『どうにかなる日々2』

ロングヘアーの幼馴染! ススんだ従姉妹はAV嬢!
定型からリアルを引き出す珠玉の青春短編


 漫画でもアニメでも、現在のロリ系アダルトメディアは30代以上をボリュームゾーンとして展開されている、と私は断言したい。即ちブルマー、スクール水着を現役で拝んできた世代だ。

 私はブルマーにもスクール水着にも興奮しないし、これを着用した女児にもまったく興味が沸かない。ロリコンとしてあるまじきことと思われるかもしれないが、その原因ははっきり自覚している。私自身が小学生、中学生のときには、すでに教育現場からこれらのユニフォームが撤去されており、同級生たちは色気のないハーフパンツや市販の水着で体育の授業を受けていた。私はブルマーやスクール水着に格別の思い入れがない。よって、これらのイコンに性的興奮を覚えることもない。

 ロリ系のイラストサイトなどを巡ると、必ずと言っていいほど描かれているのが「ブルマー、スク水」である。私はネットを始めた当初、こんなものに興奮する奴らの気が知れない、と常々思っていた。また、某いもうと倶楽部における標準コスチュームも、やはりブルマーとスクール水着である。モデルの女の子たちは「なにコレ? 窮屈だしキモーイ」などと思いつつ、お仕事モードで笑顔を切り売りしているのだろうが、「なにコレ」と言いたいのは私も同じだ。

 私としては、全員が全員バリエーション皆無の画一的なコスチュームでポーズをキメたスマイル写真よりも、ガチの私服で指定ポージングなし、表情作りなし打ち合わせなしのガチンコ撮影のほうが万倍萌えると思うのだが、賛同者は果たしていてくれるだろうか。ただしそれは、自然な表情やポーズが企画物のそれより美しいなどという綺麗事ではなく、第三者の意図が入らない彼女たちの「素」を覗き見れるかもしれない、という窃視趣味的な話なのであるが。

 近年最高の青春漫画のひとつに数えられるべきであろう『青い花』を連載中の志村貴子は、それ以前に連作短編集『どうにかなる日々』を上梓している。これは、ガロ系と言うほどハードコアでもないけれど四季賞作家ほど浮き足立ってもいない面子が揃う、太田出版のオサレ漫画雑誌「マンガ・エロティクスF」に定期連載された作品を集めた短編集で、誌名の通り全体的なトーンはエロい。ゲイ、レズ、ロリにショタと、およそ変態的なセックスはひと通りぶっ込んでみましたという感じの精力的な作品である。

 ここで問題にしたいのは、続刊の『どうにかなる日々2』だ。各エピソードの扉絵がことごとくブルマー、スク水を着用した女児の絵で、それも本編とは何の関わりもないという放置ぶり。なぜブルマー、スク水なのかといえば、本人が好きだから描いているのだろうとしか分からない。女装少年と男装少女の悶々とした日常を活写する『放浪息子』で全国の変態を虜にした志村氏ならではの、敢えて定型を取り上げることによって変態度MAXな本編へのアイロニーを試みたとも取れるが、この作家にそんな甲斐性があるとはちょっと思えないので、おそらく彼女自身の趣味なのだろう。

 この『2』には、しんいち君とみかちゃんという小学5年生のカップルが登場する。親戚のお姉さんがAV嬢で、その影響であんなことやこんなことを……というエロゲみたいな短編。ただしこれは茜新社の漫画ではないので、フルコンタクトな行為描写は行われていない。純粋な性への興味から終始淡々と事態を進めるみかちゃんと、そんな彼女の態度へ大いに困惑するしんいち君の対比が妙にエロく、チンコを用足しの道具としか見ていなかったあの頃の甘酸っぱい感覚が鮮明に蘇ってくる。

 気まぐれに出演したAVが両親にばれて勘当を食らい、しんいち君の家に転がり込んできた小夜子という従姉妹の女性。彼女はしんいち君の部屋の押入れに寝具を持ち込み、ドラえもんのような生活を送っている。しんいち君はそんな彼女を適当にあしらいつつも、「従姉妹がAV嬢」という男の夢的シチュエーションからか、白い涙でパンツを汚す毎日なのであった。そこへきて、幼馴染のクールな女の子が「そのビデオもう見た?」「見ようよ。音消すから」と無意識の攻勢をかけてくるものだから堪らない。どうなるしんいち君、危うししんいち君。おしまいまで彼の貞操は守られるのだろうか?

 幼馴染のロングヘアー少女こと、徳永みかちゃんの第二次性徴アタックは続く。しんいち君が夢精パンツを健気に洗っているところへやってきて「おねしょしちゃったの?」。仲良く向かい合って学校の宿題に取り組めば「私しんちゃんと結婚すんのかな」。とどめは帰り際の「明日はしんちゃんがうちにおいで」。そんな2人の馴れ初めを押入れの中でじっと聞き入っていた小夜子嬢は、みかちゃんの不穏な言動でメダパニ状態のしんいち君に「誘われてるんだよ」と追い討ちをかける。

 うーむ羨ましい。けしからん。こんな体験をしてみたかったものだ。私はせいぜい、仲良しになった女の子と手をつないで歩いているときに、同じクラスのハナ垂れ糞餓鬼共から「やーいやーい、エロいぞこのやろー」と偏差値の低い嫌がらせを受けたぐらいである。AV嬢の従姉妹なんていないし、第一、私は夢精というものをあまり経験していない。いや本当に。中学に上がって級友に「お前オナニーって知ってるか?」と訊かれたとき、そんなものは知らんと真顔で答えてオオカミ少年呼ばわりされた悲しい過去が、昨日のことのように思い出される。まったくあのマスカキ猿共が。

 しんいち君とみかちゃんのエピソードには後日談がある。中学3年生になった2人が、小夜子の亡霊(例のAVやそれを巡るアレコレの話)に囚われつつも堅実な関係を維持しようとする、地味な青春物語だ。

 ここで2人は単なる幼馴染という一線を越え、どうやら男女の関係を持った「らしい」ことが仄めかされている。あくまでも仄めかされているだけ。小夜子のAV(しんいち君からボッシュート済み)で気分を盛り上げたみかちゃんがこっそりオナニーに興じる場面や、DQNカップルの隠れ盛り場こと理科準備室で乳繰り合う場面などが挿入されてはいるが、決定的な描写は意図的に避けたようだ。

 この作品は、思春期前の小学5年生から思春期真っ只中の中学3年生に渡って、幼馴染という微妙な関係にある男女のくんずほぐれつを描いた秀逸な連作短編漫画である。この手の漫画を探そうとすると、テーマがテーマだけにどうしても成年コミック方面へと走りがちであるが、どっこい一般誌でも描いている人は描いている。未見の方にはぜひお薦めしたい1冊だ。

 当初の話に戻るが、ブルマーやスクール水着というアイテムはもはや神話である。かつて存在し、今も伝えられてはいるが、その意義が忘れ去られつつある前世紀の記号だ。私のような人間からすれば、意味のよく分からない記号は解読されねばならないのだが、現在のところその手掛かりは失われたままなのである。

 言わばヒエログリフみたいなもので、それに対応するギリシャ文字が見出されない限り、一部の伝承者や考古学マニアを熱狂させる無意味な装飾記号に過ぎない。ロゼッタストーンが必要なのだ。ブルマーやスクール水着の意義を現代に伝える、新旧両文併記の画期的な石碑が。

 そうでなければ私のような新世代のロリコンは、ぽっかりと空いた歴史の空白に翻弄され、苦虫を噛み潰す思いでそれらを眺める羽目になるだろう。良かれと思って描かれた穴開きスク水プレイも、運動会から連れ出した体操服女児への悪戯という反社会的構図も、それらを知らない世代へ翻訳する言語が欠ければ描き手や現役世代の自意識へ留まり、COMIC LOのようなニッチな雑誌にしたところで読み飛ばされるページが増える一方だ。

 現に私は、これらのアイテムをメインに起用した作品は斜め読みで済ます傾向にある。定価700円の元を取るには、記号と化したコスチュームの意味を再発見する必要があるのではないか。メディアリテラシー問題の深刻な一側面が、ここには存在しているように思う。



  『どうにかなる日々2』
  2004年 太田出版
  志村貴子 著

『ダーク・ウォーター』

オカルトなんてお呼びじゃないリアル
ハリウッド随一の貧乏母娘物語、ここに極まれり


 一時期、日本のホラー映画が「Jホラー」などと言われ、大層流行ったことがある。ここ十数年の話だろうか、『本当にあった怖い話』に端を発した平成ホラーブームはコピー作品の粗製濫造という袋小路に達し、今ではホラーという言葉すら聞かない。

 私は「ホラーだから」とか「SFだから」などという理由で映画を見ない。私が映画を選ぶ基準はただひとつ、子供が出ているかどうかだ。それも、そこそこ整った顔立ちで、演技が達者な子。大根は脚も演技も御免こうむる。

 映画『ダーク・ウォーター』は、しばしば「怖くないホラー映画」と形容される。そもそも「怖いホラー映画」など、ジャンル全体を見渡しても一握りしかないように思えるのだが、それはこの際置いておこう。スピルバーグは「伝えなければいけない物語があるなら、何よりもストーリーテリングを最優先する」と言った。純粋な観客である私も、これは同じ思いである。

 この作品はホラーというより心理サスペンスであり、広義のスリラーであり、家族の物語である。神経症に悩まされながらも娘を失うまいと戦う母親の物語であり、両親が離ればなれになった寂しさから死者に魅入られる少女の物語だ。そこには、「親は子の神」というビジョンがたしかに通底している。

 ジェニファー・コネリー演じるダリアは、幼い娘セシリアの親権を巡って元夫と対立している。「いいアパートを見つけたほうがセシリアをゲットな。ま、オレが勝つに決まってるけど」と、どこまでも小憎たらしい元夫を見返すため、ヒルトン姉妹もびっくりのセレブアパート探しへ奔走するダリア。しかし、無職の彼女に理想の物件など見つかるはずもなく、インチキ臭い不動産屋に案内された先は、ニューヨーク郊外ルーズベルト島にある前世紀の遺物みたいな集合住宅であった。

 とはいえ、彼女は形振りを構っていられる立場でもない。住めば都とばかりに開き直り、「こんな汚いところはイヤ」と訴えるセシリアのつぶらな瞳も押し切って前金を払ってしまう。さあどうする、ここ絶対なんか出るよ姐さん。住んでる連中も住人ってより患者だし。神経細いのに、こんなところで暮らして大丈夫? ていうか娘の情操教育に絶対良くない。10年したらハッパ噛みだすぞきっと

 どうにかこうにか棲家を手に入れ、福祉企業の事務職にも就いたダリア。これであのボンクラ男にセシリアを取られることはない、なんとか2人だけの静かな生活を作るのよ、と息巻く彼女であるが、肝心のアパートは天井から盛大な水漏れ、幼い娘は見えないお友達とブツブツ話し出し、頭痛薬を飲めば丸1日眠りこけてしまう始末。幽霊より手強い日常を相手に孤軍奮闘する彼女は日に日に参っていく。

 その他、同じ棟に住むDQN少年の陰険なセクハラとか、どこからどう見ても変質者全開な東欧訛りの老管理人とか、彼女の心労は絶えることがない。……これいちおうホラー映画だよな? 幽霊はどこ行った? まあ、それどころじゃないのは分かるんだけれども

 始終そんな感じで、超常現象なんて要らないぐらいシビアな境遇に置かれる母娘なのである。セシリアの「ニューヨークはあっち。こっち(ルーズベルト島)はちがう」という指摘通り、富める者とそうでない者とが明確に住み分けられた「格差社会」の本場アメリカは、日本の生ぬるいそれとは一味も二味も違うようだ。

 さて、この映画の見所はなんといっても、上記の無駄にシビアな脚本以外に、それを演じる俳優たちへも注目したい。オスカー像の在庫一掃セールと言わんばかりの実力派と脇を固めるベテラン俳優たち、そして競争率900倍の全米オーディションを勝ち抜いた最強の子役は、さながらハリウッドのグリーンベレーといった感がある無敵の布陣だ。これで駄作になるわけがない。実際、俳優の掛け合いだけを見ても充分楽しめるレベルに仕上がっている。

 アリエル・ゲイド。1997年5月1日、米CA州サンノゼ生まれ。劇中、アンテナ体質の少女セシリアを演じ、私のハートを鷲掴みにした6歳の女の子である。ジェニファー・コネリーの相手役として彼女と遜色ない演技を見せ、全米のペド野郎共の涙腺とカウパー腺を決壊させた期待の新人だ。

 まんまるおめめとコラーゲンたっぷりのサラサラ髪、押せば返ってきそうなぷにぷにホッペ……。合格である。戦闘力6万5000である。もはや、21世紀のアナ・トレントと言っても決して過言ではない。

 『ダーク・ウォーター』という作品自体がちょっとしたキワモノ扱いなために知名度は低いが、アリエルの強みは何もそのガチ幼女スタイルだけではない。先述した通り、本作中において実力派女優のジェニファー・コネリーと対を張るミラクルスキルを発揮し、ハリウッドの関係者全員が涙そうそう、私のムスコも白い涙で号泣だ。

 全国の変態紳士諸君、もうダコタ・ファニングで一喜一憂している場合ではないぞ。我々が『宇宙戦争』でダコタ嬢の成長っぷりに涙している間も、こうして次代の幼女優がスクリーンデビューしているのだ。

 劇中、拾ったリュックサックからお人形を見つけて「う〜♪」と喜ぶときのあの笑顔、あれが素でないとすれば只者じゃない。そのお人形をアパートの管理人にリュックごと取り上げられて、「来週まで待って持ち主が出てこなければやる」と宣告されたときの仏頂面、あれも演技だとすれば、彼女のスキルは天性のものなのだろう。部屋へ戻るときの、意地悪な管理人にベッと舌を出す場面で、何人のロリコンがKOされたことか。腐ってもハリウッド、優れた才能を発掘するノウハウは21世紀の今もなお健在である。

 アリエル・ゲイドは現在、TVシリーズ『インベイジョン』に主人公の娘役で出演し、Young Artist Awardのベストパフォーマンス部門へノミネートされた実績を持つ。私はこのドラマを未見だが、公式サイトのギャラリーを見る限り『ダーク・ウォーター』の頃からまったく変わっていない。通な書き方をすると「劣化していない」。ぽちゃっとした愛くるしい容姿そのままで、まだ見ぬ次回作にも期待が持てそうだ。

 子役の賞味期限は短い。人種や環境にもよるが、11、2歳ぐらいで別人のように変わってしまう。使えるうちは端役でも使いまわし、大作映画への起用を奨励し、各国労働法ギリギリの線で消化し尽くすべきだ。

 もちろんそれは、役という役へマシンガンのごとく当てろという意味ではない。優秀なエージェントの優秀な仕事で、製作費をペイできるぐらいの皮算用は提示し、端数でちょっと冒険をさせるということだ。ちょうど、スピルバーグの大作映画を蹴ったジョデル・フェルランドが『ローズ・イン・タイドランド』でその地位を不動のものとしたように、である(あの作品が採算を取れていたかどうかは知らない。もっとも、監督のテリー・ギリアムは諸事情から「米国版DVD不買運動」の先陣を切っていると風の噂に聞いた)。

 アリエル・ゲイド。この名前を憶えておくといい。彼女が万が一、何かの作品でブレイクし「期待の新星!」などと喧伝されようものなら、即座に「ああ、ダーク・ウォーターに出てた丸っこい子ね」と通ぶれることうけあいである。もっとも、よほど打ち解けた場でない限りは下手に通ぶらないほうがいいかもしれないけれど。



  原題 “DARKWATER”
  2005年 アメリカ映画
  ウォルター・サレス監督

『エコール』

変態お断り! パンツなんてただの布!
『エコール』がヌケないこれだけの理由


 ロリコンも長いことやっていると、いくつかの小さな問題にぶち当たる。ひとつはオカズの確保。当然にして究極の命題だ。もうひとつは周囲のリアクション。変態性欲者と性犯罪者とを混同している人間が多いせいで、「私は子供が好きです。特にひと桁の子」などと告白しても中々理解を得られない。そして、それらをどうにかクリアしたとしても、女児サイドの自由意志の問題が頭をもたげてくる。

 自由意志は責任能力と言い換えてもいい。とどのつまり、街でかわいい子に声をかけてホテルで一戦を交えたとして、罪に問われるのは大人だけである。未成年売春(要は援交)で、身体を売った側の責任が問われることはない。刑事上では14歳未満の者を無責任能力者として扱い、その一切の違法行為を咎めないという原則がある。だが現実の司法においては、16、7歳の女子高校生が無届の売春行為を行ったとしても、実質的なペナルティが科されることはない。せいぜい補導員から「自分の体を大切にしなさい」云々とお説教を食らう程度だ。

 このことをして「フェアじゃない」と憤る向きがあることを私は知っている。未成年といっても言葉を知らない幼児ではあるまい、合意の上で成されたことはその責任も等分されて然るべきである、と。だが私は、あくまでも本気で考えた場合、このような言説は不条理ではないかと思う。抽象的な話になるが、子供に自由意志の機会を与えるべきではないというのが私の立場だ。色目を抜きに見て、ありのままの子供というのは一種のモンスターなのだから。

 先日『エコール』という映画を見た。劇場公開時から何かと話題の作品であるが、私はいまいち興味をそそられなかったためにDVDで拝むこととなったのだ。まして原作小説なんて……。この映画の公式宣伝サイトをめぐって「乳首が見えた」とか「乳首が丸見え」とか「乳首乳首乳首ヒャッホイ」とか、いろいろと議論が紛糾したことは記憶に新しい。

 とはいえ、あれだけ盛大に脱いでいれば乳首ぐらい見えて当然だ。蚊に刺された跡というかピンクの豆粒というか……。いっそのこと下の豆もシネスコサイズで映せば、DVD発売後に即回収されてプレミア価値がつくのではないかとも思うけれど、そこまでやらないのが所詮は映画といったところだろう。

 肝心の内容だが、見る前のあんな想像こんな想像がいろんな意味で当たりすぎて、いささか拍子抜けしてしまったというのが正直なところだ。押井守のせいで使えなくなった“INNOCENCE”という原題の通り、少女時代の危うさとか思春期の心の揺れ動きとか、まあそういうものを主題に戴いたアート映画である。女流監督が挑んだ「少女性」の追体験、深い森に佇む秘密の学校へ送り込まれた少女は、美しさの先に現実の悲哀を垣間見る……などと新聞の文化欄で褒められる類の作品

 舞台となる学校そのものが少女期ということの暗喩であろうことは容易に察しがつく。脱走を試みて死んだ少女、無事に逃げおおせたけれど初めからいなかったことにされた少女、しっかり者で年少組の面倒見もいいのに土壇場で「卒業」を恐れる少女。高い壁と深い森に囲まれ、隠された地下道を通らなければ入ることも出ることも叶わない少女たちの庭は、現実に存在する風景というよりも、目に見えない何か、たとえば人間の心などをメタフォリックに再現した絵画的な舞台とみればしっくりくると思う。

 ……という風に書けと言われたような気がしたので、無理して書いてみた。さて次は下世話な話題である。この映画は変態のめがねに適うか? 児童ポルノみたいな予告映像の通り、ちゃんとその方向で使える作品になってる? 結論から言う。答えはNOだ

 そもそも、予告映像でも使われた水浴びのシーンへみられるように、この作品にはダイレクトな絵が多すぎる。結局のところ、パンツはスカートの下にあってこそエロいのだ。それらをかなぐり捨てて「ほぉら純真無垢な少女だよ〜」などと言われても、無粋としか言いようがない。暗がりの中の白い布を拝むために写メや手鏡を駆使し、彼の社会生命を投げ打った捨て身のエロこそがパンツァーの至高ではないか。

 乳首の問題にしたところで、初めから半裸の少女などよりも、タンクトップの脇からピンクのつぼみをチラチラと覗かせる「無用心」な子のほうが何倍もアツいだろう。「見えている」のではない、「見ている」という主体的な意識が、我々のリビドーをより強く燃焼させるのだ。それなのに、この映画ときたら

 とまあ、このあたりは製作サイドの思うつぼだろう。そういう目的で見に来た観客をいかに白けさせるかという点において、随分と考えられているように思う。「肌を映さなければ変態は欲情しない」などといった我が国の良識とは対極に位置する、見事なコペルニクス的転回だ。

 ただ、そういうことを抜きに考えても、この映画は「甘い」ように思う。

 主人公のイリスという子が森で転び、脚に切り傷を負ってグズグズと泣く場面がある。ここで一緒にいた女の子が傷口から血を掬い取り、ペロッと味見をする。しかし、これだけでは場面のインパクトとしてはイマイチだ。やはり、傷口に直接しゃぶりつくぐらいのことはしてくれないと。こちらとしてはそういうハードコアな絵を期待しているのに。

 そもそも、少女が脱いでいるだけの映像など、高速インターネットが世界中に張り巡らされたこのご時世、ある種のソフトで然るべき探索を行えば掃いて捨てるほど手に入る。私が求めているのはそういうものではないのだ。強烈な物語性とフェティッシュとに裏打ちされた、その作品でなければ成り立たないエロス、癖の強いご当地料理みたいな卑猥さを私は願ってやまない。そういう意味で、これまで私がお目にかかった映画の内でもっとも強烈な作品は、ジャン=ピエール・ジュネの『ロスト・チルドレン』であった。

 そして、これを書いてしまうと『エコール』という作品そのものを全否定するようで気が引けるのであるが、今後誰かがどこかで書くとは思えないので私が率先してみる。

 多くのアーティストが畏れ、敬い、崇め奉る「失われた少女性のイノセンス」とやらは、それほど大したものなのか? まして120分ものフィルムを費やすほど語られるべき内容があるのか? 私には、どうにもこれらがある種の人々に顕著な、過剰な自意識の排泄物に思えてならない。たとえばそれは、失われた魂を素人催眠術で掘り起こして現世の補償とする、昨今流行の稚拙な霊感セラピーと手法の上では大差ないのではないか。

 さらにこの映画における「美」や「幻想」は、人間の子供が本来持つべき動物的な欲望や、雨後の泥溜まりのように暗く不潔な怨念を体よく覆い隠し、彼らの性善説をでっち上げる小道具へ成り下がってしまっている。年長少女の自慰行為をもって「後戻りのきかない成長」を演出するあたり、製作サイドの前時代的な児童観すら透かし見えるようだ。単純な話、オナニーぐらい幼稚園児だって知っている。性の象徴として使うにはあまりに安易だ。もっとも、キリスト教的な背徳がバックグラウンドにありそうなことぐらいは分かるけれど。

 ジュネほどの屈折も、シュヴァンクマイエルほどの悪趣味もない、ただひたすらに綺麗な風景と「リアル」な少女像とをパンする純粋無垢な映像美が『エコール』という作品のすべてである。そういう意味で、真にピュアなのは劇中の少女たちではなく、監督のルシール・アザリロヴィック自身ではないだろうか



  原題 “INNOCENCE”
  2006年 白英仏合作
  ルシール・アザリロヴィック監督

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