『生存者』

9.11の前後で米国社会はどう変わった?
…などと考えさせられない、まっすぐな娯楽小品


 ジョディ・フォスターの『フライト・プラン』を見ていて、ひとつ感心した部分がある。9.11同時多発テロ以降、米連邦航空法が改正され、乗客名簿と実際の搭乗者の数が合わなければ最寄りの空港へ緊急着陸しなければならなくなったというのだ。もちろん、劇中では乗客名簿そのものが改竄され、狭い機内で愛娘を探すジョディはキチガイ扱いされるわけなのだが。

 クーンツ原作のTV映画『生存者』は、凄惨な航空機事故で妻と娘を失った男が米政府の陰謀へ立ち向かうSFサスペンスだ。作品の冒頭、順調にフライトしていたはずのネーションワイド353便が原因不明の航路逸脱を起こして山中へ墜落、乗客乗員330名は全員死亡する。その中には主人公ジョー・カーペンターの妻子も含まれていたのだが、事故からしばらく経ったある日、彼は墓地でローズという女性に遭遇する。彼女こそ、353便の搭乗客の1人であり、事故で死亡したはずの人物だった。

 ジョーは大いに混乱する。「死は終わりじゃない」という彼女の言葉、事故の裏に見え隠れする謎の組織の影……。ローズが本当に事故の生存者であるなら、妻と娘もどこかで生きているかもしれない。ジョーは自分の仮説へ半信半疑になりながらも、単身事故調査へ乗り出す。

 353便の犠牲者遺族の元を点々とするジョー。しかし、彼の赴く先々で遺族らが不審死を遂げ、物語はいよいよ陰謀臭に満ち溢れ始める。彼はついに、当時の事故処理において現場指揮を執った元NTSB(米国家運輸安全委員会)調査官バーバラを訪ねるが……。

 とまあ、今どき懐かしい感じがする真っ当なSFサスペンス映画。今にもデイビッド・ドゥカブニーが現れて「スカリー、こいつはただの事故じゃない」などと口走りそうだ。が、そこは低予算B級TV映画の真骨頂、『生存者』の主人公は一介の雑誌記者である。それも妻子を亡くして以来ふさぎ込み、職場に1年近く顔を出していない鬱モード全開の内向き中年。これでクビにならないところがアメリカだなあ。あまり知られていないことだが、あの国で「正社員」というシステムは決して主流ではない。

 TV映画ということで、劇中何度か場面が暗転し、同じシーンが繰り返されることがある。おそらくここにCMを入れていたのだろう。「映画は最初から最後までひと息で見せやがれ」という通な方には向かない作品だ。内容のほうも、決してつまらなくはないが特に面白い部類でもなく、ふうんこういう映画ね、という感じ。おまけにちょっと宗教がかっていて、人によっては気持ち悪い映画と感じるかもしれない。

 ただ、キャストが無駄に豪華で、脇を固める子役陣もなかなかの逸材であるため、その旨エントリーを割いて紹介させていただこう。

 この映画に登場する少女は2人いる。ひとりは353便墜落で死亡したニーナ・カーペンター。主人公ジョーの娘だ。もうひとりは、政府の研究所で超能力研究のサンプルとして育てられた、暗号名「21-21」という少女。2人とも6歳で、少女というより幼女である。

 さて、エンドクレジットを見て驚いたのだが、ジョーの愛娘を演じた少女の名はジョデル・フェルランドという。そう、『ローズ・イン・タイドランド』でヒロインのジェライザ=ローズを演じ、各方面において波紋を呼んだ、あのジョデル・フェルランドだ。幼少から様々なメディアで活躍していたとは聞いているが、まさかこんなマイナー作品にまで顔を出していたとは。

 いや、主人公の娘役なのだから、顔出しという程度の話ではない。これは立派な芸歴だろう。私が『生存者』というタイトルを手に取ったのはまったくの気まぐれであり、この映画にジョデルが出ているなど、1本だけ伸びた冬場の鼻毛ぐらいに知る由がなかった。これはもうロリータの神様に感謝せねばなるまい。ちなみにこの作品でのジョデルは幼児全開、歳相応の可愛らしい女の子である。後にあんな役やこんな役をやることになるなどと誰が予想しただろう。

 その幼ジョデルと並んでお絵描きする格好がとてもラブリーな女の子、超能力少女21-21がこれまた凄い。何が凄いって、まずテトリスの腕前が神級だということ。次に、この手の白人幼女にしては珍しい垂れ目の持ち主であり、ぷくぷくホッペと一緒にぎゅっと抱き締めて高い高いをしてやりたい衝動に駆られる通好み美幼女という点。

 そして何よりも表情が素晴らしい。無口で感情を表に出さないというオタク臭い設定のおかげで、劇中では始終ぶすっと仏頂面なのだが、物語の重要な場面で時折見せる笑顔が100万ドルのスマイルって感じですんごくキャワユイのである。

 特に、映画の終盤で酒場のオヤジ相手にある能力を発揮したときなど、実時間にして1、2秒にも拘らず、私の中では数時間にも感じられる奇跡みたいな笑顔を見せてくれた。さながら、この映画はこの瞬間のために撮られたといっても過言ではない、そのぐらい神々しい笑顔。あれが素なのか演技なのかは分からないが、演技だとすればダコタ・ファニングなど敵にならないレベルである。この子を後の大作映画へ起用しなかった欧米の能無しプロデューサー共は全員、鉛のオスカーで順繰りにぶん殴られた上でさっくりと首を括るべきだ。

 というのも、21-21を演じたレイチェル・ヴィクトリアちゃんは、その後の女優活動の音沙汰がまったくなく、ジョデルと同期であることを考えれば今が旬真っ盛りであるはずなのだ。ちょっとだけ大きくなった垂れ目美少女レイチェルちゃん……。惜しい。本当に惜しい。世界はまた1人、貴重な逸材を逃したのである。これを教訓とし、欧米各国は子役専科の高級エージェンシーを設置すべきであろう。そのためには私自身も、資金面以外での協力を惜しまない所存だ。

 何? 「垂れ目美少女」が「割れ目美少女」に見えた? 眼科に行ってください



  原題 “Sole Survivor”
  2000年 カナダ映画
  マイケル・ソロモン監督

『enfants FIGARO』

「重いな、これはなんだ?」
「夢のかたまりさ」


 オシャレで可愛い子供の写真が見たければ、U-15物の卑猥なアイドルグッズを買うより女性誌の子供服特集を見ろ――。これ、私が同好の士へ会う度に言っている常套句。たとえば、通販雑誌の下着特集ページを「利用」していたイマジネーション溢れる方なら、この感覚は分かっていただけると思う。

 そもそも現在のU-15アイドルというのは、従来のアイドルフリーク路線を忠実に踏襲したキャラクタービジネスであり、特に気にかけている子がいない限りロリコンがこれに嵌るメリットは少ない。特に近年のU-15イメージビデオなど、性的なニュアンスを露骨に推し出したヤクザ商売であり、価格も一般的なものより随分割高だ。

 それに、倫理的な観点からも容認できたものではない。「ロリコンが倫理を語るな」というありがたい声が天から聞こえてくるようだが、倫理を捨てたロリコンは犯罪者になるほかないのだ。30年ほど前、「ヘアヌードが駄目ならパイパンでいいやん。ロリでいいやん」という冗談みたいな理屈で少女ヌード写真集が流行したが、宮崎勤の一連の事件でこれらの刊行物が書店から一掃された歴史を忘れてはならない。

 さて、女性誌の子供特集であるが、CanCamやViViなどといった浮ついた雑誌ではなかなか見かけない。まあ、あれはファッション誌というより流行服のカタログ、頑張った自分へのご褒美で初物を指名買いし極上スイーツを出す隠れ家的お店へ通って本格エステでデトックスしつつマイナスイオンドライヤーでサラサラ髪を作ってロハスなんかにも取り組んじゃうプチセレブのライフスタイルマガジンであるので、小便臭い幼女なんて載せられるか、ロリコンは豆乳プリンの角に頭をぶつけて死ねボケ、というスタンスなのであろう。私としても、そちらの世界への敷居を跨ぐつもりは毛頭ない

 狙いどころはやはり、南蛮由来のバタ臭い雑誌の数々である。中でも「フィガロジャポン」は、不定期で『enfants FIGARO』というチャイルドファッション特集を組み、これのクオリティがなかなかのものなのだ。余談ながら、アンファンと言えば私の場合コクトーの小説なのだが、最近の若い人はメタルギアソリッドのほうを思い浮かべるのだろうか。

 『enfants FIGARO』は別冊付録であり、本誌と切り離して読めるのが嬉しい。内容といえば、子供服ブランドの全面広告が数ページ載ったあと、綺麗な服を着た女の子の写真とそれを解説するキャプション(値段、取扱店等)を載せたページがいくつか。あとは各号によって違うが、何らかの特集記事が2つ3つ組まれて幕という構成である。

 ここではフィガロジャポン2007年3月号の『enfants FIGARO』を取り上げる。今回掲載された特集記事は「おしゃれエリート候補生の、ドレスコンテスト開催。」が始めに来るが、これは先述したキャプションつき写真記事。次に「おしゃまなプティット・マドモアゼルの1週間。」と題された、エリザという5歳の女の子のライフスタイルを時系列に追うという記事が数ページ続く。ファッション誌でよくあるアレの幼女版である。

 「小さなお願い、夢のマイルームを作って。」では、いわゆる子供部屋のガジェットの数々をラインナップしている。アンティークや一点ものが多く取り上げられているようだ。「レッツトライ! 料理キッズの簡単おやつレシピ。」は、ビッグカツなど人間の食い物ではないと言わんばかりのオシャレおやつ特集。手作りゼリーやバナナシェーク、スムージーなど。たしかに見栄えはいいし、小さい女の子に喜ばれそうな物ばかりなのだが、使われている食材がことごとく外国製品であるのが気になる。

 上記おやつ特集と似た空気を持つのが「5歳の私へ届けたい、心ときめくMY絵本。」。曰く「各分野で活躍中のクリエイター」が厳選した珠玉のタイトルであるらしいのだが、こちらもラインナップが凄い。3冊を除いてほぼすべてのタイトルが英語あるいは仏語圏の絵本である。「各分野で活躍中のクリエイター」には日本人も起用されているのに、なぜかアルファベット尽くし。お前ら本当にこれ読んでたの? 日本語もおぼつかない年頃でこんなボーダーレスなものばかり読んでちゃ頭おかしくなるぜ? あ、だからクリエイターとか言ってんのか

 最後に来るのが「未来のスターを大発掘! スーパーキッズ物語。」という、マイナー子役やキッズアスリートの特集。これはキタ。私こういうの大好き。いつかこういう「大きなお友達向けのシリアスな少女趣味雑誌」を出版してみたいと常々思っているところだ。

 エロ漫画家を取り上げるにしても、猫玄やEB110SSではなく町田ひらくをクローズアップ。巻頭にはアリエル・ゲイドのキュートなグラビアを載せて、ロリポップキャンディとジェリービーンズならどっちが好きかを直撃インタビューする。その月に発売された漫画、小説、映画から珠玉のロリ作品をレコメンドして(「君チラ」のオフ版)、蛭子神建氏にコラムを受け持っていただくなど、リーガルな小児性愛の発展を切に願う文化的啓発的なコンテンツも掲載しなければならないだろう。誌名はアリスのアナグラム「Ecila」でキマリだ。

 少し妄想が過ぎた。『enfants FIGARO』に戻る。最後の特集「未来のスターを〜」では幾人かの「スーパーキッズ」が取り上げられているが、中でも私が気になったのがアンナ・アガフィア・スヴィデヌック・イーホルムちゃん10歳だ。著名ジュニアオーケストラでソロを務めるバイオリニストの卵で、4ヵ国語を話すマルチリンガル、フィギュアとバレエにも造詣が深い万能少女である。2004年には映画出演も果たした。

 何より、週6日のレッスンスケジュールは大変ではないか、と訊くインタビュアーに対して「私のやっていることは練習をしないと、人前でかっこよく披露できないことだもの」と言ってのける精神が凄い。『どうぶつの森』などにウツツを抜かす我が国のお子様とはえらい違いだ。天は二物を与えるなどと言われるが、この子は三物も四物も持っている。また、それらに取り組むスタンスもプロ顔負け。いいご両親に育てられたんだろうなあ。

 なんだかちょっとしんみりしてしまった。鬱なロリコンほど怖いものはない。ここはひとつ明るい声で「フィガロジャポンの動向を注視せよ!」とだけ言って締めておく。また、ほかにも通好みな特集を組んでいる雑誌があればご教授いただきたい。



  フィガロジャポンNo336別冊付録 『enfants FIGARO』
  2007年 阪急コミュニケーションズ

『裂けた旅券』

チョイ悪オヤジとエロカワ少女
人種も年齢も越えて、巴里は今夜も燃ゆる


 少し前まで、活動を停止した作家の足跡を辿るのは大変だった。それがマイナーな作家であれば尚更だ。作品は作家にとって生存報告のようなもので、作品を上梓することが即ちタイムカードを打刻するに等しい。インターネットの普及に伴って、かのような事態も多少は打開され得ると期待したが、実際はなかなか難しいようである。

 404 NOT FOUND。接続先が消滅または存在しないことを意味するエラーコードのひとつ。これが表示されてしまえば、金田一耕助だろうが帝国データバンクの調査員だろうがお手上げだ。私は幾人かの漫画家の個人HPやブログをブックマークしているが、最近その内のいくつかがデッドリンクと化していた。だが、それらをブックマークから外すことは敢えてやらない。経路障害で一時的に見えなくなっているだけかもしれないし、何より「そこにWEBサイトがあった」という根拠を根こそぎ消してしまうような感じがして、腰が引ける。また、後々に別のクエリで検索してみたらあっさりと移転先が見つかった、なんてこともあり得なくはない。

 御厨さと美という漫画家は、フルネームでググれば1万4000件ほどヒットする。だがその代表作となると、途端に1000件台にまで落ち込んでしまうから不思議だ。一応「ビッグコミック」で連載されていたメジャータイトルであり、漫画文庫にもなっており、「Yahooオークションで高値をふっかけられながら落札するも、送られてきたのは表紙の写真だけ」などという極悪事例には当てはまらない。ただし、20年ほど前の漫画作品なのだが

 その御厨さと美の個人HPだが、昨年まではどうにかアクセスでき、日記もマメに更新されていた。だが今年に入って久々にアクセスしてみるとサーバステータスは404。単に契約更新を忘れたのか自ら閉鎖したのか。ネット時代全盛といっても、「消えた漫画家」が本当に消えてしまえば取材も追跡も困難になる状況は何ひとつ変わっていないようである

 御厨さと美『裂けた旅券(パスポート)』。私は中学生ぐらいのときに、父親の蔵書だったこの漫画作品を楽しんでいた。単行本の内1冊はページの脱落を起こしており、かなりのビンテージ物であることが見て取れる。親子2代で読み継がれた漫画なのだから当然だ。単行本は全7巻あり、我が家には7冊すべて揃っている。版を見ると、父親は1982年から買い揃え始めたようだ。25年も前である。しかし、月並みな表現を敢えて使うと「古さを感じさせない画風」で、21世紀の現在に本棚から引っ張り出して読んでも、充分観賞に耐え得る漫画だ。

 羅生豪介(らもう・ごうすけ)という在仏日本人の中年男が主人公。物語の最初のうちは、自前のパスポートで日本人観光客のアテンドをしたり、圧政に苦しむ東ヨーロッパの著名人が記した自由主義宣言書を西側へ運び出したりと、何やら「不良外人」の様を呈するも、単行本2巻の終わりを境に状況が変わってくる。13歳の少女娼婦、マレッタの登場である

 フランス首都パリといえば、ブローニュの森という有名な観光地がある。ここは保護林であると同時に伝統的な売春のメッカであり、日没後はロングコートの下に過激なインナーをチラつかせた「夜の貴婦人」たちが列をなして客待ちをするという、別の意味でも観光客に人気のスポットだ。孤児であるマレッタ・クルージュは、ここの売春宿のひとつに引き取られて客を取っていたのだが、ある事件がきっかけで豪介を身許保証人とし、彼のアパートへ居つくことになる。このあたりから物語は方向転換を見せ始め、子供を養育しなければならなくなった豪介も堅気の職へ就こうとし、それまでの生活を改める。「親子ほどの歳の差の微妙な恋愛、ときどき国際陰謀」という、この漫画の基本スタンスが確立する瞬間だ。

 物語の中盤で、豪介はフランス通信社の契約記者となり、安定収入を得るようになる。いっぽうマレッタは、かつての荒れた生活とはうって変わって、豪介の援助で名門女子校へ入学し学生生活を謳歌する。だが、かつて豪介が関わった裏の世界の人間たちは、そんな2人の事情などお構いなしに厄介な「仕事」を持ちかけ……。アイルランド共和軍の闘士から中東産油国の王族、KGBの幹部まで、およそスパイ映画に出てきそうなイカつい面子は何でもござれだ。だが、80年代欧州の政治経済情勢を丹念に織り込んだシリアスな作風が、それらを決して絵空事ではなく、血の通った人間の物語へと仕立て上げている。

 マレッタのルーツに関して、物語中で明解な描写はない。彼女がいかにして孤児になり、どういう経緯でブローニュの森へ引き取られたのか。大元を辿ればイタリアンマフィアの血統へ行き着く「かもしれない」ことが終盤のエピソードにおいて仄めかされているが、それもこれも憶測の域を出ない。こういった、読者を煙に巻くような演出も、コアな漫画読みの間では概ね好評だったようで、続編が待たれる要素のひとつでもある。もっとも、作者自身が往年のファンを煙に巻いて姿を消している現状では如何ともし難いのであるが(Wikipediaによると、御厨さと美は現在、東海大学の講師として漫画家稼業からは身を引いているそうである)。

 日系チンピラが主人公の仏版『レオン』というべきか、『龍が如く』をバタ臭くした感じというべきか。とにかく80年代当時、そして今もなお他に類をみないワン・アンド・オンリーの作風を武器に2年近くの連載を全うして伝説化した珠玉の漫画作品である。

 この作品は漫画文庫として再版されていると先述した。私は小学館BIG COMICS全7巻を所有しているので文庫版のほうは知らないが、ひとつ懸念がある。『裂けた旅券』というこの漫画、その辺の青年漫画よりもネームの量が多く、文庫化に際して非常に「読みづらい」漫画になってはいないか、ということだ。文庫版『ゴルゴ13』の読みづらさを思い起こしてほしい。最近100巻を超えたそうだが、コンビニで立ち読むたびに細かいネームをすっ飛ばしてしまう私がいる

 そもそもこの分野に関して私は、絵で見せるべき漫画作品を活字の携帯スタイルである文庫サイズへ縮小して良いものか、という疑問を常々抱いているのであるが、それはまあいいだろう。とにかく、文庫版が初見の読者諸氏がこの漫画に対して「小難しく読みづらい変り種漫画」という感想を抱かないことを祈るばかりだ。



  『裂けた旅券』
  1981‐1983年 小学館
  御厨さと美 著

『ドニー・ダーコ』

ある日、飛行機のエンジンが落ちてきた
世界の終わりと80年代UKミュージックシーン総まとめ


 人類最大の発明は原爆でもマイケル・ジャクソンでもなく石鹸。精神科の受診料は1時間200ドル。カルトの教祖は営業の片手間に児童ポルノ愛好クラブを運営している。国語のテキストにグレアム・グリーンを使えばPTAの苦情で失職する。こんなことを言い出すヤツは、十中八九『ドニー・ダーコ』マニアだ。もっとも、「エヴァ」で免疫ができていたせいか我が国では、マニア層を輩出するほど流行った映画ではないのだが。

 2002年当時、「bonzo」という1号限りで廃刊になったカルチャー雑誌があった。それ以前に発売されたパイロット版を入れても2冊だ。ブルボン小林が漫画の批評コラムを書いていたり、24年目のリターンマッチと称してスティーヴン・スピルバーグとジョージ・ルーカスにそれぞれインタビューを取ってきたりと、かなり精力的な雑誌だった。私は第2号の発売を心待ちにしていたのだが、待てど暮らせど書店には並ばない。月刊じゃないとしたら隔月刊か? もしかすると季刊かも?

 結局、廃刊の事実を知ったのはそれから数年後のことだった。当時の編集スタッフの回顧録がどこかのWEBサイトで読めるが、アドレスはもう憶えていない。とにかく、私が『ドニー・ダーコ』という映画を知ったのはこの雑誌の紹介記事を読んだからであり、決して「Cut」や「スクリーン」の提灯記事に踊らされたわけではない。そもそも正真正銘のミニシアター系映画である本作が、当時の他の映画誌で取り上げられていたかどうかは知らない。bonzo vol.1の117ページにある「世界は終わると信じていた 80年代の痛切な回顧」というキャッチだけが、とても印象に残っている。

 この映画は、リチャード・ケリーという青年がたった1人で脚本を書き上げ、その奇想奇天烈なプロットへ惚れ込んだドリュー・バリモアが自らプロデューサーを買って出て資金集めにまで奔走したというエピソードが残っている。ドリューは本作で、校長へ楯突いてクビになる国語教師役もやっており、この映画に対する思い入れは尋常じゃなかったらしい。当のリチャード・ケリーは、それまでショート物をいくつか手がけていただけの新人で、この映画が実質的な長編監督・脚本デビュー作だ

 自分で書いておいて言うのもなんだが、映画にミニシアター系も大館系もないような気がする。たしかに、コマーシャルへ資金を注げばメディアへの露出も増し、大手劇場が上映を買って出るという事態もあるだろう。が、それもこれも観客には至極どうでもいいことだ。だいたい、スター・ウォーズの新作が劇場公開前にネットで全編流出するようなこのご時勢、上映館の広さや多さは映画を判断する基準にはなり得ない。最近やたら「口コミ」という宣伝文句が踊るのも、単に電通の陰謀ということではなく、既存の広告戦略へ乗らない人間が実際に増えていることの現れ、というのは買いかぶりすぎだろうか。ともあれ、ミニで嬉しいのはスカートだけというのが玄人筋の一致した見解であることは間違いない。私の好みは膝丈ですが

 さて、『ドニー・ダーコ』はジャンルとしてはSF映画にあたる。もっとも、厳密な意味でのサイエンス・フィクションではなく、藤子不二雄が言うところの「(S)すこし(F)ふしぎな」映画、というほうが実情に合致するかもしれない。

 夢遊病のケがある17歳の男子高校生ドニーの家に、ある日突然、飛行機のエンジンが落下する。間一髪のところでウサギの幻に命を救われたドニーは、以後この「着ぐるみウサギのフランク」のアドバイスへ服従するようになり、学校の設備を破壊し、金持ちの大邸宅へ放火する。それもこれも、28日6時間42分12秒後に訪れる「世界の終わり」のため。

 タイムトラベルの哲学、凶悪な父親から逃げてきた転校生の美少女、タレントキャラバンに招待される幼い妹、教育現場を侵食する怪しげな自己啓発、世界で最も美しい文字列“Cellar Door”……すべての事象が「世界の終わり」に向かってなだれ込み、ドニーは父親の自動拳銃を持ち出して最後の瞬間を演出する。

 「世界の終わり」とは? 着ぐるみウサギ・フランクの正体は? タイムトラベルに必要だという「金属製で空を飛ぶ乗り物」とは一体? すべてはドニーの見た幻だったのか、それとも……。

 映画をひと通り見たあと、このドニーという人物造形に心当たりのある人が多いのではないか。自分の思春期を思い起こして、ああこんな風だったなあ、でも精神科医の前でズボンを下ろしてマスをかいたことはないなあ、等々。グチャグチャでメチャクチャだった昔の自分をドニーに重ねて感情移入する人が多い気がする。この映画はSFやサスペンスということ以外に、思春期男子の心の揺れ動きを切り取った、きわめてリアルな青春映画であるとも言えるだろう。

 そのドニーの妹、サマンサ・ダーコ役を担ったのがデイヴィ・チェイスという子役。当時は10歳か11歳だったはずだ。デイヴィ・チェイス? 誰それ? そう思う向きには、ディズニー映画『リロ&スティッチ』のリロ役、または『千と千尋の神隠し』北米版において千尋の声を充てた女の子、と言えば分かりやすいかもしれない。そんな裏方に徹することが多かったデイヴィちゃんが、この映画ではユニコーンのぬいぐるみを片手にサイコ少年の妹役を好演している。

 映画のクライマックスで、サマンサ率いるダンスチーム「スパークル・モーション」がタレントショーに出演し、デュラン・デュランのヒット曲でノリノリに踊りまくる場面がある。セルDVDにおけるチャプタータイトルはずばり「スパークル・モーション」。年端も行かない少女たちがギンギラギンの80年代的コスチュームで一心不乱にステージプレイする様は、正直「異様」の一言であり、これに比べれば、ドニーが姉の恋人を射殺する場面など霞んでしまう。私など、このチャプターを何度リピートしたか覚えていないぐらいだ

 この場面、当初はペットショップボーイズの“West End Girls”を使うつもりだったのだが、予算の折り合いがつかずにデュラン・デュランへと変更された経緯がある。ペットショップボーイズ版のスパークル・モーション……ものすごく見たい。あの曲は、当時としては珍しくボーカルにラップを使った物憂げな歌で、この曲をiPodで聴きながらロンドンのウエストエンドを歩く観光客が後を絶たない……かどうかは知らないが、映画のあの場面にピッタリなのは確かだ。

 余談だが、私はこの「スパークル・モーション」のフルサイズ版がDVDの特典映像に収録されるものと信じて疑わなかった。今からでも遅くない、リチャード・ケリーはデュラン・デュラン版とペットショップボーイズ版の両方を完全尺で収録した特別DVD「スパークル・モーション コレクターズエディション」をリリースすべきである。どうせ当時のフィルムはまだ残ってるんでしょ? ガチンコ金髪幼女がギンギンの衣装で腰をフリフリする映像の未編集版、スタジオで内々においしく頂いたんでしょ? 俺らにも見せろよコノヤロウ、独り占めはズルイぞ。

 私が買ったのは通常版DVDだが、今は廉価版『ドニー・ダーコ』が販売されているはずである。わざわざ買わなくとも、最寄りのレンタル店でミニシアター系もしくはサスペンス系の棚を探せばすぐに見つけられるだろう。ぜひ1度、デイヴィちゃんの腰フリ映像とか、キモカワイイ着ぐるみウサギのフランクとか、いろいろ堪能していただきたい。『バタフライ・エフェクト』のディレクターズカット版本編のオチに納得できた方なら、物語のほうも充分楽しめるはずである。



  原題 “Donnie Darko”
  2001年 アメリカ映画
  リチャード・ケリー監督

『Papa told me』

きのう見た夢を憶えているか?
生活感に乏しい父娘の、プラトニックな近親相姦


 5年ほど前、新聞の書評欄に『Papa told me』が取り上げられていた。文系インテリたちの間で静かな人気、などと紹介されていて笑った記憶がある。ただのマニア受け漫画に大層な修辞をつけたところで、この手の「世間に違和感を持つ頭のイイ人たちのお話」は、ある種の人々の間でしか流行らないのに。

 主人公は的場知世ちゃんという小学生の女の子で、家族は小説家のお父さんが1人。早くに亡くした母親の記憶はおぼろであり、バベルの塔みたいな高層マンションに父親と2人っきりで住んで「自由で創造的な父子家庭」を目指す、というコメディタッチの連作短編漫画である。

 いわゆるハイソ(靴下のことではない)な父娘の他愛のない物語なのだが、初期のエピソードには父親がパチンコでフィーバーする描写などがあり、庶民感覚へ寄り添う優しさを欠かさない。もっとも、出玉はすべて景品に換えるなど、公序良俗への気遣いも織り込み済みという徹底ぶり。まさに至れり尽くせり、優しさ半ばのバファリンみたいな漫画作品だ。

 連作短編物ということで、各話の間に直接的な物語の流れはない。『アウターゾーン』のミザリィみたいな立ち位置にいる知世ちゃんが、あちこちで見たり聞いたり感じたりしたことを徒然に物語化しているのみである。もっとも、連載後半ではネタ切れを起こしたのか、主人公が1ページしか出てこないエピソードなどもちらほらと描かれるのだが。

 この知世ちゃんという子が、可愛くて賢くて元気でお喋りで繊細でリリカルでファザコンで……という、文字通り、絵に描いたような少女っぷりなのである。作者の英国フリークやアリスのモチーフが度々出てくることからも、ルイス・キャロルのあの童話の根強い影響下にあるのは間違いないだろう。彼女は、澁澤龍彦が言うところの「独身者の願望から生まれた美しいモンスターの一種」そのものだ。

 知世ちゃんには叔母がおり、名を的場百合子という。2人は「知世ちゃん」「ゆりこちゃん」とファーストネームで呼び合うシットコムの登場人物みたいな間柄だ。この叔母というのが、いい歳こいて仕事一筋のキャリアウーマン、「結婚は人間よりも制度との契約」がモットーの独身貴族であるから知世ちゃんも堪らない。的場親子のマンションをしょっちゅう訪れては「ウチの会社の新化粧品! 私が開発担当YO!」などと喧伝して知世ちゃんの熱い視線を受け、あまつさえ「ゆりこちゃんみたいになりたい」などと言わせてしまう罪作りな叔母である。

 当初はこの3人をメインに据え、1話完結の連作スタイルを取っていたのだが、連載を重ねるにつれてその他のレギュラー陣も充実して行く。幸薄メガネ美女の雑誌担当者、かつて市政に携わった隠居老人、どう考えても採算が取れていない道楽カフェの美人双子オーナー、幼少期のトラウマに戯れる売れっ子恋愛小説家、自家中毒気味の政治家の息子……。どうしようもない人たちばかり。掲載誌(今は亡きYOUNG YOU)にふさわしい奇人変人コンテストといった趣だ。ご自身がそうなのかどうかは知らないが、この作者は病人や酔っ払いを描くのが本当に巧い。

 とどのつまり、『Papa told me』は夢を食いつぶして生きる寂しい人々の群像劇なのである。20年近くの連載を通じて、その主題から外れたことは一度もない。

 連載が始まったのは1987年。今と違い、ヒラ社員が末は社長になれると信じられていた愚昧な時代であり、湾岸戦争のワの字もなかった平和な時代であり、意味もなく高騰する不動産価格にふわふわと浮かれていた白痴の時代であった。そこへ来てこの『Papa told me』は、やがて訪れるエゴの社会を先んじた予言的名著と言えるかもしれない。

 この作品の主題とバブル後の日本社会とに共通するのは、個人“主義”と呼べるようなイデオロギーを醸成せずライフスタイルだけを細分化させた結果、エゴを吐く肥満魚と誰かの吐いたエゴを飲み込む雑魚とが大海の上澄みで共存するという、海洋生物学的なビジョンである。「井の中の蛙」と違うのは、両者共に海の広さを知ってはいるが深さは知らず、鳥の餌となるまで空を見ることはない、ということだ。循環するエゴの環に大魚も稚魚も等しく生き、死んで行く。多様化がバラエティ以上の意味を持たず、競争も起こらない反ダーウィニズム的世界。

 この漫画は、そういう狭い生態系の中で繰り広げられるエンドレスな泥仕合という、きわめて末世的なムードを醸している。

 ひと頃、「癒し」というキーワードが各界で流行したことを覚えておられるだろうか。他人のセックスを眺めてマスをかけば気持ちがいいように、誰かの作った夢でシコシコとセロトニンを分泌すれば鬱やストレスが解消してハッピー花びら大回転、という具合のアレを。ご多聞に漏れず、『Papa told me』は「癒し系漫画」のレッテルを与えられ、あまつさえそのポジションに安住すらしていたように思う。

 ただ、癒しだろうが卑しだろうが、夢を楽しむには寝るだけでは足りない。深い眠りを避け、記憶力を研ぎ澄まさなければならない。見た夢を忘れないことが何よりも大切なのだ、という実践的なテーゼが、この漫画をただの夢日記から、それ以上のリアルなものへと脱却させることに成功しているように思う。

 2007年現在、27冊のコミックスと3冊の特別カラー版が集英社から刊行されている。ただし、昨年末に廃刊直前のYOUNG YOU誌上へ載ったいくつかのエピソードは、依然単行本未収録のままだ。作者は最近、アガサ・クリスティーのミステリ物を不定期連載していたと思うが、『Papa told me』のことは綺麗さっぱり忘れてしまったのだろうか……。「コーラス」あたりで読み切り短編として見かけたような気もするが……。

 ここでちょっとググってみた。どうやら活動の場を「別冊コーラス」へと移し、不定期に『Papa told me』の連載は続けているらしい。第28巻の刊行は、そう遠い将来の話ではないようである。

 なお、「PTM通」の一致した意見として、この作品のピークは単行本1巻から5巻ぐらいまでの間であり、安定した面白さが続く15巻あたりを境にマンネリ化したことを付記しておく。20巻をしばらく過ぎたあたりで絵柄の刷新を図るも、往年のファンの間では概ね不評なようだ。

 同タイトルのNHKドラマの話はしない。あのドラマを知らない方は幸せである、と言うに留める。「余計なことを思い出させやがって」と憤慨した古参ファンの方がいれば、苦情は右のメールフォームから受け付ける所存だ。



  『Papa told me』
  1987‐2007年 集英社
  榛野なな恵 著

『零〜紅い蝶〜』

みっちゃん、死んだヒト撮っちゃダメ!
百合姉妹がカメラ片手に廃村をDEAD OR ALIVE


 学生時代、修学旅行で沖縄に行った。あそこは本島はもちろん、諸島にもたくさんの天然防空壕(ガマ)がある。その内のひとつへ入ったときのことだ。

 件の壕の奥にはツーリスト向けなのかどうか知らないが、人骨とおぼしき物体が放置してあり、花や硬貨が供えてあった。生徒はそれぞれ懐中電灯を持っていたのだけれど、ガイドの老人が「消せ」と言った。皆ライトを切ってその場に座り込んだ。

 正気の沙汰じゃない。辺りは本当に真っ暗なのだ。瞼を開けたり閉じたりするのが皮膚の感覚でしか分からない。頭痛がするような暗黒。やがて老人は「それではライトをつけてください」と言った。「これが当時の避難生活です。怖いでしょう。いずれ日本でもう1度戦争が起きたら、同じことを経験しなければなりません」。

 レーダーの発達した現代戦で灯火管制なんか無意味じゃねえか、とにわか軍ヲタだった当時の私は思ったが、それは葬式で故人を肉の塊だと言うようなものだ。私たちはただ黙っていた。やがて老人が、皆の前にある白骨について由来を語り始めた。面白くもなんともない、戦時中の陰気くさい話である。

 「面白くない」とは、要するに老人の語り口が他人事だったからだ。この爺はどう見ても50代半ばで、戦中世代のセの字も当て嵌まらない。支持政党は共産党か社民党かという具合の、よくいるタイプの反戦市民団体員だろう。

 彼の噺も半ばへさしかかった頃、同じクラスの派手な女の子が突然泣き出した。ついさっきまで、壕の天井に頭をぶつけてのた打ち回っていた私を指差しケラケラ笑っていた子が、だ。彼女の隣に座っていた別の女の子が肩を抱いて慰めている。私たちは目を見合わせた。老人の話にとりたて情感がこもっていたわけではないし、彼女はそもそもそういう「物語」に共感して涙するようなタイプじゃない。わけが分からなかった。いっぽうガイドの老人は、満足気な目で彼女を見ている。

 この話を他校の友人にしたところ、「その子、何かに憑かれたんじゃないの」と言われた。私も冗談交じりに同意し、あれは絶対におかしい、急に腹痛へ見舞われでもしたのではないか、と言った。

 私にはいわゆる霊感が皆無なようで、この話以外に「変なこと」は体験していない。幽霊なんて見たことがなく、見たという人間にも出会ったことがない。けれど、そういうモノに対する恐怖感は、殴られれば痛いと云わんばかりに本能として備わっているようだから不思議である。

 正直な話をすると、私はテクモのPlayStation2用ゲーム『零〜zero〜』を途中で投げ出した。怖くてやってられるかこんなもん、と文字通りコントローラーを放り投げたのだ。『バイオハザード』のようなスプラッター的な恐怖とは違い、感性や想像力といった人間の根源部分にじわじわと来る『零』のそれは、不快感や居心地の悪さを伴う恐怖だったのだ。

 あるとき、友人に「面白いゲームがある」と薦められたのが、続編の『零〜紅い蝶〜』である。私は第1作のプレイを諦めたことを話したが、それでも友人は、絶対面白いからやれと言う。物語は前作と直接つながっていないとか、恐怖度が減っているとか、戦闘システムが洗練されていて爽快だとか、ゲーム屋の店先で延々と喧伝した。

 「お前の好きな幼女も出るぞ。幽霊だけど

 結局私は、BEST版が出ていて安かったということもあって『零〜紅い蝶〜』を購入する。家に帰ってすぐプレイしてみると、華麗なCGで物語感あふれるオープニングムービーからして、前作とはちょっと様子が違うなと感じた。今回の主人公は15歳の双子の姉妹だ。うむ、これは和みそう

 『零』は数多のホラー物と違って、「射影機」という特殊カメラを武器に迫り来る怨霊たちを鎮めるという、独特のゲームである。いわゆる心霊写真を逆手に取った発想で、幽霊をカメラで撮影することにより写真へ封印したり、除霊したりできるというものだ。

 射影機を構えたときはファインダーモードという主観画面に切り替わり、いわゆるFPSゲームに近い操作感となる。レンズを覗いた光景がそのまま戦闘画面となるため、視認できる敵は正面の怨霊のみ。そのため、プレイに際してはヘッドホンを装着しての聴覚による怨霊探知が推奨されている(独自の立体音響技術により霊の居場所が音で表現されている)。

 さて、『零〜紅い蝶〜』の主人公は双子姉妹であると先述した。美少女バトル物を得意とするテクモらしい演出だが、それとは別にガチンコ幼女も登場する。物語の舞台となる廃村で特に大きな家である立花家の長女、立花千歳だ。

 冥府から噴き出した暗黒の瘴気によって村が闇へ閉ざされたとき、元来臆病な少女であった千歳は、押入れに隠れているところを瘴気に呑まれて絶命する。その怨霊が浮遊霊となって主人公に襲いかかるという寸法なのだが、この霊がまたとんでもなくカワイイ。顔はもちろん、闇を作り出して主人公の視覚を奪う特殊技を繰り出すときに、自分で出した闇に脅えて泣きじゃくるというところが、何とも言えずにラブリーなのである。

 こんなかわゆい子を倒さなきゃならないなんて! むしろ押し倒してえ! 成仏しなくていいから俺のそばにずっと居てくれ! というか、もうちょっと着物の裾をこう、チラッと……。俺だけのフェイタルフレームを是非……。

 恐怖度が減少したとはいえ、物語のムードやシステムは前作を凌駕する出来だ。永遠の夜に閉ざされた廃村「皆神村」に双子の姉妹が迷い込み、行方不明者の足跡や民俗学者の手記を辿るうち、近隣の民や村民にすらタブー視されていた秘祭の存在を知る。それは、定期的に開く黄泉への門を封じる目的で行われるのであるが、地下の祭壇で双子の姉が妹を……という凄惨なもの。迷い込んだ姉妹の命運や如何に。

 バイオハザードは言わずもかな、『サイレン』はやや大味な種明かしで、『サイレントヒル』に至ってはパラノイアの妄想然としたオチが賛否両論を呼んだ。しかしこの『零』は極めて正統派のストーリーであり、それ故にのめり込んだが最後、明快かつショッキングなエンディングが待ち受けている。

 Youtubeで“Fatal Frame 2”と検索すると、本作のプレイ動画の他にトレーラームービーがヒットするだろう。そのひとつをご覧頂きたい。姉妹がどこかの湖畔で話をしているシーン、やがて姉が仰向けに倒れて妹を抱き寄せながら「殺して」と呟くのだが、この場面はゲーム本編のある重要な局面で、シチュエーションを替えて再現されている。

 Amazon.co.jpの購入者レビューでは「ノーマルモードでクリアしたら超バッドエンドでした! ダルくてもう1度クリアする気になれません」などと書かれていたけれど、このレビュアーはホラーというものを根本的に勘違いしているのだと思う。死者と交感した人間が只では済まないのが綺譚や恐怖譚の定石ではないか。生命の限界を超えた世界に接した者の心や体が、無事でいられるはずがない。望むと望まないとに拘らず、何らかのペナルティを受けるのが霊媒の宿命というものだ。

 このゲームには2種類のエンディングが用意されている。最初に誰もが見るノーマルエンディング「紅い蝶」と、2周目でラストの展開を異にする別エンディング「虚」だ。比較的マシな「ややハッピー」エンディングは「虚」のほうなのであるが、私はノーマルエンディングのほうが秀逸だと思う。天野月子の主題歌のサビに合わせて廃村へ朝陽が昇る演出は、他に類を見ない、ある意味でとても感動的なシークエンスだろう。私は、このエンディングをバッドだとは微塵も思っていない。

 私はこのゲーム、怖い怖いとヒーヒー言いながら3度クリアした。いくら前作よりソフトタッチになったとはいえ、心臓が悪い人は夜中にプレイしないほうがいいかもしれない。



  『零〜紅い蝶〜』
  2003年 テクモ株式会社
  project zero

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