『ふたりはふたご』

「フルハウス後」も2人でひとり?
総資産2億ドルの箱入り双子姉妹


 オルセン姉妹のニュースでいちばん印象に残っているのは、彼女たちの18歳のバースデーに向けて行われた、全米のロリコン野郎共によるカウントダウン・イベントだ。たしか当時、ポップアップ広告がズバズバ開く卑猥なファンフォーラムの各所で一斉に執り行われていた記憶がある。

 なぜ18歳なのかというと、連邦法だか州法だか忘れたが、とにかくアメリカの法律におけるズッコンバッコン解禁年齢が18だからだ。それは単に、同級生とホテルへ時化込んでもSWATに踏み込まれずに済むという話ではない。この年齢以降のアメリカ合衆国民はヌードグラビアに載れるし、AVにも出演できる。いわば、セックスに関するあらゆる事象がリミットブレイクする「夢の年齢」なのだ。

 多くの日本人がそうであるように、私がオルセン姉妹を最初に目撃したメディアは海外ドラマ『フルハウス』だった。あのドラマに登場する三女ミシェル、あれ実は、そっくりな双子を定期的に入れ替えて「2人1役」を任せるという異例のキャスティングであり、その双子姉妹こそがメアリー=ケイト・オルセンアシュレー・オルセンだったのだ。

 ちょっと補足しておくと、オルセン姉妹は一卵性ではない。よく見ると地毛の色が違うし、背の高さも声のトーンも男の趣味も異なる。彼女らは二卵性の普通の双子であり、離ればなれになってもテレパシーで会話ができるとか、片方が駅の階段で転べばもう片方が膝を抱えて悶絶するとか、そういうことはない。

 そんなオルセン姉妹が、フルハウスの放映終了後に再びTVドラマの主演を張ったのが“Two of a Kind”、邦題『ふたりはふたご』である。原題を直訳すれば「似たもの同士」というほどの意味になるが、天下のNHKによるネーミングは『ふたりはふたご』。なんというか、これは……。平仮名で、それもオンエア時の題字は丸文字である。『ないしょのつぼみ』というか『みつどもえ』というか、もうそんな感じ

 幼くして母親をなくしたという設定がフルハウスを髣髴とさせるプロットだが、両者はまったくの別物。大学教授の父親のもとで暮らすメアリー=ケイトとアシュレーが、入れ替わりごっこをしてイケメン家庭教師を騙したり、気になる男の子をダンスパーティーへ誘い出すために権謀術策を巡らせたり、父親の新しい恋人を追い出すために一芝居打ったり……。セックス・アンド・ザ・シティ以来、いろいろと調子こいてる米国ドラマ界隈ではちょっと拝めない正統派シットコム(シチュエーションコメディ)である。NHKはつまらない韓国ドラマなんて買わないで、こういう良素材をどんどん放映してくれれば、少しは受信料を払う気も起きるのだが

 撮影当時、姉妹は11歳だったと記憶している。アメリカ白人の11歳といえばすでにビッチの片鱗が垣間見え、お前んトコじゃアルツハイマーが流行ってるっていうけどそれどう見てもBSEだろ肉食人種め、などと文句のひとつも言いたくなるけれど、この姉妹に限ってそんな心配は及ばない。現在の風体はちょっとアレだが、少なくともこの当時のオルセン姉妹はダコタ・ファニングも裸足で逃げ出すお子様っぷりで、「妙にスレた白人少女はキライ!」という向きにも安心してお薦めできるストライクコースど真ん中の直球ロリ姉妹だ。

 このドラマを見ていて沸いた疑念を、米国ドラマばかり見ている友人に尋ねたことがある。あっちの女子小中学生はブラっつーもんを付けないのか? シャツ越しに乳首がキンキンにアップしていてもお父さんお母さんは文句言わんの? 友人の答えは、「地域にもよるが基本的には日本ほど厳格じゃない。クリスティーナ・アギレラやリンジー・ローハンのようなビッチアイドルがティーンの間で信仰されるようになって、セックスアピールというか単に自分の身体に関して無頓着な子が増えた」というもの。なるほど、さすが「スクリーン」や「ロードショー」を毎月熟読しているだけあって妙な説得力がある。

 このドラマにおけるオルセン姉妹は、第二次性徴真っ只中の初々しい微乳を惜し気もなく披露してくれる。タンクトップの生地をツンと押し上げるふたつの堅いツボミ、いわゆる「テント状態」だ。それを見た私の股間もテント状態だから困る。あんなイケナイ映像を地上波で流すとは、NHKも案外侮れたものではない。

 株式会社ワコールが作成したガイドラインによると、そういった乳房の状態は女児の性徴における「ステップ1」と定義され、本来は専用のインナーで保護しなければならないらしい。つまり、生地にこすれて感じちゃう、くやしい……ビクンビクン、という話。または、じろじろ見ちゃらめぇ、くやしい……ビクンビクン、という感じか。いずれにせよ、個人差はあるが何かと敏感な時期であることは確かなようだ。余談だが私の弟が中学生のとき、乳首が腫れぼったく膨らんでビリビリと痛み、病院に駆け込んだことがある。ドクター曰く「男児と言えども思春期にはよくあること」だそうだ。男の胸が膨らんだところで嬉しいものではないが、それは本人も同じ思いだっただろう。

 NHKによる初回放映から7年が経とうとしている現在、メディア化の話がとんと聞こえてこないのも、権利問題とか消費者の需要云々ではなく姉妹の乳首が放送コードに引っ掛かったからではないか、と勘繰ってしまう。乳首だけにイロイロ引っ掛かってしまったのではないか。後番組の『ふたりはお年頃』(So Little Time)がとうの昔にメディア化されているにも拘らず、こちらが待てど暮らせどリリースされない理由は、やはり乳首以外にないのではないか。

 あるいは次世代メディアによる販売を目論んでいるのかもしれない。製作のワーナー・ブラザースはHD DVD陣営なので、これはもしかすると、東芝のHD DVD再生機を買う羽目になるのだろうか。PCの空きベイにドライブを組み込んだほうが早い気もするが……。ともあれ、フルハイビジョン画質で11歳の微乳が拝めるというのであれば、私としては設備投資を惜しまない所存である。

 『ふたりはふたご』は1シーズン全22話で完結したお手軽なタイトルなので、単純な販売リスクは他のドラマに比べて低いはずだ。「たのみこむ」でもリクエストが出ているようだが、早急なメディア化が望まれる作品のひとつである。『フルハウス』のDVD化が実現した以上、そろそろこちらにも手をつけては頂けないものかと思う。

 『ふたりはふたご』というドラマは、私が「メディアの中の少女たち」を追いかける直接のきっかけとなった作品でもある。本屋で女店員にクスクス笑われながら清岡純子写真集など買い求めなくとも、TVのチャンネルを回せばどこかしらで少女が映っている。じゃあ近所のレンタルビデオ店はどうだろう? かわいい女の子がパンツ1枚で飛んだり跳ねたりする映画は置いてあるだろうか? ……ある。これはすごい。一見オカズに見えなくとも、手間と想像力をかければなんだっておいしく味わえる。砕いたポテトチップスもご飯にかければ立派な晩飯になるのだ。

 1999年第11の月、アンゴルモア大王の代わりに児童ポルノ禁止法がロリコンの頭上へ降り注ぎ、マイノリティのオナニーライフはゲシュタポに脅えながら自由主義宣言書を読む反政府勢力の境遇へとシフトした。だが心配には及ばない。人間には想像力という最後の武器が残されている。たとえ将来、野田聖子が禁炉法を提言してComic LOを廃刊へ追い込んだとしても、「電撃大王」や「まんがタイムきらら」があれば夜の時代における一条の光は弛まない

 官憲の締め付けが強い時世において、本来イリーガルな表現を物語という形で修飾し発表された作品は、個人的に「脱法メディア」と呼ぶことにしている。違法ではないし世論も文句を言わないが、見る人が見れば「使える」メディア作品という意味だ。

 当ブログ「君はチラリ」は、そういった作品を少しでも世に知らしめ、あまつさえ恒久的な販路の確保を促し、文化保存運動の尖兵となるべく、雨(法規制)にも負けず風(世論の反発)にも負けず日夜更新されている。



  原題 “Two of a Kind”
  1998年 アメリカ作品
  ワーナー・ブラザース・テレビジョン

『BPS バトルプログラマーシラセ』

携帯電話でスパコンに挑むアキバ系ゴルゴ13
続編製作を願って今年も「まうまう!」


 Windowsを使い続けて5年になる。それ以前はMacを弄っていた。ミーハーな父親が「これからはコンピュータの時代だ」と言って電器量販店で衝動買いしてきたiMac。8系OSを搭載し、CPUにPowerPC 750を擁した、通称「G3」と呼ばれる初代iMacである。

 G3には、よく固まるパソコンという印象しかない。それでも、極めて特殊なルートで入手したPhotoshop(P2Pではない。当時はそんなものはない)を使い、某アイドルの全裸コラージュを作っては学校の友達に見せて「幾らで買う?」などとやっていた。ただ、インターネットには繋げず、マシンの挙動に苛ついていたせいもあって、そこから本当の意味での秋葉系へは突き進むことなく堅気の道を行き、現在はWindows XPでヌルい生活を送っている。

 ひとつ書き忘れた。XP機を買う以前、つまりMacと決別した直後だが、私は3年ほどWindows Meを使っていた。ビル・ゲイツの黒歴史、奇形Windows、サポセン泣かせのいらない子等々、数多の異名でWindowsの輝かしい歴史に影を落としたアレだ。現在では当たり前のシステムであるアクティブデスクトップも、購入初期状態のままONにしておくと様々な障害を引き起こし、ひとたび重いアプリケーションを動かせばメモリリークを患ってお亡くなりになるという素敵なOSであった。

 これを飼い慣らせばXPのエラーなどエラーの内に入らず、心臓に陰毛が生えたと言わんばかりの度胸が身につき、パーソナルコンピュータの挙動を心で把握するニュータイプ然とした人間になれると言われていた。私はプログラムに関する専門知識など皆無に等しいが、とりあえずWindowsのエラーに際して闇雲に電源ボタンを連打するということはない。これもMeライフで得た危機管理能力の賜物であろう。

 家庭用コンピュータに関して、ハードウェア的な側面ではかつてのSF映画等の遥か先を行っている、と言っていい。映画『エイリアン2』で無人マシンガンを遠隔操作するノートパソコンみたいな端末が登場していたが、あれは今考えると相当先進的なデザインであり、当時の映画に登場する未来コンピュータの多くはMSXみたいな「レトロ」な形をしていた。

 だがソフトウェアはどうだ。ウィリアム・ギブスンが夢見た電脳空間マトリックスはセカンドライフなどというケチなお人形遊びにその座を奪われ、攻殻機動隊のようにプログラムが自意識を持つこともなく、せいぜいEXE拡張子の卑猥なトラップで他人のデスクトップ画面を晒し上げるぐらいの「極悪ウイルス」しか登場していない。映画でよく見る、流れるようなGUIのOSはいつになったら登場するのか? 某国の核ボタンを乗っ取りG8首脳陣を脅迫するサイバーテロリストはどこにいるのか? 我々がかつて見た21世紀の夢は、その時がとうに過ぎた2007年現在、欠片ほどの兆しも見えてこないのである。

 ……などという文系ならではの嘆きがどうでもよくなる作品を私は知っている。ジャンルはアニメ。もういちど言う。ジャンルはアニメ。さすが我が日本、フジヤマ・ハラキリ・スシ・ゲイシャに次ぐ新時代の東洋ミステリーことアニメーションは、なんでも網羅している。

 『バトルプログラマーシラセ』、略してBPSは今から4年前に放映されたU局深夜アニメで、その卓越した着想と高品質なプロットにも関わらず全5話で打ち切られた、いろんな意味で伝説の作品だ。おまけに当時、大人の事情で30分の本編が10分ずつ3分割され、それぞれブツ切りに放映されるという異例の憂き目に遭った不遇の作品でもある。

 分かりやすく書くと、1話30分・全5話のところを、1話10分・全15話へ伸張され、それすらも打ち切りの産物という踏んだり蹴ったりの処遇でオンエアされた、三重苦に喘ぐヘレン・ケラーみたいなアニメなのである。もっとも、私は最近になってGyaOの無料コンテンツで視聴したクチなので、当時のBPSオタクたち(そんな人間がいればの話だ)が経験した阿鼻叫喚を知らない。

 物語はこうだ。千葉県のあるところに、白瀬慧(しらせ・あきら)という冴えない青年がいる。ボロアパートに住み、金なし風呂なし女なしと三拍子そろった、髪もヒゲも伸ばしっぱなしの不精な独身男である。近所に暮らす親戚の女の子が手を焼いたりしてくれるが、基本的にはダラダラと締まりのない半ヒキ青年。ルックスもブサメンだ。

 だが彼は、ネットの世界でハンドルネーム「BPS」を名乗り、あらゆる超人的な記録を打ち立ててきた天才ハッカーでもあった。在籍する大学院から紹介を受け、その筋の難題を持ちかけられること幾度、しかし彼は常に華麗なテクニックでそれらを解決していく。

 ある日、闇企業キャラテック社を統括する日本人ハッカー、ハンドルネーム「アメリカ王」が起こす爆破テロに遭遇した白瀬は、持ち前のテクニックで大惨事を未然に防ぐ。BPS対アメリカ王の熾烈な戦い、というよりアメリカ王の一方的な連敗劇は、ここに火蓋を切って落とされたのであった……。

 と、ここまでなら普通のサイバー物アニメである。マッドハウス製作というクレジットが付いていても何ら違和感を感じない、極めてオーソドックスなストーリー構成。当然、この作品が一部でカルト的人気を誇る理由はほかにある。白瀬の親戚にあたる小学生ヒロイン、美紗緒(11歳)の存在だ。

 結論から言うと、白瀬はロリコンである。それも、アニメキャラにもリアル少女にも分け隔てなく発情可能というハイブリッドな嗜好の持ち主で、当然ながら、毎度彼のアパートを訪ねて食事の世話などをしてくれる良妻賢母の美紗緒ちゃんには悶々とした感情を抱く、というわけだ。

 また、物語の中盤から登場する美紗緒のクラスメート、ヨンちゃんこと柚木頼子(10歳)がまたすごい。彼女、実は米海軍情報部門にスカウトされた天才ハッカー少女なのだ。アメリカ王による連続テロの最中、美紗緒をダシに白瀬へ接近したヨンちゃんは、かつて彼が防衛庁で組んだプログラムを高評価した上で「私、解析していてちょっぴり濡れちゃった」などと言い出す。

 繰り返すようだが、彼女は(いちおう)10歳の小学5年生だ。ちょっぴり濡れちゃう小学5年生だ。これはもう確率変動を引き当てたようなものではないか。ヨンちゃん、いやヨン様のご乱心で股間を熱くしたロリコンが全国にどれだけいただろう。情報化社会の荒波に呑まれた最近の小学生はコウノトリ説を信じないから困る。

 ギャグをエロに置き換えたテンポの良い演出という点を鑑みて、このアニメは『こどものじかん』の作風を先取りした先駆的作品であると言えよう。もちろん、それ以前にもそういう作品はあっただろう。が、エロの当事者がガチンコロリ少女、且つストレートな表現という部分は、当時、そして今もなお新鮮な方法論であることは間違いない。いよいよをもって「萌え」などという良心のフィルターが剥ぎ取られ、その下にあるペドフィリアの禍々しいフォースが漫画、アニメ両界へ漏れ出したかのように思える。ちなみに、このフィルターを最後まで死守してエンターテイメントの一線を守った作品に『千と千尋の神隠し』が挙げられるだろう。

 BPSにはエロ以外にも際どい表現が頻出される。明らかに北朝鮮のものと思われる武装工作船が、日本の非公然核燃料を強奪するために万歳三唱しながらEEZ(排他的経済水域)に侵入する、というタイムリーなネタがそれだ。淫乱少女と東アジア情勢、合わせ技で打ち切り決定……ということはないだろうが(全5話分の放映スケジュールは当初のカレンダー通りであったとも伝えられる)、このテンションを保ったままでぜひとも続編を製作してほしいところだ。

 続編、というかこのアニメは明らかにおかしい。白瀬の過去や黒幕の存在等、解決していない謎が多すぎるし、オープニングにレギュラー出演しておきながら本編では最終話のみ登場、声すら出さずにチョイ役で終わった第3のロリ少女にも活躍の余地はまだまだあったはずだ。

 ただ、不幸中の幸いというべきか、1万3000円のDVD-BOXセットを購入すれば全話コンプリートできるというお手軽さは素晴らしい。BOXセットと言ってもディスクは2枚しか封入されておらず、特典のサウンドトラックCDを入れても3枚だ。洋画のコレクターズDVDでも買ったと思えば、決して高い買い物ではない。Amazon.co.jpの「嫁(シリコン製)を質に入れてでも買うべき」という秀逸なレビューを読むまでもなく、この作品は「買い」だ。

 この手のアニメ作品は、メディアの売り上げが製作バジェットに直結する仕組みである。望むと望まないとに拘らず、日本経済はそういうシステムになっている。続編を拝みたければDVDを買うのだ。私は、買った。



  『BPS バトルプログラマーシラセ』
  2003年 林宏樹・AIC
  BPS製作委員会

『ふしぎな森のポコラ』

ジブリテイストの懐古2Dアクション
Bダッシュ幼女は今日も野山で急旋回!


 小学生の頃、私は窓の外ばかり見ている子供だった。地方都市の山の中にある学校で、窓の外には平地の街並みが一望できた。

 小学生の行動範囲なんて高が知れている。私は当時、人口密集地から遠く離れた、しかし見晴らしのいい郊外の山地に住んでいた。当時の私にとって、歩いて15分の学校以外に自力で行ける場所は少ない。学校の窓から眺めた地平線いっぱいに広がる街並みは、たとえば映画で見る未来都市の風景と同じくらい魅力的だった。休み時間に家から持ち出した双眼鏡で覗き、ズームした建物1つひとつに誰かが住んでいることを想像するのは、掛け替えのない愉悦であった。

 そんな田舎に住んでいるにも拘らず、父親が車持ちではなかったことも大きいと思う。会社までの1時間と少しの道のりを毎朝歩いて通っていた父にとって、自動車は都市の怠惰であり、歩行者を轢き殺す鋼鉄の悪魔であり、排ガスを吐き散らして母星を汚す人類文明の暗黒面的存在であった。よって私は、休みの度にドライブなどといった「普通の子供」の生活とはかけ離れた幼少時代を送り、たまに友達の家の車へ乗せてもらえば慣れない振動でゲロゲロ吐いていたものだ。

 しかし、田舎の生活に飽きていたかというと、これがそうでもない。文明の恩恵から取り残されていたせいか、遊びなどは自然の中で自足する術を身につけていた。具体的に言うと、同じクラスの女の子を秘密基地に誘って「ここがトイレだよ」と覗き穴つきの小さな部屋へ案内し、エロ友を引き連れてロリ無修正スカトロショーの始まり始まり……。どうだろう? 聞いただけでワクワクしてこないか? プライバシーなどという屁理屈のせいで密室便所しかお目にかかれなかった都会者には、ちょっと味わい難いプレイではないだろうか?

 近くに住む友人が『ぼくのなつやすみ』を買ったときなど、外に出りゃそんなプレイはすぐできるだろ、と大笑いしたものだ。わざわざブラウン管の中で蝶を採らなくても窓の外に腐るほど飛んでるじゃねえか、と。そういえば、近場で採取したサンショウウオの卵を水槽の中で孵し、しばらく餌をあげていなかったら、口から尻尾を生やした幼生が水槽をフラフラと泳ぎ回っていて仰天したことがあった。両生類も切羽詰まれば共食いをするものと知り、そのまま川へ捨てた記憶がある。こんなイベントは『ぼくのなつやすみ』では拝めまい。

 さて、本日紹介するのは「Lizsoft」という同人ゲームサークルのソフト。ここは現在、2D横スクロールのアクションRPGを開発中で、個人的にとても楽しみにしているのだが、ここでは過去の名作である「ふしぎな森のポコラ」について書いてみる。

 夏美ちゃんというお下げ髪のかわいい女の子が、田舎で飛んだり跳ねたり目を回したりするゲーム、と言えば非常に怪しい響きである。だが心配には及ばない。小さなお友達向けの無害なアクションゲームであり、姪御さんなどにも安心して薦められるフリーウェアの傑作だ。どこかで聴いたようなBGMに乗って、「ポコラ」というどこかで見たような丸っこい生き物を追いかける、ただそれだけのゲーム。見た目は簡単そうだが操作が少し独特であり、慣れるまで戸惑うかもしれない。

 方向キーは本当に方向だけを変えるキーで、走るにはXを押し、ジャンプはZキーを押下することによってアクションできる。Xを押しっぱなしにすると夏美ちゃんがぐんぐん加速し、急なコーナーを曲がりきれずに立ち木へ激突するなど、アルペンスキーの滑降競技然としたシビアさで思わぬ興奮を呼び起こす仕様だ。ちなみにこのとき、正面を向いて障害物へ激突すれば一瞬だけパンツが見える。こちらも別の意味でエキサイティング

 ゲーム中、ポコラの持っているドングリを集めることでアイテムやコスチュームと交換できる。色違いのスカートや浴衣、果てはナース服や水着を取り揃えるなど、とても小さなお友達向けとは思えない凝りようだ。これで「黒いパンツ」や「水玉パジャマ」などがあれば完璧なのだが、残念ながら私はステージ3までしかクリアしていないので何とも言えない。いや難しいんだよ実際。

 今日、久々にゲーム周りを調べていて思ったのだが、Lizsoftのゲームでキャラクターデザインをやっている方々は、どこかで幼女萌え絵サイトを運営していたり、現役の萌え漫画描きがいたりして、小さなお友達がリンクを辿っていった場合に不測の事態が起こらないものかと、老婆心ながら心配になる。同時に、萌え文化と幼児向けキャラクタービジネスの親和性、ついては「萌えとは何ぞや」という究極の命題へぶち当たる。ラブandベリーがオタク層に受けるなど、両者にはたしかに相通じるものがあるようなのだ。

 近年のいわゆる萌えアニメというやつをたまに見ると、どうしようもなく沸き上がって来る感想が「幼稚だな」というもの。ひょっとすると、萌えというものは子供向けにデフォルメされたキャラクター文化へ性の要素を付け足しただけの「大きな子供用オカズ」ではなかろうか。「ちゃお」と「電撃大王」を表紙の絵だけで比較してみても、相通じるというよりは、同じ種から生まれた異母兄弟という感じがする。まあ、『苺ましまろ』を絶賛愛読中の私に何かを言えた義理は一片もないのであるが。

 さて、上で3段落しか触れていないゲーム内容について補足する。「ふしぎな森のポコラ」はフリーウェア版、製品版、ボイス付加製品版、ダイソー版の4つがリリースされており、どこかで「このフリーゲームがすごい!」みたいな賞を取っている。窓の杜大賞だったかな……。グラフィックは、今流行りの3Dポリゴンやトゥーンシェーディングなどではなく、昔懐かしい2Dドット絵で、それもよく動く。というか、フリー界隈での主流は今でも2Dドットだろう。このゲームは、その中でも一際抜きん出ているということを言いたい。滅多に見えないスカートの下まで描き込んであるのだから只事ではない。

 しかし、ストーリー面でひとつ難をつけるならば、主人公の夏美ちゃんが「田舎のおばあちゃんの家に遊びに来た都会っ子」ではなく、ガチの田舎娘であればなお良かった。『となりのトトロ』でも思ったことだが、それまで都会に住んでいた子供がのつく田舎へ越してきてカルチャーショックを受ける、という図式はいささか語り尽くされた感がある。陳腐である。田舎の、田舎による、田舎のための物語という構図が我が国には決定的に不足している。もっとも、戦前文学などはそういう要素が否応なしに入っていたのだろうが、日本国体がGHQの管轄下に置かれて以来、「田舎、NO! 都会、YES!」という邪悪な西欧的イデオロギーに侵され続けているように思う。

 東京一極集中を解消とか、道州制導入で地方の自立を促すとか、陳情地方議員からの金饅頭で悪玉コレステロール値急上昇中の窓際官僚が鼻糞をほじりながら考えたような机上の空論ではなく、まずはメディアの意識を変えることが大切なのではないか。ヒトラーが世論を統一するための国策映画を推奨したように、我が国でもINAKA文化を大プッシュする流れを作り出すべきではないか。

 危険を承知で言うが、そのためには陛下に京都御所へお移り頂くのがいちばん効果的ではないかと思う。京都が田舎とは言わないけれど、本当に東京から人を離れさせたいのであれば、皇族の執務所を古巣の京へ還すしかないだろう。そもそも、一時期盛り上がりを見せた首都機能移転論において皇室の処遇はどうするつもりだったのか。象徴天皇も伊達ではないということを、タクシーただ乗り議員やメタボリック官僚連中は忘れないほうがいい。

 そういうわけで、「ふしぎな森のポコラ〜DO-INAKA Edition〜」のリリースを強く提言し、今回のエントリーは幕とさせて頂く。



  『ふしぎな森のポコラ』
  2003年 Lizsoft
  “MEL”制作

『青い目撃者』

ダイナちゃん7歳危機一髪!
夜は獣のパパが百獣の王の胃袋に収まるまで


 映画に限った話で、「隠れた名作」という言い回しがある。

 マイナーだけどコアなファンがいる作品、という意味ではない。それではただのカルト映画だ。そうではなく、劇場公開時に単館系のハコでしか上映せず、あるいは劇場公開の機会そのものがなかった低予算映画で、後に販売されたVHSやDVDから「これ、意外といい映画じゃん」と好意的な評判に恵まれた作品のことである。この手の映画の定義として「感動作」という形容がついてまわるのも、ひとつの大事な特徴だ。

 ただ、感動と言っても、仕事帰りの茶汲みOLが何気なくレンタル店で借りて、メールを打ちながら横目で見ていたらグイグイ引き込まれ、エンドロールで滝の涙を流して顔面がマスカラで染まる、というような大げさなものでもない。気分がちょっと晴れやかになるとか、DVDがメニュー画面に戻ってもしばらく消さずに余韻へ浸るとか、そういう意味での「感動」である。

 私も普段はロリ映画ばかり見ている変態ではなく、いろいろ手をつけている雑食人間であるので、そういう「大事な映画」というものはいくつかストックしてある。んで、今回もひょっとしたらそういう作品にありつけるものと邪まな心持ちで買ったDVDがあった。ジェニー・ボーエン監督の『青い目撃者』だ。

 ジャケットの煽り文句には「エリート医師の父親から虐待を受け続けた7歳の少女・ダイナ」などと書かれており、これは否が応でも期待せざるを得ない。そのすぐ下、キャプチャされた劇中画像に被る「身体的虐待 心理的虐待 性的虐待」というチープな文字列は炎の画像をマスクしたものらしく、いい具合にB級感バリバリだ。「一見面白そうだけど聞いたことのないタイトルだし、まあ洒落で見てやるかと思って買ったら、本当にクソつまらなくてゲンナリした」というこれまでのケーススタディをすっかり忘れ、ダイナちゃん7歳ハァハァ、パソコンのDVDトレイに挿入しちゃうぞぉハァハァ、などと怪気炎を上げていた私なのであった。

 話としてはよくあるサスペンス映画である。実の父親から性虐待を受けていた疑いで警察に保護されたダイナ・ウォルコットという7歳の少女が、報復を恐れるあまり裁判の証言台で口をつぐんでしまう(証言拒否をした理由は他にもあるのだが、物語の核心へ触ってしまうので割愛する)。

 この事件を担当する女性検事ジョイは、次の公判での被害者証言を判事に確約してオフィスへ戻るも、肝心のダイナが施設から失踪したことを告げられる。「迷子探しは検事の仕事じゃない」と自分に言い聞かせ帰宅するジョイの車中にダイナは潜り込み、逃亡を図ったのだ。「私を追い返さないで」と懇願するダイナの瞳にただならぬ事情を察したジョイは、あろうことか単身彼女を連れ出して、父親から引き離そうと逃避行に出る

 一方、政財界へのコネで警察の告訴を退けたダイナの父親は、信用のおけない警察の代わりに探偵を雇って2人の行方を追う。当局も即座にジョイへの逮捕状を出してその行方を捜索するが、彼女は逃亡先で出会った保安官と親しくなり、ダイナと共に過ごせる隠れ家を提供してもらう。深い山の中でのナチュラルな生活は、虐待の傷も記憶もすべて忘れて、ダイナが笑顔を取り戻すきっかけになると思われたが、父親の雇った探偵はすぐそばまで迫っており……。

 たぶんこれを読んで眠くなった方がいるだろうが、書いているこっちも眠い。話運びがあまりにも定石すぎて、突っ込みどころがない。良くも悪くもB級サスペンスだ。きっと、睡眠不足で目尻の下がったシャブ中野郎が鼻歌混じりに脚本を手掛け、ハイネケンを箱で開けてベロンベロンに酔っ払った契約切れ間近の雇われプロデューサーが二つ返事でゴーサインを出したに違いない。そのぐらい、何も考えてなさそうな物語展開

 ただ、キャストはそれぞれにいい味を出していた。検事役のクレア・ランキンは演技とは思えないヒス具合だし、保安官役のジュリアン・マクホマンもいい声をしている。ルックスもイケメンだ。

 そしてダイナ役のアレクサンドラ・カイル。何やら各所で美少女と評判であるが、おそらく誰も言わないと思うので私が言おう。ビッチ顔。いや本当に。申し訳ないとは思うけれど、これが素直な感想だ。GyaOのレビューに「ダイナ役の子役が妙に色っぽいのが気になった」と書かれているように、これは男を誘う顔である。父親が自制を失うのも致仕方ないのではなかろうか。

 やはり同じレビュアーが「この映画を見て変な気分になる変態男どもがぜったいいると思うから、こういう映画を作る人々は変態を煽情しないように気をつけるべし」と書いているけれども、いや本当にその通りですという感じ。勃ったし、実際

 この映画を作った奴、耳の穴をかっぽじってよく聞け。俺はパパの味方だ。あんなセクスィーな娘をどこの馬の骨とも知れないヒス女にさらわれた挙げ句、性犯罪者のレッテルを貼られて最後はライオンの餌になっちゃうなんて、お兄さんコレ見てて涙が止まらなかったぞ。次はパパが地獄から甦って、のうのうと幸せに暮らすヒス女ジョイをなぶり殺して愛娘を取り戻すスプラッタームービーを製作しやがれ。それがパパへのせめてもの供養だ。あと、ダイナちゃんはパパを辱めた罰として裸踊りの刑な。

 映画は娯楽である。だがそれは、作り手が楽しんで終わりというわけではない。見る者を笑わせたり泣かせたり、悲しませたり考えさせたり、そういうものをすべて網羅してこその娯楽だ。この映画と似たテーマを暗喩として扱ったであろう『エイリアン2』は、実際にすごい映画だった。女は強く、少女は健気に、男は潔く、敵はあくまでも狡猾で、そして最後は観客そろってスタンディングオベーションを送りたくなる、娯楽映画の大傑作だ。『青い目撃者』という映画は、そういう意味でエイリアンのエの字にも及ばない。どこかで拾ったアイディアにどこかで見た物語を継ぎ接ぎして、ちょっと色気のある俳優を起用しただけの「いいお話」に過ぎない

 私はダコタ・ファニング主演の映画が嫌いだ。製作サイドがどう思っているのか知らないが、あれはダコタのプロモーションビデオである。映画じゃない。彼女が主演したタイトルはことごとく「ふぅん、それで?」と言いたくなる凡作の連続で、そうこうしている間にダコタちゃんはティーンに……

 宝の持ち腐れとはこのことで、どんなにいい俳優へ恵まれようと、どんなに贅沢なバジェットが組まれようと、駄作になるべくして作られた映画は駄作と化し、20年に1度のロリータ子役はロリ系AVのインチキ女優みたいに萎びてしまうのである。これは業界の悲劇ではなかろうか。相応の人材を相応の作品へ投入できる体制を、米映画界は今一度確立すべきではないだろうか。

 この映画、正直なところを言うと、作品としては残念な出来だ。だがビッチ顔幼女のあんな姿やこんな姿を見たいという鬼畜の向きには、まあお薦めできないこともない。劇中で事件解決のキーとなる「ポラロイド写真の束」も、フェイクとは思えない出色のクオリティである。この作品で褒められる部分といえば、そこぐらいしかないのだが。

 ただしその写真に関しても、ダイナちゃんが笑顔で写っていればなおリアルだった、と付記しておく。誤解を恐れずに言えば、悲劇の当事者は笑っているものだ。それが子供であれば尚更である。そして、実際にそういうポルノグラフィーがここ数十年の欧米の主流であることも、重ねて留意されたい。



  原題 “In Quiet Night”
  1998年 アメリカ映画
  ジョニー・ボーエン監督・脚本

『バナナフィッシュにうってつけの日』

大文豪の蒼きリビドーが燃え上がる
法を犯さない変態男とピュアな幼女の火遊び水遊び


 私は女児の足が好きだ。脚ではなく足が好きだ。つまり、くるぶしから下、踵とか土踏まずとか指とか、そういうのが付いている部分が好きだ。

 ロリコンという時点ですでに変態の極みであるので、「ひょっとして俺っておかしいんじゃないか」などと人並みに悩むことはなかったけれど、それでも自分で自分を不思議に思うことはある。冷静に考えてみて、汚いだけだろう足なんて。臭いし

 それでも魂の欲求には抗い難いものだ。暑がりなのに夏が好きなのはサンダル履きの女児が見たいから。日本の過疎掲示板がたまに外人連中に乗っ取られて、アレなモロ画像が大量に貼られることがあるが、そういう画像を見ても欧米の女児というのは基本的にペディキュアを塗っている。「洋炉(白人少女)じゃ抜けない」という人間が同じロリコンに多いのも、そういう分不相応な出で立ちに道義的な反感を覚えるからかもしれない。

 だが、ペディキュアを塗っていようがいまいが、足は足だ。携帯にストラップをつけても基本機能が損なわれることはない。それは足も同じことである。装飾の有無は足の魅力に何らの影響も及ぼさない。プラスになりこそすれ、マイナスに転じることはあり得ない。小さければそれでいい

 日本文芸界における足フェチの重鎮といえば谷崎潤一郎であり、その正統な後継者が村上龍だろう。前者は興味がないのでよく知らないが、ドラゴン村上の著作中に何の脈絡もなく登場する足描写ではずいぶんと笑わせてもらった。連作エッセイ「すべての男は消耗品である」で村上は、丸1回を使って足フェチとはなんぞやということについて自己問答している。曰く足は進化から取り残された唯一の器官であり、そこへ劣情を覚えるフェティシズムが存在するのであろう、というようなことを書いていたように思う。だが、私はドラゴン村上のそういう教養主義的な姿勢に疑問を呈したい。

 考えてどうする? 感じるんだ!

 フェチにおける快楽とはフィーリングにそのすべてが委ねられている。考えれば負けなのだ。いや、もしかすると村上は「思考」をオカズにする高度なオナニストであるのかもしれない。そうだとすれば彼のスタンスは極めて合理的なものだといえるだろう。

 私が『バナナフィッシュにうってつけの日』という短編小説を読んだとき、まず初めに抱いた感想が「話の筋はよく分からないけれど、やっぱり幼女の足は最強だな」というもの。たった23ページの短編小説において幼女の足首を掴む描写が3度も書かれているのだから、これは只事ではない。この短編において、主人公シーモアは半ば精神異常者として書かれているけれど、彼の強烈なフェティシズムの前ではそういったサイコな文脈も霞んでしまう。

 ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー。第二次大戦中は英国諜報部でスパイ訓練を受け、ノルマンディー上陸作戦へ参加した軍歴の持ち主であり、戦後は自著のメディアミックス(映画化等)を頑として認めない偏屈な物書きとして知られている。長編の代表作が『ライ麦畑でつかまえて』、『フラニーとゾーイー』であるならば、短編の代表作は紛れもなく『バナナフィッシュにうってつけの日』であろう。

 この短編小説は内容的に2部構成となっている。前半は、リゾートホテルに泊まっているミュリエルという女性が長距離電話で母親と会話をする描写が延々12ページ。ミュリエルはシーモアの妻であり、彼の「異常な言動」を憂慮した母親から「あのキチガイは大丈夫なの? 海岸で合衆国憲法を朗読してたりしない?」などと確認の電話を受けているというのが前半のシークエンスだ。

 それから後は、主人公シーモアがビーチで幼女と戯れる描写が続き、唐突なラストで幕を閉じる。シーモアの相手をする幼女の名はシビル・カーペンターといい、セパレート水着が可愛い白人少女の鑑みたいな子。さて、この子が母親にサンオイルを塗ってもらう場面では、さすが大文豪というべき秀逸な描写がみられる。



 カーペンター夫人はシビルの肩に日焼け止めのオイルを塗っていた。翼を思わせる華奢な肩甲骨のあたりにまで一面にひろげてゆくところである。 (J・D・サリンジャー 『バナナフィッシュにうってつけの日』)



 「翼を思わせる華奢な肩甲骨」とは、要するに天使だと言っているわけだ。決して「天使みたいに綺麗な」だとか「この世のものとは思えない美少女」などと書かない、シャイな巧さ。美少女を美少女と書くことは簡単だけれど、それを敢えて読者のイマジネーションに任せるところが「文学」たる所以なのである。想像力に訴えるということはそれだけ物語世界へ没入させやすいということで、これができるかできないかが、巧い作家とそうでない作家の分かれ目であるといえる。

 ちなみに、シビルの年齢に関してもサリンジャーは「カナリヤ色のセパレーツの水着を着ているが、その上の部分が実際に必要になるのは、あと九年か十年してからのことだろう」と書いている。就学前の女児をこれほどまで陰湿に書く男を私は知らない。おそらくムッツリスケベなのだろう。

 文学談義はこのぐらいにして、主人公シーモアがいかに変態性欲者かという話題へ移る。彼がホテルでピアノを弾いているときにシャロンという少女を膝に乗せた話を引き合いに出し、シビルがやきもちを焼く場面がある。そこで彼がシビルに言ったことといえば「シャロンを君だと思うことにしたのさ」という台詞。アメ公はどうしてこうも殺し文句が冴えているのか。私がシビルだったら骨の髄までメロメロにされた挙げ句、無毛の股ぐらをパックリと差し出していたことだろう。というか、これは大人の女に使うべき台詞ではないか。シーモア、お前……。

 先ほど足首がどうのこうのと書いたが、シーモアがシビルの足に執着する場面はたしかに数度書かれている。というか、そこだけ妙に浮いた、異常な描写といってもいい。挙げ句の果てには、沖合でシビルと戯れているとき、おもむろに彼女の足を掴み上げて土踏まずにキスをする。なんと羨ま、いやけしからん男だ。全世界の女児足フェチが夢に見ていることを、よくもヌケヌケと……。

 しかし、シーモアが本当に異常だと分かるのはこの後の描写だ。彼はシビルと別れたあと、ホテルのエレベーターでどこぞのご婦人に「あなた、ぼくの足を見てらっしゃいますね」などと言い出す。「こそこそ盗み見するのはごめんだ」と。変態呼ばわりされた婦人はすぐにエレベーターを立ち去ってしまうのだが、この描写には2つの意味があると私はみている。ひとつはシーモアが真性のサイコであるということ。もうひとつは、彼のシビルの足に対する執着へ、明らかに性的なニュアンスが含まれていたということだ。

 この小説には、シーモアという男がいかに異常かということがそれとなく、しかし強烈に書かれているが、それは彼の足に対するフェティシズムへすべて集約されている。とどのつまり、足フェチは異常者なのである。私は異常者なのである。そんな私が全国の足フェチ諸氏へ言いたいのは、決して間違いを犯すなということだ。同志よ早まるな。生きている限り、(合法的な)機会は巡ってくるぞ。多分。

 この『バナナフィッシュに〜』を手に取ったとき、始めは強烈なオチも含めて話の意味がよく分からなかった。が、今なら少し理解できる。この短編は、不可解な死を遂げた異常者の言動を、その背景を織り交ぜながら時系列に追ったフェイクドキュメンタリーなのである。彼が心を病んだ原因にしても、明確ではないにせよ「戦争」「軍隊」というキーワードが随所へちりばめられており、想像は容易だ。またその人物造形は、大戦兵士であったサリンジャー自身の映し鏡であるとも言える。サリンジャーが足フェチであったかどうかは知らないが。

 この短編には『バナナ魚日和』『バナナフィッシュに最適な日』等、いくつかの日本語訳が存在する。原書で読めればそれに越したことはないが、とりあえず野崎孝の秀逸な訳である『バナナフィッシュにうってつけの日』がいちばんうってつけであることは間違いない。短編集「ナイン・ストーリーズ」収録なので、書店で見かけた場合はぜひ手にとってみてほしい1冊だ。



  原題 “A Perfect Day for Bananafish”
  1974年 新潮社
  J・D・サリンジャー 著

お報せ

06/24
 またタイトル画像を変更。クリックするとTOPページへ。

06/23
 新エントリー「シュヴァンクマイエルの『アリス』」をUPしました。

目次

バックナンバー

ジャンル

ブログ内検索

お楽しみリンク

友達申請フォーム

プロフィール

時計

Author:時計

しりとりしようぜっ!
まず俺からな。

「ロリコン」


励ましのお便り

名前:
メール:
件名:
本文: