『ローズ・イン・タイドランド』
全米が嘔吐した
ナンセンスではないエログロ少女映画
昨年4月、テリー・ギリアムは新作のプロモーションのため来日。傍らには主演女優のジョデル・フェルランドがいた。
どこかの芸能ニュースサイトで、このときのグラビアを見た記憶がある。11歳の女の子と一緒にはしゃぎ回る薄毛の中年男。いい歳こいて何をやっているんだ、日本で宣伝するならもうちょっとフォーマルな立ち居振る舞いをしやがれ、おいこら待てオッサン、そこは(一応)おっぱいだろうが、記者会見で女優にセクハラかよ畜生、俺も混ぜろ。とにかく、やりたい放題だった。
前作『ブラザース・グリム』が興行的に失敗し、日本におけるギリアムの新作上映枠は大幅に削られていた。いわゆる単館系の劇場で細々と公開されるにあたり監督がこれでは、メディア化に際してメーカーも厳しい状況に置かれるだろう。そう読んだ当時の私の読みは最悪の形で実現するのであるが、それはひとまず置いておこう。
ギリアムの代表作『12モンキーズ』が私は苦手だ。女優があんまりアンアンキャンキャンと喚くので、落ち着いて映画に集中できない。話は面白いしブラピもいい演技をしているのになんだこの女優は。おい誰か、このヒス女をスクリーンから叩き出せ。
私は物語を楽しむクチなので、映画をキャストで見るということをあまりやらない。でも『12モンキーズ』は特別だ。途中で見るのが苦痛になった数少ないタイトルでもある。その点、2005年度の新作『ローズ・イン・タイドランド』は、むしろ女優の顔が鑑賞の理由の八割方を占めていた。カナダはブリティッシュ・コロンビア州生まれの“黒いダコタ・ファニング”こと、ジョデル・フェルランドである。
黒と比喩したのは肌の色のことではない(彼女は白人だ)。芸歴である。これまで彼女が演じた役は、幽霊、悪魔憑き少女、そんなのばかり。彼女の出演作すべてを見たわけではないが、少なくとも日本におけるイメージは「たまにホラー映画に出てる可愛い子」ぐらいのものだろう。
そこへきて、この『ローズ・イン・タイドランド』である。まさか彼女が、血の通った人間の女の子の役をここまで熱演できるとは。失礼ながら少々意外であった。最近、この映画に関連してジョデルがジニー賞にノミネートされたらしいが、映画を見た人間であれば納得の出来事だろう。
『ローズ・イン・タイドランド』は、ジョデル演じる主人公ジェライザ=ローズの奇妙な境遇を描いた硬派な作品だ。日本の劇場予告では、何やら「不思議の国のアリス」にインスパイアされたファンタジー映画、という扱いをされていたがとんでもない。端的に言うとエログロ映画である。その手の耐性がない方は鑑賞を見送ったほうがいいだろう。
私が地元の劇場へ見に行ったときも、「そういう勘違い」をした小太りの女性がアリスのコスプレでやって来ていたが、見終わったあとは案の定、通夜みたいな青い顔で彼氏に手を引かれていた。あの後、2人がどうしたのかは知らない。少なくとも、ホテルで一戦を交えるには重過ぎる作品だったことだろう。
まず冒頭から凄まじい。猥雑なアパートの一室で、ローズが父親にヤクをあてがってやる場面から始まり、「あんたはマリファナの煙で育てた」と言って憚らない母親は鎮痛剤の大量摂取でショック死する。残された父娘は、予てからの悲願であった「幻の干潟(タイドランド)」を目指し、母親の死体を放って長距離バスに乗り込む。
大草原の一軒家へ移住する2人であるが、隣人が剥製師の「幽霊婆」とロボトミー手術を受けた前科者、という冗談みたいなシチュエーション。ある出来事で父親が取り返しのつかない状況になり、主な登場人物はローズ、幽霊婆、前科者の3人だけになる。幽霊婆の過去が徐々に明かされ、同時に、前科者ディキンズが自らの運命と、その帰結である「世界の終わり」について言の葉の端々を洩らし始める……。
ジョデルは撮影当時9歳。しかし、彼女の役にはディキンズとのラブシーンが存在する。このシーンだけ切り取ってみても、これを欧米諸国で公開するにあたってどういうコンセンサスを取り付けたのか、関係各所の苦情には如何なる対応をしたのか、そんな疑問が残る。
主立った批評家の間では、この作品に対して賛否まっぷたつのジャッジが下ったそうである。ネガティブなコメントを提出した識者の言い分は、件の「ラブシーン」への倫理的な反発が大部分を占めていることだろう。実際の批評をすべて精査したわけではないので断言はできないが、そんな空気がこの作品の周囲には満ち溢れている。
とまあ、善良なファンタジー映画を期待して見に行った観客は、ギリアムの「俺がそんな映画撮るわけねえだろバーカ」というカウンターを急所に食らった格好になるわけだが、この作品に取り付く評価は反発だけではない。エログロ好きはもちろん、多感な子供時代を送った女性などには概ね好評だったようだ。
夢見がちな空想少女が爆弾で叩き起こされ、堅気の世界に戻る物語。異論もあろうが、この映画を乱暴に言い表すとそういうことになると思う。そして、そういう主題にシンパシーを覚える層が、一定のジャンル映画のボリュームゾーンであることもひとつの事実だ。私自身はこの作品に、ジャン=ピエール・ジュネの『ロスト・チルドレン』を初めて見たときのような衝撃を、昨年経験している。
さて、この映画の販売メディアについて追記しておこう。
先日『ローズ・イン・タイドランド』は東北新社よりDVDメディアとして発売された。片面2層の1枚組、本編収録時間120分のストレートケース販売だ。本編には日本語字幕のON/OFF機能以外のオプションはなく、英語字幕はおろか日本語吹替音声も収録されていない。特典にしたところで、多くの誤解を生んだ日本版予告編と、爆笑問題の太田光がこの映画について延々と駄弁り散らす35分の罰ゲーム映像が収録されているのみだ。
東北新社によるライセンス販売という事前情報を聞いた段階で嫌な予感はしていたが、まさかメイキング映像すら収録されず、三流芸人の講釈を延々と聞かされる羽目になるとは予想外であった。ちなみに、米国版および英国版では、次のような特典内容となっている。
ギリアムとグリソニのコメンタリー
ギリアムのインタビュー
ヴィンチェンゾ・ナタリによるメイキング
舞台裏映像
グリーンスクリーン
カットされたシーン
ジェレミー・トーマス(プロデューサー)のインタビュー
ギリアムと原作者ミッチカリンによるQ&A
オリジナル予告編
これらの豪華特典をすべて省いて、我が国では「社会派コメディアン」こと太田光の、糞の足しにもならないような「特典映像」のみ独占収録である。驚くべきはオリジナル予告編すら削ってディスク容量の節約を敢行し、無理矢理1枚組に抑えたという点だ。まるで「あの名作をDVDで完全復刻!」と言わんばかりのお手軽感。サルベージできたのは本編だけですが人件費回収のため割高です、という感じ。どうやら東北新社には、コレクターアイテムという発想が皆無らしい。
ここはブログであるので、この件に関する私個人の感想を言わせていただく。
この日本版DVDは非常に残念だ。残念極まる。
仮に私がたった今、不慮の事故で死亡したとしたら、間違いなく太田光の枕元へ化けて出る自信がある。多くのファンがそうであるように、私は映画が見たかったのであって、太田の面を拝むためにこのDVDを買ったわけではない。
『ローズ・イン・タイドランド』の公式WEBサイトでは、爆笑問題の漫才DVDの販促まで行っているようであるが、広告サイドが何を考えてこのような販売戦略を取っているのかは分からない。
まさか、メディア化に際し当初から爆笑問題をメインに据える心づもりですべての特典を削ったということはないだろうが、もしそうなのだとすると、東北新社の企業としての良識および企画力に疑いの目を向けざるを得ない。
原題 “Tideland”
2005年 カナダ・英国合作
テリー・ギリアム監督
ナンセンスではないエログロ少女映画
昨年4月、テリー・ギリアムは新作のプロモーションのため来日。傍らには主演女優のジョデル・フェルランドがいた。
どこかの芸能ニュースサイトで、このときのグラビアを見た記憶がある。11歳の女の子と一緒にはしゃぎ回る薄毛の中年男。いい歳こいて何をやっているんだ、日本で宣伝するならもうちょっとフォーマルな立ち居振る舞いをしやがれ、おいこら待てオッサン、そこは(一応)おっぱいだろうが、記者会見で女優にセクハラかよ畜生、俺も混ぜろ。とにかく、やりたい放題だった。
前作『ブラザース・グリム』が興行的に失敗し、日本におけるギリアムの新作上映枠は大幅に削られていた。いわゆる単館系の劇場で細々と公開されるにあたり監督がこれでは、メディア化に際してメーカーも厳しい状況に置かれるだろう。そう読んだ当時の私の読みは最悪の形で実現するのであるが、それはひとまず置いておこう。
ギリアムの代表作『12モンキーズ』が私は苦手だ。女優があんまりアンアンキャンキャンと喚くので、落ち着いて映画に集中できない。話は面白いしブラピもいい演技をしているのになんだこの女優は。おい誰か、このヒス女をスクリーンから叩き出せ。
私は物語を楽しむクチなので、映画をキャストで見るということをあまりやらない。でも『12モンキーズ』は特別だ。途中で見るのが苦痛になった数少ないタイトルでもある。その点、2005年度の新作『ローズ・イン・タイドランド』は、むしろ女優の顔が鑑賞の理由の八割方を占めていた。カナダはブリティッシュ・コロンビア州生まれの“黒いダコタ・ファニング”こと、ジョデル・フェルランドである。
黒と比喩したのは肌の色のことではない(彼女は白人だ)。芸歴である。これまで彼女が演じた役は、幽霊、悪魔憑き少女、そんなのばかり。彼女の出演作すべてを見たわけではないが、少なくとも日本におけるイメージは「たまにホラー映画に出てる可愛い子」ぐらいのものだろう。
そこへきて、この『ローズ・イン・タイドランド』である。まさか彼女が、血の通った人間の女の子の役をここまで熱演できるとは。失礼ながら少々意外であった。最近、この映画に関連してジョデルがジニー賞にノミネートされたらしいが、映画を見た人間であれば納得の出来事だろう。
『ローズ・イン・タイドランド』は、ジョデル演じる主人公ジェライザ=ローズの奇妙な境遇を描いた硬派な作品だ。日本の劇場予告では、何やら「不思議の国のアリス」にインスパイアされたファンタジー映画、という扱いをされていたがとんでもない。端的に言うとエログロ映画である。その手の耐性がない方は鑑賞を見送ったほうがいいだろう。
私が地元の劇場へ見に行ったときも、「そういう勘違い」をした小太りの女性がアリスのコスプレでやって来ていたが、見終わったあとは案の定、通夜みたいな青い顔で彼氏に手を引かれていた。あの後、2人がどうしたのかは知らない。少なくとも、ホテルで一戦を交えるには重過ぎる作品だったことだろう。
まず冒頭から凄まじい。猥雑なアパートの一室で、ローズが父親にヤクをあてがってやる場面から始まり、「あんたはマリファナの煙で育てた」と言って憚らない母親は鎮痛剤の大量摂取でショック死する。残された父娘は、予てからの悲願であった「幻の干潟(タイドランド)」を目指し、母親の死体を放って長距離バスに乗り込む。
大草原の一軒家へ移住する2人であるが、隣人が剥製師の「幽霊婆」とロボトミー手術を受けた前科者、という冗談みたいなシチュエーション。ある出来事で父親が取り返しのつかない状況になり、主な登場人物はローズ、幽霊婆、前科者の3人だけになる。幽霊婆の過去が徐々に明かされ、同時に、前科者ディキンズが自らの運命と、その帰結である「世界の終わり」について言の葉の端々を洩らし始める……。
ジョデルは撮影当時9歳。しかし、彼女の役にはディキンズとのラブシーンが存在する。このシーンだけ切り取ってみても、これを欧米諸国で公開するにあたってどういうコンセンサスを取り付けたのか、関係各所の苦情には如何なる対応をしたのか、そんな疑問が残る。
主立った批評家の間では、この作品に対して賛否まっぷたつのジャッジが下ったそうである。ネガティブなコメントを提出した識者の言い分は、件の「ラブシーン」への倫理的な反発が大部分を占めていることだろう。実際の批評をすべて精査したわけではないので断言はできないが、そんな空気がこの作品の周囲には満ち溢れている。
とまあ、善良なファンタジー映画を期待して見に行った観客は、ギリアムの「俺がそんな映画撮るわけねえだろバーカ」というカウンターを急所に食らった格好になるわけだが、この作品に取り付く評価は反発だけではない。エログロ好きはもちろん、多感な子供時代を送った女性などには概ね好評だったようだ。
夢見がちな空想少女が爆弾で叩き起こされ、堅気の世界に戻る物語。異論もあろうが、この映画を乱暴に言い表すとそういうことになると思う。そして、そういう主題にシンパシーを覚える層が、一定のジャンル映画のボリュームゾーンであることもひとつの事実だ。私自身はこの作品に、ジャン=ピエール・ジュネの『ロスト・チルドレン』を初めて見たときのような衝撃を、昨年経験している。
さて、この映画の販売メディアについて追記しておこう。
先日『ローズ・イン・タイドランド』は東北新社よりDVDメディアとして発売された。片面2層の1枚組、本編収録時間120分のストレートケース販売だ。本編には日本語字幕のON/OFF機能以外のオプションはなく、英語字幕はおろか日本語吹替音声も収録されていない。特典にしたところで、多くの誤解を生んだ日本版予告編と、爆笑問題の太田光がこの映画について延々と駄弁り散らす35分の罰ゲーム映像が収録されているのみだ。
東北新社によるライセンス販売という事前情報を聞いた段階で嫌な予感はしていたが、まさかメイキング映像すら収録されず、三流芸人の講釈を延々と聞かされる羽目になるとは予想外であった。ちなみに、米国版および英国版では、次のような特典内容となっている。
ギリアムとグリソニのコメンタリー
ギリアムのインタビュー
ヴィンチェンゾ・ナタリによるメイキング
舞台裏映像
グリーンスクリーン
カットされたシーン
ジェレミー・トーマス(プロデューサー)のインタビュー
ギリアムと原作者ミッチカリンによるQ&A
オリジナル予告編
これらの豪華特典をすべて省いて、我が国では「社会派コメディアン」こと太田光の、糞の足しにもならないような「特典映像」のみ独占収録である。驚くべきはオリジナル予告編すら削ってディスク容量の節約を敢行し、無理矢理1枚組に抑えたという点だ。まるで「あの名作をDVDで完全復刻!」と言わんばかりのお手軽感。サルベージできたのは本編だけですが人件費回収のため割高です、という感じ。どうやら東北新社には、コレクターアイテムという発想が皆無らしい。
ここはブログであるので、この件に関する私個人の感想を言わせていただく。
この日本版DVDは非常に残念だ。残念極まる。
仮に私がたった今、不慮の事故で死亡したとしたら、間違いなく太田光の枕元へ化けて出る自信がある。多くのファンがそうであるように、私は映画が見たかったのであって、太田の面を拝むためにこのDVDを買ったわけではない。
『ローズ・イン・タイドランド』の公式WEBサイトでは、爆笑問題の漫才DVDの販促まで行っているようであるが、広告サイドが何を考えてこのような販売戦略を取っているのかは分からない。
まさか、メディア化に際し当初から爆笑問題をメインに据える心づもりですべての特典を削ったということはないだろうが、もしそうなのだとすると、東北新社の企業としての良識および企画力に疑いの目を向けざるを得ない。
原題 “Tideland”
2005年 カナダ・英国合作
テリー・ギリアム監督

『ノエイン もうひとりの君へ』
小学生女児のリアルな描線
炎のアニメーターたちによる魂の物語を見よ
作画や動画に関して云々し始めれば立派なアニヲタ、とよく言われる。この国には、ドラえもんやサザエさんみたいにレーティングなしの無害なアニメがあれば、深夜帯や独立UHF局でしか放映しないようなハードコアなアニメもあり、さながらアニメ全部入り大国と言うことができるだろう。
私自身は、「アニメ文化」などという定義がよく分からないものへ嵌った記憶はない。個々の作品へどっぷり嵌った経験なら何度かあるが、特にアニメーションというものを他ジャンルより重んじたことはないし、これからもないだろう。私が娯楽へ求めるものはストーリーテリングであり、個々のメディアの特質ではないからだ。
そんな「どっぷり嵌った作品」のひとつに、2005年暮れから翌年3月まで放映されたアニメ作品『ノエイン もうひとりの君へ』がある。典型的な独立UHF局アニメであり、私の住む地域では地上波放映が叶わなかったが、当時としては珍しい公式WEB配信を行っていたタイトルということもあり、私は毎週欠かさずに視聴していた。
内容といえば、今どき珍しいコテコテのサイエンスフィクションである。北海道函館市を舞台に、少年少女が時空を超えたり黒マントの怪人たちが観光地を破壊しつつ大激闘したり、これまたコテコテの、どこか懐かしい感じさえする作品であった。また、こんなタイトルを深夜帯に縛るのは勿体ない、ぜひともNHK教育あたりでゴールデンタイムに放映して欲しい、そんな感慨を抱かせる、質とモラルを両立した近年稀な作品でもあった。
「モラル」と書いたのは、要するにエロゲ原作ではないとか、不自然にパンツが見えたりしないとか、普通の男の子がなぜかモテモテではないとか、そういうごく一般的な意味で、である。当然、この「君チラ」で取り上げるからには、ちょっと一般的じゃない部分で通好みな描写があったりする。
このアニメの主人公は、上乃木ハルカという12歳の少女である。12歳という年齢設定に着目していただこう。まずこれがエロい。私は個人的に、少女が少女たる0-12歳の期間を「マジェスティック12」と呼んで畏れ敬っているのであるが、その最後の1年である「12歳」をフィーチャーするとは、このアニメ只事ではない。
この件に関しては、製作監督の赤根和樹氏がオリコンのインタビューにて次のように述べている。
「以前は高校生の主人公が多かったんですが、その後中学生が中心になってきて、そこに何かしら性の要素が入るようになってきたのが嫌だったんですよ。もっとピュアな視点でドラマを作るにはどれくらいの年齢がいいか考えたら、もう12歳くらいまで下げるしかないか、みたいな(笑)。人が人を好きになる事に対して色眼鏡なしで見られる年齢って事で12歳がいいんじゃないかと」
ただし赤根氏は、同じインタビューで次のようにも答えていた。
「作劇的な面もあるんですが、今の12歳は俺たちのころより断然知識が多くて、すでに社会の入り口に立ってる感じはあるなと思いますね」
矛盾していますよカントク。この男、さてはエロエロ……。いやいけない言葉遣いだった。つまり赤根氏はこう言いたいのであろう。
「男と女が惚れた腫れたくっついたという話で、当事者を中高生にしてしまうと『四の五の言わずにセックスセックス』という印象がある。俺はそういうノリが苦手だ。だいたい、昨今のエロゲ原作萌え萌え屑アニメなんかと一緒にされたくない。だから主人公は小学生でキマリだ。でも今の小学生は昔よりエロい。むしろ小学生だからエロいんじゃないか、などと抜かす不逞の輩まで出てきた。おじさん悲しい」
違いますかカントク?
また、上乃木ハルカの作画についても私は一家言持っている。具体的に言うと胸部、腹部、臀部の3箇所だ。本物をトレースしたのではないかと思うほど、見事に「12歳のカラダ」を再現しているのである。これにはさすがの私も参った。日本のアニメはここまで進化していたのか、これが巷で話題のイノベーションというやつか、と。
いやむしろこれは、日本ならではの職人気質と言うべきか。「わしゃあヤルからには徹底的にヤルんじゃあ」などと言う頑固職人さながらのアニメーターが、自分のイタイケな姪っ子を無理矢理ひん剥いてデッサンしたのではなかろうか。そんな妄想が次から次へと頭をよぎる私はもう駄目かもしれない。
それに、上乃木ハルカの声を当てた工藤晴香という方は、いわゆる声優ではない。雑誌「セブンティーン」の専属モデルであり、それまで演技経験などまったくなかったと言っていいだろう。そのため、当初はハルカ役への起用に苦言を呈する向きもあったが、いざ放映が開始されると、視聴者の不安は霧散雲消したようだ。
「垢抜けないところがいい」
「現役女子高生が小学生役! うひょひょーい」
「ハルカも晴香もどっちも可愛い」
「素人くさくて妙にリアル」
「裏ビデオじゃあ……この感じは裏ビデオなんじゃあぁぁぁ」
DVDの特典に、工藤晴香が函館の街を訪れる映像がある。『ノエイン』の舞台のひとつである小学校は実在する学校をモデルにしているのだが、この教室で工藤晴香がちょこんと着席する構図、あれはかなり危ない。小柄な体躯故か、違和感がほとんどないのだ。ハルカのモデルに工藤晴香その人を使ったという製作陣の心意気は、どうやら本気(マジ)のようである。
ただし、誤解のないように付記しておくと、このアニメは非常に「真面目」な作品である、ということだ。人物造形や世界観は見事に確立され、多世界解釈を始めとする科学考証が丹念に行われており、物語の伏線も余すところなく消化されている。何よりも、深夜アニメにありがちな不自然なエロがない。上に書いたことは大方、私個人の言いがかりみたいなものである。堅気の視聴者諸氏は、どうか安心して『ノエイン もうひとりの君へ』を楽しんでほしい。
欲を言えば、最終2話の尺を倍に伸ばして、結末をもう少し丁寧にまとめてほしかったという感想が残る。それまでの展開が逸品なものだっただけに、物語の終わりを急ぎすぎた感が否めない。
『ノエイン もうひとりの君へ』
2005年 赤根和樹・サテライト
ノエイン製作委員会
炎のアニメーターたちによる魂の物語を見よ
作画や動画に関して云々し始めれば立派なアニヲタ、とよく言われる。この国には、ドラえもんやサザエさんみたいにレーティングなしの無害なアニメがあれば、深夜帯や独立UHF局でしか放映しないようなハードコアなアニメもあり、さながらアニメ全部入り大国と言うことができるだろう。
私自身は、「アニメ文化」などという定義がよく分からないものへ嵌った記憶はない。個々の作品へどっぷり嵌った経験なら何度かあるが、特にアニメーションというものを他ジャンルより重んじたことはないし、これからもないだろう。私が娯楽へ求めるものはストーリーテリングであり、個々のメディアの特質ではないからだ。
そんな「どっぷり嵌った作品」のひとつに、2005年暮れから翌年3月まで放映されたアニメ作品『ノエイン もうひとりの君へ』がある。典型的な独立UHF局アニメであり、私の住む地域では地上波放映が叶わなかったが、当時としては珍しい公式WEB配信を行っていたタイトルということもあり、私は毎週欠かさずに視聴していた。
内容といえば、今どき珍しいコテコテのサイエンスフィクションである。北海道函館市を舞台に、少年少女が時空を超えたり黒マントの怪人たちが観光地を破壊しつつ大激闘したり、これまたコテコテの、どこか懐かしい感じさえする作品であった。また、こんなタイトルを深夜帯に縛るのは勿体ない、ぜひともNHK教育あたりでゴールデンタイムに放映して欲しい、そんな感慨を抱かせる、質とモラルを両立した近年稀な作品でもあった。
「モラル」と書いたのは、要するにエロゲ原作ではないとか、不自然にパンツが見えたりしないとか、普通の男の子がなぜかモテモテではないとか、そういうごく一般的な意味で、である。当然、この「君チラ」で取り上げるからには、ちょっと一般的じゃない部分で通好みな描写があったりする。
このアニメの主人公は、上乃木ハルカという12歳の少女である。12歳という年齢設定に着目していただこう。まずこれがエロい。私は個人的に、少女が少女たる0-12歳の期間を「マジェスティック12」と呼んで畏れ敬っているのであるが、その最後の1年である「12歳」をフィーチャーするとは、このアニメ只事ではない。
この件に関しては、製作監督の赤根和樹氏がオリコンのインタビューにて次のように述べている。
「以前は高校生の主人公が多かったんですが、その後中学生が中心になってきて、そこに何かしら性の要素が入るようになってきたのが嫌だったんですよ。もっとピュアな視点でドラマを作るにはどれくらいの年齢がいいか考えたら、もう12歳くらいまで下げるしかないか、みたいな(笑)。人が人を好きになる事に対して色眼鏡なしで見られる年齢って事で12歳がいいんじゃないかと」
ただし赤根氏は、同じインタビューで次のようにも答えていた。
「作劇的な面もあるんですが、今の12歳は俺たちのころより断然知識が多くて、すでに社会の入り口に立ってる感じはあるなと思いますね」
矛盾していますよカントク。この男、さてはエロエロ……。いやいけない言葉遣いだった。つまり赤根氏はこう言いたいのであろう。
「男と女が惚れた腫れたくっついたという話で、当事者を中高生にしてしまうと『四の五の言わずにセックスセックス』という印象がある。俺はそういうノリが苦手だ。だいたい、昨今のエロゲ原作萌え萌え屑アニメなんかと一緒にされたくない。だから主人公は小学生でキマリだ。でも今の小学生は昔よりエロい。むしろ小学生だからエロいんじゃないか、などと抜かす不逞の輩まで出てきた。おじさん悲しい」
違いますかカントク?
また、上乃木ハルカの作画についても私は一家言持っている。具体的に言うと胸部、腹部、臀部の3箇所だ。本物をトレースしたのではないかと思うほど、見事に「12歳のカラダ」を再現しているのである。これにはさすがの私も参った。日本のアニメはここまで進化していたのか、これが巷で話題のイノベーションというやつか、と。
いやむしろこれは、日本ならではの職人気質と言うべきか。「わしゃあヤルからには徹底的にヤルんじゃあ」などと言う頑固職人さながらのアニメーターが、自分のイタイケな姪っ子を無理矢理ひん剥いてデッサンしたのではなかろうか。そんな妄想が次から次へと頭をよぎる私はもう駄目かもしれない。
それに、上乃木ハルカの声を当てた工藤晴香という方は、いわゆる声優ではない。雑誌「セブンティーン」の専属モデルであり、それまで演技経験などまったくなかったと言っていいだろう。そのため、当初はハルカ役への起用に苦言を呈する向きもあったが、いざ放映が開始されると、視聴者の不安は霧散雲消したようだ。
「垢抜けないところがいい」
「現役女子高生が小学生役! うひょひょーい」
「ハルカも晴香もどっちも可愛い」
「素人くさくて妙にリアル」
「裏ビデオじゃあ……この感じは裏ビデオなんじゃあぁぁぁ」
DVDの特典に、工藤晴香が函館の街を訪れる映像がある。『ノエイン』の舞台のひとつである小学校は実在する学校をモデルにしているのだが、この教室で工藤晴香がちょこんと着席する構図、あれはかなり危ない。小柄な体躯故か、違和感がほとんどないのだ。ハルカのモデルに工藤晴香その人を使ったという製作陣の心意気は、どうやら本気(マジ)のようである。
ただし、誤解のないように付記しておくと、このアニメは非常に「真面目」な作品である、ということだ。人物造形や世界観は見事に確立され、多世界解釈を始めとする科学考証が丹念に行われており、物語の伏線も余すところなく消化されている。何よりも、深夜アニメにありがちな不自然なエロがない。上に書いたことは大方、私個人の言いがかりみたいなものである。堅気の視聴者諸氏は、どうか安心して『ノエイン もうひとりの君へ』を楽しんでほしい。
欲を言えば、最終2話の尺を倍に伸ばして、結末をもう少し丁寧にまとめてほしかったという感想が残る。それまでの展開が逸品なものだっただけに、物語の終わりを急ぎすぎた感が否めない。
『ノエイン もうひとりの君へ』
2005年 赤根和樹・サテライト
ノエイン製作委員会

『ダンス・ダンス・ダンス』
中国人女性は春樹がお好き?
羊男をめぐるネット懇談
学生時代、私はハヤカワSF一辺倒で、いわゆる純文学には縁遠い読書生活を送っていた。たまに村上龍を読んだりもしていたが、とりたて文学ということは意識せず、『コインロッカー・ベイビーズ』や『五分後の世界』をスリップストリーム小説の感覚で手に取っていたぐらいだ。
当時、熱心な漫画読みだった友人に小説を勧めてみた。(多くの)小説には挿絵がない、場面や情景は自分で想像するしかない、故に1冊を読み終えたときの充足感や印象は漫画の比じゃない。そんな文句で、とにかく何でもいいから読んでみろと捲し立てた記憶がある。
それから数年が経ち、友人の読書量は私のそれを遥かに超えていた。一方私はといえば、読んでもいない若手作家の新刊を「こんなものはブンガクじゃない」などと罵っては看破した気になり、表紙がふにゃふにゃになったお気に入りの文庫を飽きもせず読み返す、という生活をしていた。同じ本好きにも、いろんなタイプがいるようだ。
さて、いつしか私が友人にお薦め本を乞う立場になり、村上春樹の名前を聞かされる。「有名だから読んでみたけど、やっぱり面白かった」と、友人は本屋で『ダンス・ダンス・ダンス』の文庫本を指差した。私は村上春樹に対して、時代の波に乗った薄っぺらいベストセラー作家という偏見を持っていたため、そのときは素直に手に取る気になれなかった。
後日、再び書店へ赴き、『ダンス・ダンス・ダンス』上巻の225ページを開いた。ヒロインの美少女ユキがバージニアスリムを吸う場面。未読の方のために注釈しておくと、彼女は13歳だ。私は上下巻を棚から引き抜き、「中」という巻がないことを確認してから、急ぎ足でカウンターへ向かった。
『ダンス・ダンス・ダンス』は旅行記のような小説である。冬の札幌、東京赤坂、そしてハワイと、舞台が目まぐるしく移る。文体も、比喩が多いことを除けば、社会保険庁の年金啓発パンフレットみたいに平易な文章で、とても読みやすい。
この小説はシリーズ第3作目という位置づけなのだが、私は著者の他の作品を読んだことがなかった。おかげで話の冒頭が何を言わんとしているのかよく分からなかったが、すぐに物語展開へ移ってくれたので、何事もないように読み進めることができた。曰く、高度成長に陰りが見え始めた1980年代の空気だとか、丸腰で世界に正対する個の不安だとか、いろんな人がいろんなことを言っている小説ではあるが、そんなことはこの際どうでもいい。私の目当ては喫煙女子中学生ユキちゃんだったのだ。
「ふん、馬鹿みたい」
これ、作中で彼女が事あるごとに言う口癖。AKIBAライクな言い方をすれば、ツンとかデレとか、ああいう感じだ。おまけに、物のルーツや他人の記憶、少し先の未来などを幻視する特殊感覚の持ち主で、同世代の友達から気味悪がられた挙げ句に中学校を逃げ出した不登校児でもある。
私の胸は俄然高鳴った。なんてことはない、ロリコン向け深夜アニメが隆盛を誇るずっと以前から、この手の不思議少女は日本人のハートの内に完成形として存在していたのだ。私は歴史の重みを噛み締めながらページをめくった。それこそ、かつての文豪たちも同じ思いを古典文学へ抱きながら、それでもわしゃあ理想のロリロリ少女を書きたいんじゃあ、などと怪気炎を上げていたに違いないのである。
三十路も半ばのしょぼくれたライターである主人公を「あなた」と呼ぶ、13歳の美少女。ここには村上の、いや男のロマンがたっぷりと詰まっている。また、主人公も主人公で、ユキのことは「君」呼ばわりだ。こういう感じはたしかに、80年代をピークに流行したことがあった。貴族になれなかったミドルクラスの儚い夢とでも言うべきか。そういったファンタジーとは別に、ザーメン臭いエログロ・バイオレンス路線でワニを飼う美少女アネモネを描き出したのが、同じ村上でも龍のほうなのであるが、こちらはいずれ別エントリーとして観想してみようと思う。
ところで私は以前、インスタントメッセンジャーで中国の女性と知り合い、しばらく話をしていた時期がある。彼女は現地の大学で日本語を専攻しており、こちらのIMは9割方通じていた。曰く彼女は日本文学へ興味があり、中でも村上春樹がお気に入りなのだという。中国で春樹が流行っているという話は聞いていたが、どうやらそれは対中和解派の陰謀ではなかったらしい。
『アフターダーク』が出版された時期であるので、2004年の暮れだろうか。チェコ人やアメリカ人と話をしたことはあったが、中国人というのは初体験だった。彼女とメッセージを交わすのは、毎晩9時から0時までの3時間。それ以上は彼女の仕事の都合から「それじゃあまたね」と次の機会へ持ち越す。モニタ越しの国際交流、話題は比較文化、文学……。なんだこれは、まるで春樹の小説じゃないか。一人称も「僕」に変えようかな。ビールを買ってこなくては。そんなことを悶々と考えながら、彼女と様々な話をした。
ある日、私は話の流れで彼女にこう訊く。『ダンス・ダンス・ダンス』は中国でも出版されているか? 彼女はYESと答えた。
「なんだか寂しい感じがして好き。『羊をめぐる冒険』(注・『ダンス〜』の前作)もね。もともと持っていなかったものを失くした気になって、打ちひしがれる感じがする」
なるほど、これは重度のハルキストだ。いや貶しているのではない。海の向こうの、食べ物も税制も宗教観も違う労働者階級の女性が、日本人の感性へ通じる感想を春樹文学へ抱くということへ、純粋に驚いているだけだ。考えてみれば、今の中国は高度成長の最中にあり、かつて日本が通ってきた道に近いものがあるのかもしれない。80年代的センスの文芸作品が現代の中国で受け入れられることは、想像に難くない。
そこで私が本性を現し、ユキちゃん萌え〜ハァハァ、などと言えば果たしてどうなっていたか。こちらも想像に難くない。
出典 講談社文庫『ダンス・ダンス・ダンス』上・下
1991年 講談社
村上春樹 著
羊男をめぐるネット懇談
学生時代、私はハヤカワSF一辺倒で、いわゆる純文学には縁遠い読書生活を送っていた。たまに村上龍を読んだりもしていたが、とりたて文学ということは意識せず、『コインロッカー・ベイビーズ』や『五分後の世界』をスリップストリーム小説の感覚で手に取っていたぐらいだ。
当時、熱心な漫画読みだった友人に小説を勧めてみた。(多くの)小説には挿絵がない、場面や情景は自分で想像するしかない、故に1冊を読み終えたときの充足感や印象は漫画の比じゃない。そんな文句で、とにかく何でもいいから読んでみろと捲し立てた記憶がある。
それから数年が経ち、友人の読書量は私のそれを遥かに超えていた。一方私はといえば、読んでもいない若手作家の新刊を「こんなものはブンガクじゃない」などと罵っては看破した気になり、表紙がふにゃふにゃになったお気に入りの文庫を飽きもせず読み返す、という生活をしていた。同じ本好きにも、いろんなタイプがいるようだ。
さて、いつしか私が友人にお薦め本を乞う立場になり、村上春樹の名前を聞かされる。「有名だから読んでみたけど、やっぱり面白かった」と、友人は本屋で『ダンス・ダンス・ダンス』の文庫本を指差した。私は村上春樹に対して、時代の波に乗った薄っぺらいベストセラー作家という偏見を持っていたため、そのときは素直に手に取る気になれなかった。
後日、再び書店へ赴き、『ダンス・ダンス・ダンス』上巻の225ページを開いた。ヒロインの美少女ユキがバージニアスリムを吸う場面。未読の方のために注釈しておくと、彼女は13歳だ。私は上下巻を棚から引き抜き、「中」という巻がないことを確認してから、急ぎ足でカウンターへ向かった。
『ダンス・ダンス・ダンス』は旅行記のような小説である。冬の札幌、東京赤坂、そしてハワイと、舞台が目まぐるしく移る。文体も、比喩が多いことを除けば、社会保険庁の年金啓発パンフレットみたいに平易な文章で、とても読みやすい。
この小説はシリーズ第3作目という位置づけなのだが、私は著者の他の作品を読んだことがなかった。おかげで話の冒頭が何を言わんとしているのかよく分からなかったが、すぐに物語展開へ移ってくれたので、何事もないように読み進めることができた。曰く、高度成長に陰りが見え始めた1980年代の空気だとか、丸腰で世界に正対する個の不安だとか、いろんな人がいろんなことを言っている小説ではあるが、そんなことはこの際どうでもいい。私の目当ては喫煙女子中学生ユキちゃんだったのだ。
「ふん、馬鹿みたい」
これ、作中で彼女が事あるごとに言う口癖。AKIBAライクな言い方をすれば、ツンとかデレとか、ああいう感じだ。おまけに、物のルーツや他人の記憶、少し先の未来などを幻視する特殊感覚の持ち主で、同世代の友達から気味悪がられた挙げ句に中学校を逃げ出した不登校児でもある。
私の胸は俄然高鳴った。なんてことはない、ロリコン向け深夜アニメが隆盛を誇るずっと以前から、この手の不思議少女は日本人のハートの内に完成形として存在していたのだ。私は歴史の重みを噛み締めながらページをめくった。それこそ、かつての文豪たちも同じ思いを古典文学へ抱きながら、それでもわしゃあ理想のロリロリ少女を書きたいんじゃあ、などと怪気炎を上げていたに違いないのである。
三十路も半ばのしょぼくれたライターである主人公を「あなた」と呼ぶ、13歳の美少女。ここには村上の、いや男のロマンがたっぷりと詰まっている。また、主人公も主人公で、ユキのことは「君」呼ばわりだ。こういう感じはたしかに、80年代をピークに流行したことがあった。貴族になれなかったミドルクラスの儚い夢とでも言うべきか。そういったファンタジーとは別に、ザーメン臭いエログロ・バイオレンス路線でワニを飼う美少女アネモネを描き出したのが、同じ村上でも龍のほうなのであるが、こちらはいずれ別エントリーとして観想してみようと思う。
ところで私は以前、インスタントメッセンジャーで中国の女性と知り合い、しばらく話をしていた時期がある。彼女は現地の大学で日本語を専攻しており、こちらのIMは9割方通じていた。曰く彼女は日本文学へ興味があり、中でも村上春樹がお気に入りなのだという。中国で春樹が流行っているという話は聞いていたが、どうやらそれは対中和解派の陰謀ではなかったらしい。
『アフターダーク』が出版された時期であるので、2004年の暮れだろうか。チェコ人やアメリカ人と話をしたことはあったが、中国人というのは初体験だった。彼女とメッセージを交わすのは、毎晩9時から0時までの3時間。それ以上は彼女の仕事の都合から「それじゃあまたね」と次の機会へ持ち越す。モニタ越しの国際交流、話題は比較文化、文学……。なんだこれは、まるで春樹の小説じゃないか。一人称も「僕」に変えようかな。ビールを買ってこなくては。そんなことを悶々と考えながら、彼女と様々な話をした。
ある日、私は話の流れで彼女にこう訊く。『ダンス・ダンス・ダンス』は中国でも出版されているか? 彼女はYESと答えた。
「なんだか寂しい感じがして好き。『羊をめぐる冒険』(注・『ダンス〜』の前作)もね。もともと持っていなかったものを失くした気になって、打ちひしがれる感じがする」
なるほど、これは重度のハルキストだ。いや貶しているのではない。海の向こうの、食べ物も税制も宗教観も違う労働者階級の女性が、日本人の感性へ通じる感想を春樹文学へ抱くということへ、純粋に驚いているだけだ。考えてみれば、今の中国は高度成長の最中にあり、かつて日本が通ってきた道に近いものがあるのかもしれない。80年代的センスの文芸作品が現代の中国で受け入れられることは、想像に難くない。
そこで私が本性を現し、ユキちゃん萌え〜ハァハァ、などと言えば果たしてどうなっていたか。こちらも想像に難くない。
出典 講談社文庫『ダンス・ダンス・ダンス』上・下
1991年 講談社
村上春樹 著

『ダブル・トラブル』
スーパーで拳銃が売っている民主国家
殺されずに裁判を受けられる犯罪者は何人いるだろう?
米国には「アンバーアラート」というシステムがある。児童誘拐事件の発生に際して全州へ警報を出し、あらゆる方面から情報を募るというものだ。
誘拐の被害に遭った児童の7割が事件後3時間以内に殺害されるという同国にあって、事件は時間との戦いでもある。加害者は何も重度のペドファイルとは限らない。義理の両親や実の両親による親権紛争、見知らぬ他人による営利目的の誘拐も多い。また、ペドフィリアの持ち主でなくとも児童に性的暴行を加えて死亡させるケースが頻発している。このことからFBIの捜査システムでは、無害なペドファイルと実際的なチャイルドマレスター(児童性虐待者)とを分けて運用しているのだという。
Wikipedia日本語版には以下の記述がみられる。
“小児性愛者だからといって必ずしも子供にみだらなことをするわけでもなく、また小児性愛者でなくとも子供にみだらなことはする。”
TVやラジオはすべてのプログラムを中断して特別報道番組を組み、ハイウェイの電光掲示板には速報が流れ、地元警察へのホットラインがフル稼働する。重大な犯罪捜査はこっそりひっそり、という我々日本人の常識では計り知れないシステムだ。現実的な捜査手法といえば聞こえはいいが、とどのつまり、米国社会はこの手の事件に関して相当切羽詰まっているのだと言えよう。『千と千尋の神隠し』の英題はSpirited Awayだが、直訳で公開しなかった理由が言語的なこと以外にあるのではないかと邪推してしまう。
多田由美という漫画家は、デビュー以来一貫してアメリカの風俗を描き続け、しかもそれが比較文化的に破綻していないという稀有な才能の持ち主だ。彼女の描くアメリカ郊外の風景は、小田扉が描く集合団地の軒並のように自然で、屈託がない。それは人物造形にも同じことが言える。台詞回しに戸田奈津子の翻訳文体を取り入れているというが、副詞や形容詞が極限まで削ぎ落とされた「アメリカ人」たちのダイアローグは、現実のそれよりも「アメリカ的」である。ちなみに、外国映画を字幕で見る文化を持った国は、日本以外にそう多くないらしい。
彼女が1991年に描いた短編『ダブル・トラブル』を、私は何度も読み返している。物語は単純だ。母親の面影を追って刃傷沙汰を繰り返す切り裂き魔アルヴァロが、ふとしたきっかけで小さな女の子をさらってきてしまい、同居人の説得で彼女を家に帰してあげるという筋。ここに登場するジュリーという少女が、失礼ながら、多田由美の描いたキャラクターとは思えないほどに可愛い。「プレイボーイ」誌の表紙モデルと見紛う台風みたいなプロポーションを誇る、多田由美の普段の女性キャラとは一線を画する幼女っぷりなのである。これはすごい。多田女史の身に何が起きたのか。ジェリービーンズを食べ過ぎてペン先が滑ってしまったのではなかろうか。
物語中、少女ジュリーを真横から見た構図が描かれている。顎をちょっと引いて、腹部をポンと突き出した格好。なんという通好みな描線か。多田女史は、このコマをして私のような変態漫画読みを挑発しているのかもしれない。この「顎を引いてお腹を突き出す」というポージングは、小さな女の子特有のものだ。特にお腹に関しては、幼児期は骨盤が前傾しているため、特に意識せずとも自ずとそうなっている場合が多い。幼児の腹を大人のそれと同じように描く漫画家は、実際の子供をデッサンしたことがないモグリであると私は思っている。
矢代丸治というライターが、単行本の解説で「筆者はロリコンじゃないですけど」と前置いた上で、「多田さんの描く子供ってみんな可愛いですよねぇ」と書いている。「みんな」と書いてはいるが、多田由美が子供を描くことはほとんどない。さらに「多田さんは子供の絵を描いている時、笑っているんじゃないかな」などと締めており、これも非常に気味の悪い文章だ。全裸にコートを羽織って、小学生の通学路でご開帳していそうな文章。こういう気持ちの悪い文体でライターができるのなら、私は明日にでもライターとして食べて行けそうな気がする。ところで、矢代サンをGoogleで検索してみたらフルネームが5件ヒットした。有名なようで何より。
さて、短編『ダブル・トラブル』は、物語の筋から想像できるように、何とも悲劇的な結末を迎える。無粋を承知で書くと、「悲劇」の当事者はジュリーではない。同居人の勧めで彼女を家に帰すことにしたアルヴァロが車を走らせ、彼女のホームタウンへ到着するも、現地にはすでに警官隊が待機しており……。
リアルすぎて鼻血が出そうな漫画だ。『龍が如く』が身寄りのない女の子を方々へ連れ回した挙げ句にハッピーエンドな分、こちらはあくまでも実録タッチである。たった1人の変態犯罪者にショットガンを携えたSWATが投入されるのだから、アメリカは今も昔も「普通の国」じゃないことが分かる。
ただ、この漫画はそういう社会的なことをテーマにしている作品ではない。切り裂き魔アルヴァロの生い立ちと、彼が人間性を取り戻す過程が、幼女誘拐という形を取って現出しているに過ぎない。もっとも、そうして取り戻した「人間性」が、広く世間へ受け入れられる形へ昇華する前に打ち砕かれる、という後味の悪さは如何ともし難いのだが。
出典 多田由美短編集「ベイビー・ブルー・アイズ」
2001年 河出書房新社
多田由美 著
殺されずに裁判を受けられる犯罪者は何人いるだろう?
米国には「アンバーアラート」というシステムがある。児童誘拐事件の発生に際して全州へ警報を出し、あらゆる方面から情報を募るというものだ。
誘拐の被害に遭った児童の7割が事件後3時間以内に殺害されるという同国にあって、事件は時間との戦いでもある。加害者は何も重度のペドファイルとは限らない。義理の両親や実の両親による親権紛争、見知らぬ他人による営利目的の誘拐も多い。また、ペドフィリアの持ち主でなくとも児童に性的暴行を加えて死亡させるケースが頻発している。このことからFBIの捜査システムでは、無害なペドファイルと実際的なチャイルドマレスター(児童性虐待者)とを分けて運用しているのだという。
Wikipedia日本語版には以下の記述がみられる。
“小児性愛者だからといって必ずしも子供にみだらなことをするわけでもなく、また小児性愛者でなくとも子供にみだらなことはする。”
TVやラジオはすべてのプログラムを中断して特別報道番組を組み、ハイウェイの電光掲示板には速報が流れ、地元警察へのホットラインがフル稼働する。重大な犯罪捜査はこっそりひっそり、という我々日本人の常識では計り知れないシステムだ。現実的な捜査手法といえば聞こえはいいが、とどのつまり、米国社会はこの手の事件に関して相当切羽詰まっているのだと言えよう。『千と千尋の神隠し』の英題はSpirited Awayだが、直訳で公開しなかった理由が言語的なこと以外にあるのではないかと邪推してしまう。
多田由美という漫画家は、デビュー以来一貫してアメリカの風俗を描き続け、しかもそれが比較文化的に破綻していないという稀有な才能の持ち主だ。彼女の描くアメリカ郊外の風景は、小田扉が描く集合団地の軒並のように自然で、屈託がない。それは人物造形にも同じことが言える。台詞回しに戸田奈津子の翻訳文体を取り入れているというが、副詞や形容詞が極限まで削ぎ落とされた「アメリカ人」たちのダイアローグは、現実のそれよりも「アメリカ的」である。ちなみに、外国映画を字幕で見る文化を持った国は、日本以外にそう多くないらしい。
彼女が1991年に描いた短編『ダブル・トラブル』を、私は何度も読み返している。物語は単純だ。母親の面影を追って刃傷沙汰を繰り返す切り裂き魔アルヴァロが、ふとしたきっかけで小さな女の子をさらってきてしまい、同居人の説得で彼女を家に帰してあげるという筋。ここに登場するジュリーという少女が、失礼ながら、多田由美の描いたキャラクターとは思えないほどに可愛い。「プレイボーイ」誌の表紙モデルと見紛う台風みたいなプロポーションを誇る、多田由美の普段の女性キャラとは一線を画する幼女っぷりなのである。これはすごい。多田女史の身に何が起きたのか。ジェリービーンズを食べ過ぎてペン先が滑ってしまったのではなかろうか。
物語中、少女ジュリーを真横から見た構図が描かれている。顎をちょっと引いて、腹部をポンと突き出した格好。なんという通好みな描線か。多田女史は、このコマをして私のような変態漫画読みを挑発しているのかもしれない。この「顎を引いてお腹を突き出す」というポージングは、小さな女の子特有のものだ。特にお腹に関しては、幼児期は骨盤が前傾しているため、特に意識せずとも自ずとそうなっている場合が多い。幼児の腹を大人のそれと同じように描く漫画家は、実際の子供をデッサンしたことがないモグリであると私は思っている。
矢代丸治というライターが、単行本の解説で「筆者はロリコンじゃないですけど」と前置いた上で、「多田さんの描く子供ってみんな可愛いですよねぇ」と書いている。「みんな」と書いてはいるが、多田由美が子供を描くことはほとんどない。さらに「多田さんは子供の絵を描いている時、笑っているんじゃないかな」などと締めており、これも非常に気味の悪い文章だ。全裸にコートを羽織って、小学生の通学路でご開帳していそうな文章。こういう気持ちの悪い文体でライターができるのなら、私は明日にでもライターとして食べて行けそうな気がする。ところで、矢代サンをGoogleで検索してみたらフルネームが5件ヒットした。有名なようで何より。
さて、短編『ダブル・トラブル』は、物語の筋から想像できるように、何とも悲劇的な結末を迎える。無粋を承知で書くと、「悲劇」の当事者はジュリーではない。同居人の勧めで彼女を家に帰すことにしたアルヴァロが車を走らせ、彼女のホームタウンへ到着するも、現地にはすでに警官隊が待機しており……。
リアルすぎて鼻血が出そうな漫画だ。『龍が如く』が身寄りのない女の子を方々へ連れ回した挙げ句にハッピーエンドな分、こちらはあくまでも実録タッチである。たった1人の変態犯罪者にショットガンを携えたSWATが投入されるのだから、アメリカは今も昔も「普通の国」じゃないことが分かる。
ただ、この漫画はそういう社会的なことをテーマにしている作品ではない。切り裂き魔アルヴァロの生い立ちと、彼が人間性を取り戻す過程が、幼女誘拐という形を取って現出しているに過ぎない。もっとも、そうして取り戻した「人間性」が、広く世間へ受け入れられる形へ昇華する前に打ち砕かれる、という後味の悪さは如何ともし難いのだが。
出典 多田由美短編集「ベイビー・ブルー・アイズ」
2001年 河出書房新社
多田由美 著

『エイリアン2』
CGなんてない時代のSF
金髪幼女と粘液質クリーチャーの仁義なき戦い!
H・R・ギーガーがエイリアンのデザインに男性器を用いたことは周知の通りであるが、続編でその怪物が小さな女の子を追い回すことになるとは、おそらく誰も予想していなかっただろう。この映画は、単にキャメロンの成功作ということ以上に、危険なモチーフを含んでいる。
キャリー・ヘン。本作において、シガニー・ウィーバーと共に主演を張っている子役である。白い肌に長いブロンドヘアという、絵に描いたような白人少女。移住先の殖民惑星「LV-426」がエイリアンの襲撃に遭い、家族でただ1人生き残った戦災孤児という役柄だ。ニュート(イモリ)というニックネームの通り、コロニーへ張り巡らされた通風孔や非常口の構造へ通じており、劇中ではシガニーたちの脱出を手助けすることとなる。
私がこの映画を見たのは随分昔だ。きっと小学生ぐらいのときだろう。アメリカ製アクション映画が大好きな真っ当な子供だった私は、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』と並んでこの映画が好きだった。機械油の匂いが漂ってきそうな荒廃したコロニーを、動体探知機とパルスライフルで戦い抜きながら脱出する『エイリアン2』。遥かな雪原に反乱軍兵士たちのブラスター銃撃がきらめき、帝国が送り込んだ巨大な歩行兵器を空と陸の両方から迎え撃つ『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』。安易に比較はできないが、どちらも私にとって夢のような映画だった。同じ風景をコピー&ペーストしたような日本の地方都市にあって、それは現実以上に魅惑的な夢だったのだ。
『エイリアン2』という作品には、大きく分けて2つのテーマがある。ひとつは、シガニーが連絡の途絶えた外惑星コロニーへ屈強な兵士たちと共に潜入し、生存者を連れ立って宇宙へと逃れる脱出劇。もうひとつは、シガニーとキャリーが単なる救出隊顧問と戦災孤児という間柄から、母娘のような掛け替えのない関係へと育って行くヒューマンドラマである。熱心な銃規制論者のシガニーが、この作品に限って実銃をカスタムしたパルスライフルを撃ちまくり、頑としてキャリーを守り抜く様は、子を守る母親という生命の原初的なビジョンに重なるだろう。
これはアクション映画であると同時に、子を亡くした母親と、親を亡くした少女とが擬似親子然とした関係を醸成する、パズルピースの埋め合わせのような映画なのだ。2つのテーマは隣接した苗木のように絡み合い、1本の雄大な巨木へと完成される。ハリウッド史上、「アメリカの戦災孤児」という危険なビジョンを含んでおきながら、ここまで大きな成功を収めた映画はこれが初めてではないだろうか。
危険なビジョンといえば、分かりやすい絵が他にもある。金髪幼女を追い回すチ○コ頭の怪物、という構図だ。また、エイリアンの分泌液でがんじがらめにされ、フェイスハガーの卵がグチョグチョと音を立てながら開く光景を見て悲鳴を上げるシーン、あれもかなりマズイ。事実、この場面ではキャリーが冗談交じりに「これって違法じゃないの?」と監督へ訊いたらしい(特典映像から)。さらに、着陸艇の墜落直後にシガニーへ言った台詞「もう戻ろう、アレは夜に襲ってくるのよ」では、全米の変態野郎共がジーンズのチャックを開けたと伝えられている。
これらを踏まえて、大規模掲示板「2ちゃんねる」に於いては、かの悪名高きCCさくら板に討論の場が設けられた。さくら板は暗黒ょぅι゛ょ板の別名で知られ、エログロを主に扱う場だ。製作サイドにペドフィリア的な意図はないにせよ、当面の敵が意思疎通不能な怪物であることに救われたとみるべきであろう。エイリアンを人間に置き換えた場合、監督の首が切られた挙げ句に切り口へチリソースが塗りたくられても不思議ではない。
欧米では児童をターゲットとした犯罪が絶えず、その頻度は日本の比較にならない。当然、それを助長するようなメディア作品は許し難いというわけだ。プレイステーション2用ゲームソフト『ルール オブ ローズ』がEU各国で発売中止になるなど、半ばヒステリーともいえる状態が続いている。テリー・ギリアムの最新作『ローズ・イン・タイドランド』は、あれほどの内容をよく公開できたなというぐらいの作品であるが、ギリアムがどういうマジックで世論を懐柔せしめたのかは知らない(この作品についてはいずれ別エントリを設ける)。
ともあれ、『エイリアン2』は様々な意味でのパイオニアであり、公開から20余年が経った現在もなお色褪せることなくハリウッドの歴史へ君臨し続ける名画だ。この作品こそシリーズ最高傑作という意見が、玄人筋の一致した見解であろう。
なお、キャリー・ヘンはこの作品で鮮烈なデビューを飾ったものの、以後はショービズ界から忽然と姿を消している。スクリーン内の彼女のファンであるという方は、完全版DVDの特典映像を見ないほうがいいだろう。『エイリアン2』に関わった経験を「いい思い出」として語る、成長したキャリーの姿がそこにはある。もはや、人形の首へ「Everything is gonna be OK」と語りかけ、臆病な自分を慰めていた小さな女の子のそれではない。
さて、この作品は過去に何度もメディア化されているが、大別して、劇場公開版をそのまま収録したバージョンと、未公開シーンを追加して150分枠へ伸長された「完全版」が存在する。
追加された場面は、まだLV-426コロニーが数多くの入植者たちの手によって稼動し、キャリーの一家が健在だったころのシーンが数カット。航海に際して地球へ残してきたシガニーの娘が寿命で死亡し、事実を知ったシガニーが悲嘆に暮れるシーン。それに、荒廃後のコロニーでシガニーたちが司令室へ立て篭もり、エイリアンの侵入を防ぐ目的で設置した全自動歩哨銃の発砲シーンが幾つか。
これらシーンに併せて別の場面も編集し、プロットの辻褄を合わせた節があるので、物語を過不足なく楽しみたい向きには断然「完全版」をお薦めしておく。
原題 “Aliens”
1986年 アメリカ映画
ジェームズ・キャメロン監督
金髪幼女と粘液質クリーチャーの仁義なき戦い!
H・R・ギーガーがエイリアンのデザインに男性器を用いたことは周知の通りであるが、続編でその怪物が小さな女の子を追い回すことになるとは、おそらく誰も予想していなかっただろう。この映画は、単にキャメロンの成功作ということ以上に、危険なモチーフを含んでいる。
キャリー・ヘン。本作において、シガニー・ウィーバーと共に主演を張っている子役である。白い肌に長いブロンドヘアという、絵に描いたような白人少女。移住先の殖民惑星「LV-426」がエイリアンの襲撃に遭い、家族でただ1人生き残った戦災孤児という役柄だ。ニュート(イモリ)というニックネームの通り、コロニーへ張り巡らされた通風孔や非常口の構造へ通じており、劇中ではシガニーたちの脱出を手助けすることとなる。
私がこの映画を見たのは随分昔だ。きっと小学生ぐらいのときだろう。アメリカ製アクション映画が大好きな真っ当な子供だった私は、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』と並んでこの映画が好きだった。機械油の匂いが漂ってきそうな荒廃したコロニーを、動体探知機とパルスライフルで戦い抜きながら脱出する『エイリアン2』。遥かな雪原に反乱軍兵士たちのブラスター銃撃がきらめき、帝国が送り込んだ巨大な歩行兵器を空と陸の両方から迎え撃つ『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』。安易に比較はできないが、どちらも私にとって夢のような映画だった。同じ風景をコピー&ペーストしたような日本の地方都市にあって、それは現実以上に魅惑的な夢だったのだ。
『エイリアン2』という作品には、大きく分けて2つのテーマがある。ひとつは、シガニーが連絡の途絶えた外惑星コロニーへ屈強な兵士たちと共に潜入し、生存者を連れ立って宇宙へと逃れる脱出劇。もうひとつは、シガニーとキャリーが単なる救出隊顧問と戦災孤児という間柄から、母娘のような掛け替えのない関係へと育って行くヒューマンドラマである。熱心な銃規制論者のシガニーが、この作品に限って実銃をカスタムしたパルスライフルを撃ちまくり、頑としてキャリーを守り抜く様は、子を守る母親という生命の原初的なビジョンに重なるだろう。
これはアクション映画であると同時に、子を亡くした母親と、親を亡くした少女とが擬似親子然とした関係を醸成する、パズルピースの埋め合わせのような映画なのだ。2つのテーマは隣接した苗木のように絡み合い、1本の雄大な巨木へと完成される。ハリウッド史上、「アメリカの戦災孤児」という危険なビジョンを含んでおきながら、ここまで大きな成功を収めた映画はこれが初めてではないだろうか。
危険なビジョンといえば、分かりやすい絵が他にもある。金髪幼女を追い回すチ○コ頭の怪物、という構図だ。また、エイリアンの分泌液でがんじがらめにされ、フェイスハガーの卵がグチョグチョと音を立てながら開く光景を見て悲鳴を上げるシーン、あれもかなりマズイ。事実、この場面ではキャリーが冗談交じりに「これって違法じゃないの?」と監督へ訊いたらしい(特典映像から)。さらに、着陸艇の墜落直後にシガニーへ言った台詞「もう戻ろう、アレは夜に襲ってくるのよ」では、全米の変態野郎共がジーンズのチャックを開けたと伝えられている。
これらを踏まえて、大規模掲示板「2ちゃんねる」に於いては、かの悪名高きCCさくら板に討論の場が設けられた。さくら板は暗黒ょぅι゛ょ板の別名で知られ、エログロを主に扱う場だ。製作サイドにペドフィリア的な意図はないにせよ、当面の敵が意思疎通不能な怪物であることに救われたとみるべきであろう。エイリアンを人間に置き換えた場合、監督の首が切られた挙げ句に切り口へチリソースが塗りたくられても不思議ではない。
欧米では児童をターゲットとした犯罪が絶えず、その頻度は日本の比較にならない。当然、それを助長するようなメディア作品は許し難いというわけだ。プレイステーション2用ゲームソフト『ルール オブ ローズ』がEU各国で発売中止になるなど、半ばヒステリーともいえる状態が続いている。テリー・ギリアムの最新作『ローズ・イン・タイドランド』は、あれほどの内容をよく公開できたなというぐらいの作品であるが、ギリアムがどういうマジックで世論を懐柔せしめたのかは知らない(この作品についてはいずれ別エントリを設ける)。
ともあれ、『エイリアン2』は様々な意味でのパイオニアであり、公開から20余年が経った現在もなお色褪せることなくハリウッドの歴史へ君臨し続ける名画だ。この作品こそシリーズ最高傑作という意見が、玄人筋の一致した見解であろう。
なお、キャリー・ヘンはこの作品で鮮烈なデビューを飾ったものの、以後はショービズ界から忽然と姿を消している。スクリーン内の彼女のファンであるという方は、完全版DVDの特典映像を見ないほうがいいだろう。『エイリアン2』に関わった経験を「いい思い出」として語る、成長したキャリーの姿がそこにはある。もはや、人形の首へ「Everything is gonna be OK」と語りかけ、臆病な自分を慰めていた小さな女の子のそれではない。
さて、この作品は過去に何度もメディア化されているが、大別して、劇場公開版をそのまま収録したバージョンと、未公開シーンを追加して150分枠へ伸長された「完全版」が存在する。
追加された場面は、まだLV-426コロニーが数多くの入植者たちの手によって稼動し、キャリーの一家が健在だったころのシーンが数カット。航海に際して地球へ残してきたシガニーの娘が寿命で死亡し、事実を知ったシガニーが悲嘆に暮れるシーン。それに、荒廃後のコロニーでシガニーたちが司令室へ立て篭もり、エイリアンの侵入を防ぐ目的で設置した全自動歩哨銃の発砲シーンが幾つか。
これらシーンに併せて別の場面も編集し、プロットの辻褄を合わせた節があるので、物語を過不足なく楽しみたい向きには断然「完全版」をお薦めしておく。
原題 “Aliens”
1986年 アメリカ映画
ジェームズ・キャメロン監督

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