。
さて、最近その『V』がプレイステーション2でリメイク発売された。このブログのアカウントに懸けて誓うが、ドラクエファンでリメイクVをやっていない人間は人生の8割9分6厘を損している、と断言したい。カジノの裏技云々ということではなく、純粋に面白いのだ。
旧作のリメイクというと、どうしても「見てくれは良くなったけど中身は変わらん、むしろ余計な調整が入ってつまんねえ。ネクロゴンドの洞窟はマヒ攻撃で全滅するのが醍醐味じゃねえか」などと、古参ゲーマーという名の懐古オヤジが文句タラタラ言い出すのが定石であるが、PS2版ドラクエVに関してそういうネガティブな評価はほとんど聞かない。
スーファミ版でいちばんの不満点だったであろう3人パーティ制限も撤廃され、いつものドラクエよろしく4人戦闘が可能になっている。ただしその分モンスターの同時出現数が増え、序盤の攻略で苦しくなる場面もあろうが、それこそが本来のドラクエと割り切れば何ということはない。廃城探検の前にブーメラン(全体攻撃武器)を買う甲斐性ぐらいなくては、このゲームはとてもやっていけないだろう。
また、サウンドトラックがフルオーケストラに変更されており、旧ハードのピコピコ音では表現し切れなかったすぎやまこういちサウンドが前面に出ているのも嬉しい改良点だ。音源の大半はNHK交響楽団演奏の『交響組曲 ドラゴンクエストV』からのもので、同盤に未収録の音源は他オケによる新規収録やシンセサイザー演奏などによって補われている。
そして、それらの改良点が霞むぐらい素晴らしいのが「会話システム」の導入だ。これは『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』で初めて組み込まれたシステムで、「話す」コマンドを空打ちすることによりパーティ内の仲間が場面に応じた台詞を喋るというもの。正直な話、『VII』やリメイク『IV』に導入された段階では蛇足に思えた会話システムであるが、このPS2版ドラクエVにおいては、物語へのめり込むために必要不可欠なものへと昇華されている。
今回の会話システムは、台詞のレパートリーが尋常じゃない。全部集めれば別のゲームのシナリオが1本書けてしまうのではないかと思うほど、各場面に応じた多種多様な台詞が用意されている。それはたとえば、町民Aの「西の海から禍々しい空気が感じられます」という話を聞いた直後、それに応じて「わたしも感じるの……くやしい……ビクンビクン」と仲間が喋りだすという具合。これまでのような、「新しい町」「新しいイベント」レベルではなく、町人1人ひとりに応じたリアクションまでもが楽しめるという、何人のプログラマを過労死させたか分からない凄まじいシステムに生まれ変わっている。
上記を踏まえた上で、今一度ドラゴンクエストVの基本へ立ち返ってみよう。このゲームは親子孫3代に渡る壮大な物語で、プレイヤーの分身たる主人公もシナリオに即して少年から青年へと成長を遂げる。そして、冒険のパートナーも各段階に応じて変遷する仕組みだ。
ここで話題に挙げたいのが2人の女の子である。物語で終始重要な役割を果たすビアンカの幼少期と、それに物語後半で仲間に加わる主人公の娘だ。序盤のビッグイベントであろう「レヌール城のお化け退治」では、いばらのムチを持った金髪幼女ビアンカと2人っきりで夜の大冒険をするという、これは何のメタファーだと叫びたくなるような通好みのシチュエーションを満喫できる。戦闘画面でビシバシと打ち鳴らされる幼女のムチ……。これはモンスターのほうも魔物冥利に尽きるといった感じではなかろうか。ちなみにビアンカちゃんの初期装備はナイフである。このままでは刃傷沙汰まっしぐらなので、必ずムチを買うこと。お店で。
そして物語の後半においては、成長した主人公が双子を授かる。男の子と女の子。ある事情で生まれてから8年間ずっと会えなかった我が子を「僕が君たちのパパだよ」と認知し、晴れて冒険の伴侶とする様は、ネグレクトで引き裂かれた親子の絆が今一度固く結ばれるようで何とも感動的である。
このパーティには主人公のお嫁さんも加わるため、さながら世の巨悪へ立ち向かう武闘派一家という風情だ。頑張って双子を育て始めたのに自治体からは補助金のホの字も出ねえ、こうなったら全面戦争だ! よーしてめえら、いろいろあったがこれからは共闘するぞ! 手始めに隣町で得物を調達だ! かくして血の気が多い一家は下僕(仲間モンスター)を引き連れ、身内(囚われのお婆ちゃん)の釈放ついでに厚生労働省ならぬ魔界へ殴り込みをかけるのである。
この、物語後半でパーティに加わる女の子が非常に可愛い。当節の流行語で言うところの萌えである。スーファミ版においては再会場面でちょろっと会話をする程度で、どことなく空気メンバー扱いだった主人公ジュニアであるが、今回は凄い。前述の会話システムのお陰で子供たちのキャラクターが非常に立っており、ロリコン(とショタコン)のチンコも勃ちっぱなしだ。
たとえば、女の子のほうは夜に弱いらしく、とっぷりと日も暮れた街を親子で散策していると「…………ぐう。……え、なんですか……? ちゃんと起きてます……」などと半死半生の状態である。
(*´ω`*) ←その台詞を見たときの私。
何? この子は父親に敬語を使うのかって? その通りである。何せ8歳で父親の顔を初めて見たのだ。ちょっとぐらいぎこちなくて当然だろう。というか、むしろそれがいい。「わたしお父さんとうまく話せるかな、とりあえず丁寧にお話してみようかなドキドキ」などという、背景に点描でも浮いてそうなシチュエーションが堪らなく素晴らしいのである。
カジノに連れて行けば「さっきね? 泣いてるおじさんがいたの……。お父さんは泣かないでね」と嬉しい気遣い。ストリップショーを見せれば「あんなお洋服で…。みんな見てるのに、はずかしくないの?」とムフフなリアクション。それが作戦なのだ娘よ(ガンガンいこうぜ)。お姫様役の舞台役者と話せば「わたしお姫さまだけど、あんなドレス着たことないです」などと、泣けることを言う。よーしパパ、お手伝いさんに子供用ドレス作らせちゃうぞー。
他にも、某所某イベントの直後に飛び出す「おにいちゃんのお嫁さん」発言や、踊り子のお姉さんの真似をして「今日はどうもお化粧の乗りが悪いわぁ。…なんでもないです。ちょっと言ってみたかっただけ……」と言う場面は、過酷な戦いの日々における一服の清涼剤と言っても過言ではない。
ちなみにこの子たちは、父親へ再会するまでにちょっとした旅を経験している。ストーリー上割愛されているが、これはもうスクウェア・エニックスが『ドラゴンクエストV外伝 パパをたずねて三千里』を出すしかないのではないか。ちょうど男の子と女の子が揃っているから、性別セレクトもできて実にドラクエらしい。
物語の出だしは『IV』の「おてんば姫の冒険」的に、何年も蒸発中の父親へしびれを切らした双子が「お父さんを探しに行く!」と家出。従者のサンチョが飛び出し「私めもお伴いたしますぞ!」とかなんとか言って3人パーティを結成する。父親にかけられた呪いを解く魔法の杖を求めて、いざ冒険の旅へ。意表を突いてアクションRPGなんかにすればかなりイケるのではないか。
と思ったら、スピンオフの漫画でそういう作品がすでにあるらしい。調べてみたら11巻もある。どれ、久々にビーケーワンで全巻漢買いするか……。
『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』 (PlayStation2)
2004年 マトリックス/アルテピアッツァ
スクウェア・エニックス発売
息子よ、孫よ、俺の屍を越えてゆけ!
CIAとFBIの違いはXファイルで覚えた。型の違う血液を混ぜると固まることを手塚治虫の漫画で読み、呼吸を整えると健康に良いことはジョジョの奇妙な冒険で知った。石鹸が回りくどい工業製品であることをファイト・クラブで、マクドナルドの店員に未来がないことをダグラス・クープランドの小説で学んだ。
私はギャンブルをやらない。パチスロは誘われても断るし、麻雀はルールすら知らず、宝くじにも国民年金にも興味がない。なぜなら、それらが徒労であることをドラゴンクエストで学んだからだ。
1990年発売の『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』には致命的なバグがあった。カジノでコインを買うときに「838861」と指定すれば、タダみたいな金額で同枚数を購入できた上、ルール通りに各種の貴重なアイテムと交換できるというものだ。
Wikipediaによると、24ビット整数のオーバーフロー現象などという暗号みたいな理由が書かれているが、要するにプログラム上のバグだろう(当時私は製作サイドが設定した裏技だと思っていた)。小学生のときに買ったドラクエIV公式ガイドブックの裏表紙には、赤ボールペンで当時自分が書いたであろう「838861まい」という字が消えずに残っている。
さて、続編の『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』である。当時の最新鋭ゲームハード「スーパーファミコン」で発売されたこのタイトルには、気がかりなことがひとつあった。ずばり「カジノであの裏技は使えるか?」……。常識的に考えて、他ハード且つ他タイトルで環境依存の裏技が使えるわけがないのだが、当時私は子供だったし、なんとなく「使えるかもしれない」などと期待していた。
結局、旧ハードで出た前タイトルの裏技など使えるはずもなく、コイン売り場のお姉ちゃんに「お金が足りませんわ」などとカードを忘れた成金オヤジみたいなことを言われて愕然とした記憶がある。一度カジノを出て教会でセーブし、「鋼鉄の剣」を買うお金でコインを購入しスライムレースなどやってみたけれど、当たる当たらないということ以前に「カジノ、つまんねえ」と勝手なことを呟いた上、リセットして本筋に専念した。要するに、イカサマができないギャンブルは私に向いていなかったのだ。
さて、最近その『V』がプレイステーション2でリメイク発売された。このブログのアカウントに懸けて誓うが、ドラクエファンでリメイクVをやっていない人間は人生の8割9分6厘を損している、と断言したい。カジノの裏技云々ということではなく、純粋に面白いのだ。
旧作のリメイクというと、どうしても「見てくれは良くなったけど中身は変わらん、むしろ余計な調整が入ってつまんねえ。ネクロゴンドの洞窟はマヒ攻撃で全滅するのが醍醐味じゃねえか」などと、古参ゲーマーという名の懐古オヤジが文句タラタラ言い出すのが定石であるが、PS2版ドラクエVに関してそういうネガティブな評価はほとんど聞かない。
スーファミ版でいちばんの不満点だったであろう3人パーティ制限も撤廃され、いつものドラクエよろしく4人戦闘が可能になっている。ただしその分モンスターの同時出現数が増え、序盤の攻略で苦しくなる場面もあろうが、それこそが本来のドラクエと割り切れば何ということはない。廃城探検の前にブーメラン(全体攻撃武器)を買う甲斐性ぐらいなくては、このゲームはとてもやっていけないだろう。
また、サウンドトラックがフルオーケストラに変更されており、旧ハードのピコピコ音では表現し切れなかったすぎやまこういちサウンドが前面に出ているのも嬉しい改良点だ。音源の大半はNHK交響楽団演奏の『交響組曲 ドラゴンクエストV』からのもので、同盤に未収録の音源は他オケによる新規収録やシンセサイザー演奏などによって補われている。
そして、それらの改良点が霞むぐらい素晴らしいのが「会話システム」の導入だ。これは『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』で初めて組み込まれたシステムで、「話す」コマンドを空打ちすることによりパーティ内の仲間が場面に応じた台詞を喋るというもの。正直な話、『VII』やリメイク『IV』に導入された段階では蛇足に思えた会話システムであるが、このPS2版ドラクエVにおいては、物語へのめり込むために必要不可欠なものへと昇華されている。
今回の会話システムは、台詞のレパートリーが尋常じゃない。全部集めれば別のゲームのシナリオが1本書けてしまうのではないかと思うほど、各場面に応じた多種多様な台詞が用意されている。それはたとえば、町民Aの「西の海から禍々しい空気が感じられます」という話を聞いた直後、それに応じて「わたしも感じるの……くやしい……ビクンビクン」と仲間が喋りだすという具合。これまでのような、「新しい町」「新しいイベント」レベルではなく、町人1人ひとりに応じたリアクションまでもが楽しめるという、何人のプログラマを過労死させたか分からない凄まじいシステムに生まれ変わっている。
上記を踏まえた上で、今一度ドラゴンクエストVの基本へ立ち返ってみよう。このゲームは親子孫3代に渡る壮大な物語で、プレイヤーの分身たる主人公もシナリオに即して少年から青年へと成長を遂げる。そして、冒険のパートナーも各段階に応じて変遷する仕組みだ。
ここで話題に挙げたいのが2人の女の子である。物語で終始重要な役割を果たすビアンカの幼少期と、それに物語後半で仲間に加わる主人公の娘だ。序盤のビッグイベントであろう「レヌール城のお化け退治」では、いばらのムチを持った金髪幼女ビアンカと2人っきりで夜の大冒険をするという、これは何のメタファーだと叫びたくなるような通好みのシチュエーションを満喫できる。戦闘画面でビシバシと打ち鳴らされる幼女のムチ……。これはモンスターのほうも魔物冥利に尽きるといった感じではなかろうか。ちなみにビアンカちゃんの初期装備はナイフである。このままでは刃傷沙汰まっしぐらなので、必ずムチを買うこと。お店で。
そして物語の後半においては、成長した主人公が双子を授かる。男の子と女の子。ある事情で生まれてから8年間ずっと会えなかった我が子を「僕が君たちのパパだよ」と認知し、晴れて冒険の伴侶とする様は、ネグレクトで引き裂かれた親子の絆が今一度固く結ばれるようで何とも感動的である。
このパーティには主人公のお嫁さんも加わるため、さながら世の巨悪へ立ち向かう武闘派一家という風情だ。頑張って双子を育て始めたのに自治体からは補助金のホの字も出ねえ、こうなったら全面戦争だ! よーしてめえら、いろいろあったがこれからは共闘するぞ! 手始めに隣町で得物を調達だ! かくして血の気が多い一家は下僕(仲間モンスター)を引き連れ、身内(囚われのお婆ちゃん)の釈放ついでに厚生労働省ならぬ魔界へ殴り込みをかけるのである。
この、物語後半でパーティに加わる女の子が非常に可愛い。当節の流行語で言うところの萌えである。スーファミ版においては再会場面でちょろっと会話をする程度で、どことなく空気メンバー扱いだった主人公ジュニアであるが、今回は凄い。前述の会話システムのお陰で子供たちのキャラクターが非常に立っており、ロリコン(とショタコン)のチンコも勃ちっぱなしだ。
たとえば、女の子のほうは夜に弱いらしく、とっぷりと日も暮れた街を親子で散策していると「…………ぐう。……え、なんですか……? ちゃんと起きてます……」などと半死半生の状態である。
(*´ω`*) ←その台詞を見たときの私。
何? この子は父親に敬語を使うのかって? その通りである。何せ8歳で父親の顔を初めて見たのだ。ちょっとぐらいぎこちなくて当然だろう。というか、むしろそれがいい。「わたしお父さんとうまく話せるかな、とりあえず丁寧にお話してみようかなドキドキ」などという、背景に点描でも浮いてそうなシチュエーションが堪らなく素晴らしいのである。
カジノに連れて行けば「さっきね? 泣いてるおじさんがいたの……。お父さんは泣かないでね」と嬉しい気遣い。ストリップショーを見せれば「あんなお洋服で…。みんな見てるのに、はずかしくないの?」とムフフなリアクション。それが作戦なのだ娘よ(ガンガンいこうぜ)。お姫様役の舞台役者と話せば「わたしお姫さまだけど、あんなドレス着たことないです」などと、泣けることを言う。よーしパパ、お手伝いさんに子供用ドレス作らせちゃうぞー。
他にも、某所某イベントの直後に飛び出す「おにいちゃんのお嫁さん」発言や、踊り子のお姉さんの真似をして「今日はどうもお化粧の乗りが悪いわぁ。…なんでもないです。ちょっと言ってみたかっただけ……」と言う場面は、過酷な戦いの日々における一服の清涼剤と言っても過言ではない。
ちなみにこの子たちは、父親へ再会するまでにちょっとした旅を経験している。ストーリー上割愛されているが、これはもうスクウェア・エニックスが『ドラゴンクエストV外伝 パパをたずねて三千里』を出すしかないのではないか。ちょうど男の子と女の子が揃っているから、性別セレクトもできて実にドラクエらしい。
物語の出だしは『IV』の「おてんば姫の冒険」的に、何年も蒸発中の父親へしびれを切らした双子が「お父さんを探しに行く!」と家出。従者のサンチョが飛び出し「私めもお伴いたしますぞ!」とかなんとか言って3人パーティを結成する。父親にかけられた呪いを解く魔法の杖を求めて、いざ冒険の旅へ。意表を突いてアクションRPGなんかにすればかなりイケるのではないか。
と思ったら、スピンオフの漫画でそういう作品がすでにあるらしい。調べてみたら11巻もある。どれ、久々にビーケーワンで全巻漢買いするか……。
『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』 (PlayStation2)
2004年 マトリックス/アルテピアッツァ
スクウェア・エニックス発売

憂国少女ヘザー・マーティン
「おにいちゃんに会いたいよぅ…」
金髪幼女の涙の訴えに、全米のお兄ちゃんたちがK.O.
今、ヘザー・マーティンちゃんという6歳の女の子が、アメリカでちょっとした有名人らしい。
イラク戦争に従軍した20歳の叔父へのラブソングを熱唱する姿が動画投稿サイトYouTubeにアップされ、おいおいなんだこのカワイコちゃんは、幼児を政治キャンペーンに使うほどリベラルは落ちぶれたのか、などと各方面で波紋を呼んでいる。
Heather Martin - When Are You Coming Home - by Bye2luv
百聞は一見にしかず。上は最も有名な動画で、現時点で200万PVを超えている。「いつになったら帰ってきてくれるの? 戦争なんてすぐ終わるって私に言って。お兄ちゃんに会いたい……」と、達者なジェスチャーを交えつつ情感たっぷりに歌い上げる様は全米を感動の嵐へ叩き込むと同時に、共和党の支持率ダウンへ拍車をかけるには充分すぎたようだ。
この動画は「Bye2luv」というユーザーによってシリーズ化されており、Heather Martinで検索すると、ニュース映像も含めた関連タイトルがズラズラ列挙される。作詞、作曲はヘザーちゃんのママで、伴奏も担当しているようだ。また、ヘザーちゃんの音痴、じゃなくて純真な歌声に感動した多数のユーザーが「お返事動画」も投稿している。変な被り物をつけた奴はやる気があるのだろうか。
動画のタイムスタンプを見て分かる通り、これは昨年末の話題である。2007年5月現在、イラク戦争における米兵の死者数は3000名をマーク、今後も増加見込みだ(米軍が駐留し続ける限り)。金髪幼女をベタ惚れさせた罪作りな男の名をショーン君というらしいが、彼が遥か中東の地で今もなお健在かどうかは知らない。どこかに書いてあるのだろうけれど、私は駅前留学とかしていないので中学英語以上の英文はさっぱりだ。
そもそも私がこの動画を知ったのは、偶然YouTubeの検索窓に「Littlegirl」という卑猥なクエリを打ち込んだからだ。反戦関係のWEBサイトを巡って見つけたわけではないし、だいたい、日本でこの子が話題になっているところをまったく見かけない。
どこかの市長が凶弾に倒れたり、不登校児が母親の首を切って交番に持ち込んだりと、いろいろ忙しいのは分かるが、それにしてもドライすぎやしないか。こんなことでは、鬼畜米人共に「ヘイ、君たち黄色猿はポリティカルな話題に興味がないのかい? ANIMEもいいけどたまには新聞ぐらい読めよHAHAHA〜!」などと煽られても文句は言えまい。
冗談はさて置き、この話題がアメリカの国内で留まっている理由がなんとなく想像できる。インターネットに国境はないと言われるが、それはある意味で完全に間違っているのだ。英文のコンテンツを理解するには、ある程度の英語力が要る。ぶっちゃけた話、言葉の壁が「全世界的なムーブメント」を阻んでいるとも言えるだろう。WEB上で世界同時革命を起こすには、基礎言語をエスペラント語にでも統一しない限り無理かもしれない。
そしてこのヘザーちゃんブームに関しては、イラク戦争に対する各国間の温度差がダイレクトに影響している。湾岸地域に駐留する米兵へ興味を持つのは、同じ米国人だけなのだ。むしろ、「イヤならさっさと帰ってくれば? 誰も頼んでないよ」という声を抑え込まんがため、ブッシュ政権は頑なに増派を推し進めているようにも見える。
だいたい、ヘザーちゃんの動画を見て「感動」した日本人が果たして何人いるだろう。正直なところ、私は居心地の悪さみたいなものを拭いきれなかった。どこかのブログでヘザーちゃんがダコタ・ファニングに似てるなどと書かれていたけれど、とんでもない。この子はジョンベネ・ラムジーだろう。
あの当時、これを映せばスポンサーが喜ぶと言わんばかりに数多の局で垂れ流されていた、ジョンベネちゃんが歌って踊るあの映像。あれを見たときのなんとも表し難い不快感が、ヘザーちゃんのカラオケ動画で今一度よみがえってくるようだ。
また、この一連の動画を単純に「反戦」で括ってしまっていいものかどうか、という疑問も残る。動画の断り書きにあるような、リベラルの陰謀云々という話ではない。あの国の行動パターンはいつも同じだ。他所の国へちょっかいを出し、出先で米兵がバタバタと死に、その惨状をジャーナリズムが伝えて「息子を返せ」コールが巻き起こる……。
そもそもあの国は19世紀以降、1度たりとも本土決戦というものを経験していない。「戦場」はいつだって海の向こうだ。48時間以内に地球上のあらゆる地域へ威力を行使できる立場にありながら、大多数の合衆国民は殺戮の現場を知らない。
究極外交であるところの「戦争」が、あの国では内政の諸問題として片付けられている節がある。外国人の命をダシに、兵士の待遇を改善しろとかレーションの質を上げろとか、衛星中継で息子たちの顔をいつでも見られるようにしろとか、さながらちょっと大きな労働争議といった趣だ。これでは、いたいけな少女の「君死にたもうことなかれ」を見せつけられたところで、いつもの国内向けデモンストレーションと邪推されても致仕方あるまい。
ちょっとここで、米国人たちの高い政治意識を確かめるために、件の動画のコメント欄を斜め読みしてきた。そのいくつかを君チラ的超訳で抜粋してみよう。
「可愛いなあ」
「か、可愛いいいいいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃ」
「この子のママは天才だね、いい歌作るよ本当。ヘザータソの声も完璧。ショーンは幸せ者だぜ」
「敢えて言おう! 萌えであると!」
「こりゃすげえ、ヘザータソGJ!@テキサス」
「全米で俺が泣いた」
「おいお前ら! ショーンは戦場の尊い犠牲のひとつに過ぎないんだぜ、他の連中はどうでもいいってのか? でも、この歌はイイな……。なんていうか、すごく……」
「ギザカワユス(^ω^)」
「こいつ誰?」
「ヘザーは俺の嫁」
いっぽう彼女は、こんな歌も披露している。
Heather Martin - God Bless America
周りの大人はどうあれ、彼女のほうがよほど国を想っているのは間違いないようだ。憂国少女……このジャンル流行らないかな?
“When Are You Coming Home” “God Bless America”
唄:Heather Martin
金髪幼女の涙の訴えに、全米のお兄ちゃんたちがK.O.
今、ヘザー・マーティンちゃんという6歳の女の子が、アメリカでちょっとした有名人らしい。
イラク戦争に従軍した20歳の叔父へのラブソングを熱唱する姿が動画投稿サイトYouTubeにアップされ、おいおいなんだこのカワイコちゃんは、幼児を政治キャンペーンに使うほどリベラルは落ちぶれたのか、などと各方面で波紋を呼んでいる。
Heather Martin - When Are You Coming Home - by Bye2luv
百聞は一見にしかず。上は最も有名な動画で、現時点で200万PVを超えている。「いつになったら帰ってきてくれるの? 戦争なんてすぐ終わるって私に言って。お兄ちゃんに会いたい……」と、達者なジェスチャーを交えつつ情感たっぷりに歌い上げる様は全米を感動の嵐へ叩き込むと同時に、共和党の支持率ダウンへ拍車をかけるには充分すぎたようだ。
この動画は「Bye2luv」というユーザーによってシリーズ化されており、Heather Martinで検索すると、ニュース映像も含めた関連タイトルがズラズラ列挙される。作詞、作曲はヘザーちゃんのママで、伴奏も担当しているようだ。また、ヘザーちゃんの音痴、じゃなくて純真な歌声に感動した多数のユーザーが「お返事動画」も投稿している。変な被り物をつけた奴はやる気があるのだろうか。
動画のタイムスタンプを見て分かる通り、これは昨年末の話題である。2007年5月現在、イラク戦争における米兵の死者数は3000名をマーク、今後も増加見込みだ(米軍が駐留し続ける限り)。金髪幼女をベタ惚れさせた罪作りな男の名をショーン君というらしいが、彼が遥か中東の地で今もなお健在かどうかは知らない。どこかに書いてあるのだろうけれど、私は駅前留学とかしていないので中学英語以上の英文はさっぱりだ。
そもそも私がこの動画を知ったのは、偶然YouTubeの検索窓に「Littlegirl」という卑猥なクエリを打ち込んだからだ。反戦関係のWEBサイトを巡って見つけたわけではないし、だいたい、日本でこの子が話題になっているところをまったく見かけない。
どこかの市長が凶弾に倒れたり、不登校児が母親の首を切って交番に持ち込んだりと、いろいろ忙しいのは分かるが、それにしてもドライすぎやしないか。こんなことでは、鬼畜米人共に「ヘイ、君たち黄色猿はポリティカルな話題に興味がないのかい? ANIMEもいいけどたまには新聞ぐらい読めよHAHAHA〜!」などと煽られても文句は言えまい。
冗談はさて置き、この話題がアメリカの国内で留まっている理由がなんとなく想像できる。インターネットに国境はないと言われるが、それはある意味で完全に間違っているのだ。英文のコンテンツを理解するには、ある程度の英語力が要る。ぶっちゃけた話、言葉の壁が「全世界的なムーブメント」を阻んでいるとも言えるだろう。WEB上で世界同時革命を起こすには、基礎言語をエスペラント語にでも統一しない限り無理かもしれない。
そしてこのヘザーちゃんブームに関しては、イラク戦争に対する各国間の温度差がダイレクトに影響している。湾岸地域に駐留する米兵へ興味を持つのは、同じ米国人だけなのだ。むしろ、「イヤならさっさと帰ってくれば? 誰も頼んでないよ」という声を抑え込まんがため、ブッシュ政権は頑なに増派を推し進めているようにも見える。
だいたい、ヘザーちゃんの動画を見て「感動」した日本人が果たして何人いるだろう。正直なところ、私は居心地の悪さみたいなものを拭いきれなかった。どこかのブログでヘザーちゃんがダコタ・ファニングに似てるなどと書かれていたけれど、とんでもない。この子はジョンベネ・ラムジーだろう。
あの当時、これを映せばスポンサーが喜ぶと言わんばかりに数多の局で垂れ流されていた、ジョンベネちゃんが歌って踊るあの映像。あれを見たときのなんとも表し難い不快感が、ヘザーちゃんのカラオケ動画で今一度よみがえってくるようだ。
また、この一連の動画を単純に「反戦」で括ってしまっていいものかどうか、という疑問も残る。動画の断り書きにあるような、リベラルの陰謀云々という話ではない。あの国の行動パターンはいつも同じだ。他所の国へちょっかいを出し、出先で米兵がバタバタと死に、その惨状をジャーナリズムが伝えて「息子を返せ」コールが巻き起こる……。
そもそもあの国は19世紀以降、1度たりとも本土決戦というものを経験していない。「戦場」はいつだって海の向こうだ。48時間以内に地球上のあらゆる地域へ威力を行使できる立場にありながら、大多数の合衆国民は殺戮の現場を知らない。
究極外交であるところの「戦争」が、あの国では内政の諸問題として片付けられている節がある。外国人の命をダシに、兵士の待遇を改善しろとかレーションの質を上げろとか、衛星中継で息子たちの顔をいつでも見られるようにしろとか、さながらちょっと大きな労働争議といった趣だ。これでは、いたいけな少女の「君死にたもうことなかれ」を見せつけられたところで、いつもの国内向けデモンストレーションと邪推されても致仕方あるまい。
ちょっとここで、米国人たちの高い政治意識を確かめるために、件の動画のコメント欄を斜め読みしてきた。そのいくつかを君チラ的超訳で抜粋してみよう。
「可愛いなあ」
「か、可愛いいいいいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃ」
「この子のママは天才だね、いい歌作るよ本当。ヘザータソの声も完璧。ショーンは幸せ者だぜ」
「敢えて言おう! 萌えであると!」
「こりゃすげえ、ヘザータソGJ!@テキサス」
「全米で俺が泣いた」
「おいお前ら! ショーンは戦場の尊い犠牲のひとつに過ぎないんだぜ、他の連中はどうでもいいってのか? でも、この歌はイイな……。なんていうか、すごく……」
「ギザカワユス(^ω^)」
「こいつ誰?」
「ヘザーは俺の嫁」
いっぽう彼女は、こんな歌も披露している。
Heather Martin - God Bless America
周りの大人はどうあれ、彼女のほうがよほど国を想っているのは間違いないようだ。憂国少女……このジャンル流行らないかな?
“When Are You Coming Home” “God Bless America”
唄:Heather Martin

『Lotta Love』
ガチンコ小学生が過激に踊りまくり、飲みまくり
現代版『ダウンタウン物語』はB系でノリノリです
生涯で最初に買ったポップスアルバムがglobeのファースト、といえば何やら自分が健全な20代に思えてくる。アッパーミドルに憧れていた母親のせいで、私は幼少時からバイオリンを嗜んでおり、家のリビングでかかるBGMもロマン派を中核とした19世紀の西欧クラシック音楽であった。そんな私がなぜglobe。これには海よりも深いわけがある。
小学生時代はまだいい。ちょっとぐらい流行りの音楽に疎くたって、それは個性の一環としてスクールカースト内で一定の地位に安住できる。だが、同級生らが次々と俗化されていく中学時代となると、そうはいかない。小室ファミリーを全員知らなければ人間じゃないと言わんばかりの重苦しい空気。毎週金曜日はドラえもんじゃなくてミュージックステーションを見るのが日本の中学生の正しいライフスタイル、という無言の圧力。
正直、日本のポップスがそれほど質の高いものとは(今でも)思えないのだが、文化としてのポップスが個人の嗜好よりも優先される我が国の悪しきAVEXストリームにはちょっと抗い難い。20代も半ばを過ぎた今となっては、そんなものは至極どうでもいいことの部類に入るのだけれど、多感な中学時代となればそうもいかないのだ。
農林水産省が病気まみれの米国産牛肉を買わなければならないように、日本の中学生はナケナシのお小遣いをAVEXのCDへつぎ込まなければいけない……10年前はそんな時代であった。私の周りだけかもしれないけれど。
そういうわけで、中学生時分の私がひと月の小遣いを全額出して買ったのが、globeのアルバムなのである。とは言ってもこれ、実を言うと、今聴いてもまんざらでもないCDなのだ。何せ中学時代である。物の印象や思い出がいちばん残りやすい時期に買ったアルバムである。心に残らないわけがない。深夜FMで『Precious Memories』が流れて目頭を熱くするのは私だけではないだろう。
時は流れて西暦2007年。恐怖の大王とかアホなことを言っていた人間を尻目に迎えた21世紀も小慣れた感がある現在、私は生涯2度目となるポップスアルバムの購入へ踏み切った。m-floの5thアルバム『COSMICOLOR』である。
どうした俺。ロリコンをこじらせて頭がおかしくなったのか。これより前に買ったCDがヒルデガルト・フォン・ビンゲンの聖歌アルバムであるからして、何らかの変調が私の身を襲ったのではあるまいか。……これには、竹島領有権問題よりも根の深い理由が存在する。
『COSMICOLOR』は、m-floが長らく続けてきた「loves Who」シリーズの最終作という位置付けであり、その販売形態は通常盤に加え、数百円ほど価格を上乗せしたDVD付きのパッケージがリリースされている。私が買ったのはこっち。DVD付き。というかこの特典DVD欲しさに買ったので、メインであるCDのほうは未だにアルバムケースから出していない。
このDVDには、loves MINMIのクレジットを冠した楽曲『Lotta Love』のミュージックビデオが収録されている。VERBALやMINMIがクラブでノリノリに踊りまくり、脇を固めるエキストラたちの華麗なダンスも見ものの本作であるが、そこにはm-flo本人たちが1人も出演していない。いや本当に。
じゃあ誰が出ているのかと言うと、そっくりな子供たちがVERBALや☆Taku、MINMIを演じ、クラブで遊んでいるエキストラたちも全員小学生という異色のミュージックビデオなのだ。ちなみに彼らがビデオの中で景気良くあおる白っぽいカクテルは、もちろん牛乳である。
特筆すべきはMINMI役の女の子だ。もう、そっくりってもんじゃない。友人と一緒にこのビデオを見ていて、彼が発した第一声が「MINMIが小っちゃくなった!」であるからして、そのクリソツ加減が分かっていただけるだろう。おまけにこの子、ものすごく色っぽい。若きジョディ・フォスターのような病的な色っぽさではなく、きわめて健康的に色っぽい。たぶん虫歯とか1本もないよこの子。パンツは見えているし、言うことナシだ(コマ送りで確認。まあ見せパンだろうけど)。
衣装のほうもなかなかツボを突くチョイスである。足の次にヘソが大好きな私が大喜びするコスチューム、と書けばどんなものかは大体想像がつくだろう。バックで踊っている子たちも、乳首ぐらいは隠れますと言わんばかりの過激なコスチュームだったり、やたらとおっぱいが大きな子がいたり、フリフリのフリル付きミニスカートで腰をフリフリしているアグレッシブな子がいたり、まるで欧米のアングラ子供ファッションショーといった風情である。ジョンベネちゃんが在籍してたアレね。
B系でキメた子供たちが器用にダンスをするミュージックビデオといえば、EXILEの『Choo Choo TRAIN』が思い起こされる。が、この『Lotta Love』はそうした類例を遥かに引き離し、2007年現在におけるベスト・オブ・変態ミュージックビデオだ。
大体、EXILEのあれはちゃんと本人たちが登場し、子供たちは彼らを引き立たせるオマケ的演出でしかなかった。それに対しm-floのほうは、主役共々ガチのオール小学生、見渡す限りのロリコン天国である。ネバーランドである。ロリコンが夢見るネオテニーの桃源郷が、そこには存在する。
このミュージックビデオを見ていて気づいたことがひとつある。子供の動きにはブレがあるのだ。いかに達者なダンスを繰り広げようと、大人のダンサーにはないブレが、彼らが年端のいかない子供であることを否応なく認識させられる。
大人の重たい四肢をコントロールすることを主眼としたブレイクダンスを、全体重で30kgもないような子供にやらせればブレのひとつぐらい出て当然なのだろう。が、そこに私はどうしようもない場違い感、シュール絵画におけるデペイズマンのようなものを感じるのである。
要するに『ダウンタウン物語』なのだ。大人の役を子供が演じ、大人の物語を子供が語るあれは、大人社会の縮図云々という話よりもまず、かつて我々が子供の頃にスペキュレートしていた世界の姿という観点で論じられなければならない。
『不思議の国のアリス』の映像化の歴史において、アリス役に成人女性を起用したパチ物が多い中、ヤン・シュヴァンクマイエルが敢えてガチンコ金髪幼女で映画を撮った理由が、そこにはある。大人のマネをしたところで大人にはない「ブレ」を自覚させられた子供時代、それを忠実に再現することこそが、大人が子供を描く際に有効なたったひとつのリアリティなのだ。
さて、この『Lotta Love』というミュージックビデオに、私はひとつ注文をつけたい。このビデオを撮影するにあたって、オーディションからトレーニング、カメラテストや演出の決定など、製作サイドの労苦には計り知れないものがあるだろう。そこで、それらを時系列に収めた60分枠のドキュメンタリー映像作品をリリースして、関係者の労苦を供養されてはいかがだろうか。ドニー・ダーコのエントリーでも似たようなことを書いていた気がするけれど、私はいつだって本気だ。
「Making of Lotta Love! MINMI役のあの子のオーディション、撮影、SPACE SHOWER Music Video Awardsの特別賞受賞までを追った、笑いあり涙あり激動の60分! 君は刻(とき)の涙を見る……」
どうだろう。すごく面白そうではないか。ガチペド変態ロリコン、じゃなくて子供好きのお兄さんお姉さんに大受けしそうな企画じゃないか。TV局の連中も、納豆ダイエット捏造とかサクラ街頭インタビューとかアホなことやってないで、こういうニッチな需要へ地道に応えていけば視聴者を再び騙くらかせ、いやまた間違えた、視聴者の信頼を取り戻せるかもしれないのに、なぜそれをしないのだろう。
というか私これ、このミュージックビデオのメイキングドキュメンタリー、かなり本気で見たいんですがどうですか、関係者の皆さん。6000円までなら出せるぞ。
m-flo loves MINMI 『Lotta Love』
2006年 日本作品
久保茂昭監督
現代版『ダウンタウン物語』はB系でノリノリです
生涯で最初に買ったポップスアルバムがglobeのファースト、といえば何やら自分が健全な20代に思えてくる。アッパーミドルに憧れていた母親のせいで、私は幼少時からバイオリンを嗜んでおり、家のリビングでかかるBGMもロマン派を中核とした19世紀の西欧クラシック音楽であった。そんな私がなぜglobe。これには海よりも深いわけがある。
小学生時代はまだいい。ちょっとぐらい流行りの音楽に疎くたって、それは個性の一環としてスクールカースト内で一定の地位に安住できる。だが、同級生らが次々と俗化されていく中学時代となると、そうはいかない。小室ファミリーを全員知らなければ人間じゃないと言わんばかりの重苦しい空気。毎週金曜日はドラえもんじゃなくてミュージックステーションを見るのが日本の中学生の正しいライフスタイル、という無言の圧力。
正直、日本のポップスがそれほど質の高いものとは(今でも)思えないのだが、文化としてのポップスが個人の嗜好よりも優先される我が国の悪しきAVEXストリームにはちょっと抗い難い。20代も半ばを過ぎた今となっては、そんなものは至極どうでもいいことの部類に入るのだけれど、多感な中学時代となればそうもいかないのだ。
農林水産省が病気まみれの米国産牛肉を買わなければならないように、日本の中学生はナケナシのお小遣いをAVEXのCDへつぎ込まなければいけない……10年前はそんな時代であった。私の周りだけかもしれないけれど。
そういうわけで、中学生時分の私がひと月の小遣いを全額出して買ったのが、globeのアルバムなのである。とは言ってもこれ、実を言うと、今聴いてもまんざらでもないCDなのだ。何せ中学時代である。物の印象や思い出がいちばん残りやすい時期に買ったアルバムである。心に残らないわけがない。深夜FMで『Precious Memories』が流れて目頭を熱くするのは私だけではないだろう。
時は流れて西暦2007年。恐怖の大王とかアホなことを言っていた人間を尻目に迎えた21世紀も小慣れた感がある現在、私は生涯2度目となるポップスアルバムの購入へ踏み切った。m-floの5thアルバム『COSMICOLOR』である。
どうした俺。ロリコンをこじらせて頭がおかしくなったのか。これより前に買ったCDがヒルデガルト・フォン・ビンゲンの聖歌アルバムであるからして、何らかの変調が私の身を襲ったのではあるまいか。……これには、竹島領有権問題よりも根の深い理由が存在する。
『COSMICOLOR』は、m-floが長らく続けてきた「loves Who」シリーズの最終作という位置付けであり、その販売形態は通常盤に加え、数百円ほど価格を上乗せしたDVD付きのパッケージがリリースされている。私が買ったのはこっち。DVD付き。というかこの特典DVD欲しさに買ったので、メインであるCDのほうは未だにアルバムケースから出していない。
このDVDには、loves MINMIのクレジットを冠した楽曲『Lotta Love』のミュージックビデオが収録されている。VERBALやMINMIがクラブでノリノリに踊りまくり、脇を固めるエキストラたちの華麗なダンスも見ものの本作であるが、そこにはm-flo本人たちが1人も出演していない。いや本当に。
じゃあ誰が出ているのかと言うと、そっくりな子供たちがVERBALや☆Taku、MINMIを演じ、クラブで遊んでいるエキストラたちも全員小学生という異色のミュージックビデオなのだ。ちなみに彼らがビデオの中で景気良くあおる白っぽいカクテルは、もちろん牛乳である。
特筆すべきはMINMI役の女の子だ。もう、そっくりってもんじゃない。友人と一緒にこのビデオを見ていて、彼が発した第一声が「MINMIが小っちゃくなった!」であるからして、そのクリソツ加減が分かっていただけるだろう。おまけにこの子、ものすごく色っぽい。若きジョディ・フォスターのような病的な色っぽさではなく、きわめて健康的に色っぽい。たぶん虫歯とか1本もないよこの子。パンツは見えているし、言うことナシだ(コマ送りで確認。まあ見せパンだろうけど)。
衣装のほうもなかなかツボを突くチョイスである。足の次にヘソが大好きな私が大喜びするコスチューム、と書けばどんなものかは大体想像がつくだろう。バックで踊っている子たちも、乳首ぐらいは隠れますと言わんばかりの過激なコスチュームだったり、やたらとおっぱいが大きな子がいたり、フリフリのフリル付きミニスカートで腰をフリフリしているアグレッシブな子がいたり、まるで欧米のアングラ子供ファッションショーといった風情である。ジョンベネちゃんが在籍してたアレね。
B系でキメた子供たちが器用にダンスをするミュージックビデオといえば、EXILEの『Choo Choo TRAIN』が思い起こされる。が、この『Lotta Love』はそうした類例を遥かに引き離し、2007年現在におけるベスト・オブ・変態ミュージックビデオだ。
大体、EXILEのあれはちゃんと本人たちが登場し、子供たちは彼らを引き立たせるオマケ的演出でしかなかった。それに対しm-floのほうは、主役共々ガチのオール小学生、見渡す限りのロリコン天国である。ネバーランドである。ロリコンが夢見るネオテニーの桃源郷が、そこには存在する。
このミュージックビデオを見ていて気づいたことがひとつある。子供の動きにはブレがあるのだ。いかに達者なダンスを繰り広げようと、大人のダンサーにはないブレが、彼らが年端のいかない子供であることを否応なく認識させられる。
大人の重たい四肢をコントロールすることを主眼としたブレイクダンスを、全体重で30kgもないような子供にやらせればブレのひとつぐらい出て当然なのだろう。が、そこに私はどうしようもない場違い感、シュール絵画におけるデペイズマンのようなものを感じるのである。
要するに『ダウンタウン物語』なのだ。大人の役を子供が演じ、大人の物語を子供が語るあれは、大人社会の縮図云々という話よりもまず、かつて我々が子供の頃にスペキュレートしていた世界の姿という観点で論じられなければならない。
『不思議の国のアリス』の映像化の歴史において、アリス役に成人女性を起用したパチ物が多い中、ヤン・シュヴァンクマイエルが敢えてガチンコ金髪幼女で映画を撮った理由が、そこにはある。大人のマネをしたところで大人にはない「ブレ」を自覚させられた子供時代、それを忠実に再現することこそが、大人が子供を描く際に有効なたったひとつのリアリティなのだ。
さて、この『Lotta Love』というミュージックビデオに、私はひとつ注文をつけたい。このビデオを撮影するにあたって、オーディションからトレーニング、カメラテストや演出の決定など、製作サイドの労苦には計り知れないものがあるだろう。そこで、それらを時系列に収めた60分枠のドキュメンタリー映像作品をリリースして、関係者の労苦を供養されてはいかがだろうか。ドニー・ダーコのエントリーでも似たようなことを書いていた気がするけれど、私はいつだって本気だ。
「Making of Lotta Love! MINMI役のあの子のオーディション、撮影、SPACE SHOWER Music Video Awardsの特別賞受賞までを追った、笑いあり涙あり激動の60分! 君は刻(とき)の涙を見る……」
どうだろう。すごく面白そうではないか。ガチペド変態ロリコン、じゃなくて子供好きのお兄さんお姉さんに大受けしそうな企画じゃないか。TV局の連中も、納豆ダイエット捏造とかサクラ街頭インタビューとかアホなことやってないで、こういうニッチな需要へ地道に応えていけば視聴者を再び騙くらかせ、いやまた間違えた、視聴者の信頼を取り戻せるかもしれないのに、なぜそれをしないのだろう。
というか私これ、このミュージックビデオのメイキングドキュメンタリー、かなり本気で見たいんですがどうですか、関係者の皆さん。6000円までなら出せるぞ。
m-flo loves MINMI 『Lotta Love』
2006年 日本作品
久保茂昭監督

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