君はチラリ

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『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』

Posted by AK on 26.2007 ゲーム   0 comments   0 trackback
Tag :ドラゴンクエストV ドラゴンクエスト5 会話システム
RPGの常識を塗り替えた大河ストーリー
息子よ、孫よ、俺の屍を越えてゆけ!


 CIAとFBIの違いはXファイルで覚えた。型の違う血液を混ぜると固まることを手塚治虫の漫画で読み、呼吸を整えると健康に良いことはジョジョの奇妙な冒険で知った。石鹸が回りくどい工業製品であることをファイト・クラブで、マクドナルドの店員に未来がないことをダグラス・クープランドの小説で学んだ。

 私はギャンブルをやらない。パチスロは誘われても断るし、麻雀はルールすら知らず、宝くじにも国民年金にも興味がない。なぜなら、それらが徒労であることをドラゴンクエストで学んだからだ

 1990年発売の『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』には致命的なバグがあった。カジノでコインを買うときに「838861」と指定すれば、タダみたいな金額で同枚数を購入できた上、ルール通りに各種の貴重なアイテムと交換できるというものだ。

 Wikipediaによると、24ビット整数のオーバーフロー現象などという暗号みたいな理由が書かれているが、要するにプログラム上のバグだろう(当時私は製作サイドが設定した裏技だと思っていた)。小学生のときに買ったドラクエIV公式ガイドブックの裏表紙には、赤ボールペンで当時自分が書いたであろう「838861まい」という字が消えずに残っている。

 さて、続編の『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』である。当時の最新鋭ゲームハード「スーパーファミコン」で発売されたこのタイトルには、気がかりなことがひとつあった。ずばり「カジノであの裏技は使えるか?」……。常識的に考えて、他ハード且つ他タイトルで環境依存の裏技が使えるわけがないのだが、当時私は子供だったし、なんとなく「使えるかもしれない」などと期待していた。

 結局、旧ハードで出た前タイトルの裏技など使えるはずもなく、コイン売り場のお姉ちゃんに「お金が足りませんわ」などとカードを忘れた成金オヤジみたいなことを言われて愕然とした記憶がある。一度カジノを出て教会でセーブし、「鋼鉄の剣」を買うお金でコインを購入しスライムレースなどやってみたけれど、当たる当たらないということ以前に「カジノ、つまんねえ」と勝手なことを呟いた上、リセットして本筋に専念した。要するに、イカサマができないギャンブルは私に向いていなかったのだ

 さて、最近その『V』がプレイステーション2でリメイク発売された。このブログのアカウントに懸けて誓うが、ドラクエファンでリメイクVをやっていない人間は人生の8割9分6厘を損している、と断言したい。カジノの裏技云々ということではなく、純粋に面白いのだ。

 旧作のリメイクというと、どうしても「見てくれは良くなったけど中身は変わらん、むしろ余計な調整が入ってつまんねえ。ネクロゴンドの洞窟はマヒ攻撃で全滅するのが醍醐味じゃねえか」などと、古参ゲーマーという名の懐古オヤジが文句タラタラ言い出すのが定石であるが、PS2版ドラクエVに関してそういうネガティブな評価はほとんど聞かない。

 スーファミ版でいちばんの不満点だったであろう3人パーティ制限も撤廃され、いつものドラクエよろしく4人戦闘が可能になっている。ただしその分モンスターの同時出現数が増え、序盤の攻略で苦しくなる場面もあろうが、それこそが本来のドラクエと割り切れば何ということはない。廃城探検の前にブーメラン(全体攻撃武器)を買う甲斐性ぐらいなくては、このゲームはとてもやっていけないだろう。

 また、サウンドトラックがフルオーケストラに変更されており、旧ハードのピコピコ音では表現し切れなかったすぎやまこういちサウンドが前面に出ているのも嬉しい改良点だ。音源の大半はNHK交響楽団演奏の『交響組曲 ドラゴンクエストV』からのもので、同盤に未収録の音源は他オケによる新規収録やシンセサイザー演奏などによって補われている。

 そして、それらの改良点が霞むぐらい素晴らしいのが「会話システム」の導入だ。これは『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』で初めて組み込まれたシステムで、「話す」コマンドを空打ちすることによりパーティ内の仲間が場面に応じた台詞を喋るというもの。正直な話、『VII』やリメイク『IV』に導入された段階では蛇足に思えた会話システムであるが、このPS2版ドラクエVにおいては、物語へのめり込むために必要不可欠なものへと昇華されている。

 今回の会話システムは、台詞のレパートリーが尋常じゃない。全部集めれば別のゲームのシナリオが1本書けてしまうのではないかと思うほど、各場面に応じた多種多様な台詞が用意されている。それはたとえば、町民Aの「西の海から禍々しい空気が感じられます」という話を聞いた直後、それに応じて「わたしも感じるの……くやしい……ビクンビクン」と仲間が喋りだすという具合。これまでのような、「新しい町」「新しいイベント」レベルではなく、町人1人ひとりに応じたリアクションまでもが楽しめるという、何人のプログラマを過労死させたか分からない凄まじいシステムに生まれ変わっている。

 上記を踏まえた上で、今一度ドラゴンクエストVの基本へ立ち返ってみよう。このゲームは親子孫3代に渡る壮大な物語で、プレイヤーの分身たる主人公もシナリオに即して少年から青年へと成長を遂げる。そして、冒険のパートナーも各段階に応じて変遷する仕組みだ。

 ここで話題に挙げたいのが2人の女の子である。物語で終始重要な役割を果たすビアンカの幼少期と、それに物語後半で仲間に加わる主人公の娘だ。序盤のビッグイベントであろう「レヌール城のお化け退治」では、いばらのムチを持った金髪幼女ビアンカと2人っきりで夜の大冒険をするという、これは何のメタファーだと叫びたくなるような通好みのシチュエーションを満喫できる。戦闘画面でビシバシと打ち鳴らされる幼女のムチ……。これはモンスターのほうも魔物冥利に尽きるといった感じではなかろうか。ちなみにビアンカちゃんの初期装備はナイフである。このままでは刃傷沙汰まっしぐらなので、必ずムチを買うこと。お店で

 そして物語の後半においては、成長した主人公が双子を授かる。男の子と女の子。ある事情で生まれてから8年間ずっと会えなかった我が子を「僕が君たちのパパだよ」と認知し、晴れて冒険の伴侶とする様は、ネグレクトで引き裂かれた親子の絆が今一度固く結ばれるようで何とも感動的である。

 このパーティには主人公のお嫁さんも加わるため、さながら世の巨悪へ立ち向かう武闘派一家という風情だ。頑張って双子を育て始めたのに自治体からは補助金のホの字も出ねえ、こうなったら全面戦争だ! よーしてめえら、いろいろあったがこれからは共闘するぞ! 手始めに隣町で得物を調達だ! かくして血の気が多い一家は下僕(仲間モンスター)を引き連れ、身内(囚われのお婆ちゃん)の釈放ついでに厚生労働省ならぬ魔界へ殴り込みをかけるのである。

 この、物語後半でパーティに加わる女の子が非常に可愛い。当節の流行語で言うところの萌えである。スーファミ版においては再会場面でちょろっと会話をする程度で、どことなく空気メンバー扱いだった主人公ジュニアであるが、今回は凄い。前述の会話システムのお陰で子供たちのキャラクターが非常に立っており、ロリコン(とショタコン)のチンコも勃ちっぱなしだ。

 たとえば、女の子のほうは夜に弱いらしく、とっぷりと日も暮れた街を親子で散策していると「…………ぐう。……え、なんですか……? ちゃんと起きてます……」などと半死半生の状態である。

 (*´ω`*) ←その台詞を見たときの私。

 何? この子は父親に敬語を使うのかって? その通りである。何せ8歳で父親の顔を初めて見たのだ。ちょっとぐらいぎこちなくて当然だろう。というか、むしろそれがいい。「わたしお父さんとうまく話せるかな、とりあえず丁寧にお話してみようかなドキドキ」などという、背景に点描でも浮いてそうなシチュエーションが堪らなく素晴らしいのである。

 カジノに連れて行けば「さっきね? 泣いてるおじさんがいたの……。お父さんは泣かないでね」と嬉しい気遣い。ストリップショーを見せれば「あんなお洋服で…。みんな見てるのに、はずかしくないの?」とムフフなリアクション。それが作戦なのだ娘よ(ガンガンいこうぜ)。お姫様役の舞台役者と話せば「わたしお姫さまだけど、あんなドレス着たことないです」などと、泣けることを言う。よーしパパ、お手伝いさんに子供用ドレス作らせちゃうぞー。

 他にも、某所某イベントの直後に飛び出す「おにいちゃんのお嫁さん」発言や、踊り子のお姉さんの真似をして「今日はどうもお化粧の乗りが悪いわぁ。…なんでもないです。ちょっと言ってみたかっただけ……」と言う場面は、過酷な戦いの日々における一服の清涼剤と言っても過言ではない。

 ちなみにこの子たちは、父親へ再会するまでにちょっとした旅を経験している。ストーリー上割愛されているが、これはもうスクウェア・エニックスが『ドラゴンクエストV外伝 パパをたずねて三千里』を出すしかないのではないか。ちょうど男の子と女の子が揃っているから、性別セレクトもできて実にドラクエらしい。

 物語の出だしは『IV』の「おてんば姫の冒険」的に、何年も蒸発中の父親へしびれを切らした双子が「お父さんを探しに行く!」と家出。従者のサンチョが飛び出し「私めもお伴いたしますぞ!」とかなんとか言って3人パーティを結成する。父親にかけられた呪いを解く魔法の杖を求めて、いざ冒険の旅へ。意表を突いてアクションRPGなんかにすればかなりイケるのではないか。

 と思ったら、スピンオフの漫画でそういう作品がすでにあるらしい。調べてみたら11巻もある。どれ、久々にビーケーワンで全巻漢買いするか……。



  『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』 (PlayStation2)
  2004年 マトリックス/アルテピアッツァ
  スクウェア・エニックス発売
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『ふしぎな森のポコラ』

Posted by AK on 11.2007 ゲーム   0 comments   0 trackback
ジブリテイストの懐古2Dアクション
Bダッシュ幼女は今日も野山で急旋回!


 小学生の頃、私は窓の外ばかり見ている子供だった。地方都市の山の中にある学校で、窓の外には平地の街並みが一望できた。

 小学生の行動範囲なんて高が知れている。私は当時、人口密集地から遠く離れた、しかし見晴らしのいい郊外の山地に住んでいた。当時の私にとって、歩いて15分の学校以外に自力で行ける場所は少ない。学校の窓から眺めた地平線いっぱいに広がる街並みは、たとえば映画で見る未来都市の風景と同じくらい魅力的だった。休み時間に家から持ち出した双眼鏡で覗き、ズームした建物1つひとつに誰かが住んでいることを想像するのは、掛け替えのない愉悦であった。

 そんな田舎に住んでいるにも拘らず、父親が車持ちではなかったことも大きいと思う。会社までの1時間と少しの道のりを毎朝歩いて通っていた父にとって、自動車は都市の怠惰であり、歩行者を轢き殺す鋼鉄の悪魔であり、排ガスを吐き散らして母星を汚す人類文明の暗黒面的存在であった。よって私は、休みの度にドライブなどといった「普通の子供」の生活とはかけ離れた幼少時代を送り、たまに友達の家の車へ乗せてもらえば慣れない振動でゲロゲロ吐いていたものだ。

 しかし、田舎の生活に飽きていたかというと、これがそうでもない。文明の恩恵から取り残されていたせいか、遊びなどは自然の中で自足する術を身につけていた。具体的に言うと、同じクラスの女の子を秘密基地に誘って「ここがトイレだよ」と覗き穴つきの小さな部屋へ案内し、エロ友を引き連れてロリ無修正スカトロショーの始まり始まり……。どうだろう? 聞いただけでワクワクしてこないか? プライバシーなどという屁理屈のせいで密室便所しかお目にかかれなかった都会者には、ちょっと味わい難いプレイではないだろうか?

 近くに住む友人が『ぼくのなつやすみ』を買ったときなど、外に出りゃそんなプレイはすぐできるだろ、と大笑いしたものだ。わざわざブラウン管の中で蝶を採らなくても窓の外に腐るほど飛んでるじゃねえか、と。そういえば、近場で採取したサンショウウオの卵を水槽の中で孵し、しばらく餌をあげていなかったら、口から尻尾を生やした幼生が水槽をフラフラと泳ぎ回っていて仰天したことがあった。両生類も切羽詰まれば共食いをするものと知り、そのまま川へ捨てた記憶がある。こんなイベントは『ぼくのなつやすみ』では拝めまい。

 さて、本日紹介するのは「Lizsoft」という同人ゲームサークルのソフト。ここは現在、2D横スクロールのアクションRPGを開発中で、個人的にとても楽しみにしているのだが、ここでは過去の名作である「ふしぎな森のポコラ」について書いてみる。

 夏美ちゃんというお下げ髪のかわいい女の子が、田舎で飛んだり跳ねたり目を回したりするゲーム、と言えば非常に怪しい響きである。だが心配には及ばない。小さなお友達向けの無害なアクションゲームであり、姪御さんなどにも安心して薦められるフリーウェアの傑作だ。どこかで聴いたようなBGMに乗って、「ポコラ」というどこかで見たような丸っこい生き物を追いかける、ただそれだけのゲーム。見た目は簡単そうだが操作が少し独特であり、慣れるまで戸惑うかもしれない。

 方向キーは本当に方向だけを変えるキーで、走るにはXを押し、ジャンプはZキーを押下することによってアクションできる。Xを押しっぱなしにすると夏美ちゃんがぐんぐん加速し、急なコーナーを曲がりきれずに立ち木へ激突するなど、アルペンスキーの滑降競技然としたシビアさで思わぬ興奮を呼び起こす仕様だ。ちなみにこのとき、正面を向いて障害物へ激突すれば一瞬だけパンツが見える。こちらも別の意味でエキサイティング

 ゲーム中、ポコラの持っているドングリを集めることでアイテムやコスチュームと交換できる。色違いのスカートや浴衣、果てはナース服や水着を取り揃えるなど、とても小さなお友達向けとは思えない凝りようだ。これで「黒いパンツ」や「水玉パジャマ」などがあれば完璧なのだが、残念ながら私はステージ3までしかクリアしていないので何とも言えない。いや難しいんだよ実際。

 今日、久々にゲーム周りを調べていて思ったのだが、Lizsoftのゲームでキャラクターデザインをやっている方々は、どこかで幼女萌え絵サイトを運営していたり、現役の萌え漫画描きがいたりして、小さなお友達がリンクを辿っていった場合に不測の事態が起こらないものかと、老婆心ながら心配になる。同時に、萌え文化と幼児向けキャラクタービジネスの親和性、ついては「萌えとは何ぞや」という究極の命題へぶち当たる。ラブandベリーがオタク層に受けるなど、両者にはたしかに相通じるものがあるようなのだ。

 近年のいわゆる萌えアニメというやつをたまに見ると、どうしようもなく沸き上がって来る感想が「幼稚だな」というもの。ひょっとすると、萌えというものは子供向けにデフォルメされたキャラクター文化へ性の要素を付け足しただけの「大きな子供用オカズ」ではなかろうか。「ちゃお」と「電撃大王」を表紙の絵だけで比較してみても、相通じるというよりは、同じ種から生まれた異母兄弟という感じがする。まあ、『苺ましまろ』を絶賛愛読中の私に何かを言えた義理は一片もないのであるが。

 さて、上で3段落しか触れていないゲーム内容について補足する。「ふしぎな森のポコラ」はフリーウェア版、製品版、ボイス付加製品版、ダイソー版の4つがリリースされており、どこかで「このフリーゲームがすごい!」みたいな賞を取っている。窓の杜大賞だったかな……。グラフィックは、今流行りの3Dポリゴンやトゥーンシェーディングなどではなく、昔懐かしい2Dドット絵で、それもよく動く。というか、フリー界隈での主流は今でも2Dドットだろう。このゲームは、その中でも一際抜きん出ているということを言いたい。滅多に見えないスカートの下まで描き込んであるのだから只事ではない。

 しかし、ストーリー面でひとつ難をつけるならば、主人公の夏美ちゃんが「田舎のおばあちゃんの家に遊びに来た都会っ子」ではなく、ガチの田舎娘であればなお良かった。『となりのトトロ』でも思ったことだが、それまで都会に住んでいた子供がのつく田舎へ越してきてカルチャーショックを受ける、という図式はいささか語り尽くされた感がある。陳腐である。田舎の、田舎による、田舎のための物語という構図が我が国には決定的に不足している。もっとも、戦前文学などはそういう要素が否応なしに入っていたのだろうが、日本国体がGHQの管轄下に置かれて以来、「田舎、NO! 都会、YES!」という邪悪な西欧的イデオロギーに侵され続けているように思う。

 東京一極集中を解消とか、道州制導入で地方の自立を促すとか、陳情地方議員からの金饅頭で悪玉コレステロール値急上昇中の窓際官僚が鼻糞をほじりながら考えたような机上の空論ではなく、まずはメディアの意識を変えることが大切なのではないか。ヒトラーが世論を統一するための国策映画を推奨したように、我が国でもINAKA文化を大プッシュする流れを作り出すべきではないか。

 危険を承知で言うが、そのためには陛下に京都御所へお移り頂くのがいちばん効果的ではないかと思う。京都が田舎とは言わないけれど、本当に東京から人を離れさせたいのであれば、皇族の執務所を古巣の京へ還すしかないだろう。そもそも、一時期盛り上がりを見せた首都機能移転論において皇室の処遇はどうするつもりだったのか。象徴天皇も伊達ではないということを、タクシーただ乗り議員やメタボリック官僚連中は忘れないほうがいい。

 そういうわけで、「ふしぎな森のポコラ~DO-INAKA Edition~」のリリースを強く提言し、今回のエントリーは幕とさせて頂く。



  『ふしぎな森のポコラ』
  2003年 Lizsoft
  “MEL”制作

『零~紅い蝶~』

Posted by AK on 06.2007 ゲーム   0 comments   0 trackback
みっちゃん、死んだヒト撮っちゃダメ!
百合姉妹がカメラ片手に廃村をDEAD OR ALIVE


 学生時代、修学旅行で沖縄に行った。あそこは本島はもちろん、諸島にもたくさんの天然防空壕(ガマ)がある。その内のひとつへ入ったときのことだ。

 件の壕の奥にはツーリスト向けなのかどうか知らないが、人骨とおぼしき物体が放置してあり、花や硬貨が供えてあった。生徒はそれぞれ懐中電灯を持っていたのだけれど、ガイドの老人が「消せ」と言った。皆ライトを切ってその場に座り込んだ。

 正気の沙汰じゃない。辺りは本当に真っ暗なのだ。瞼を開けたり閉じたりするのが皮膚の感覚でしか分からない。頭痛がするような暗黒。やがて老人は「それではライトをつけてください」と言った。「これが当時の避難生活です。怖いでしょう。いずれ日本でもう1度戦争が起きたら、同じことを経験しなければなりません」。

 レーダーの発達した現代戦で灯火管制なんか無意味じゃねえか、とにわか軍ヲタだった当時の私は思ったが、それは葬式で故人を肉の塊だと言うようなものだ。私たちはただ黙っていた。やがて老人が、皆の前にある白骨について由来を語り始めた。面白くもなんともない、戦時中の陰気くさい話である。

 「面白くない」とは、要するに老人の語り口が他人事だったからだ。この爺はどう見ても50代半ばで、戦中世代のセの字も当て嵌まらない。支持政党は共産党か社民党かという具合の、よくいるタイプの反戦市民団体員だろう。

 彼の噺も半ばへさしかかった頃、同じクラスの派手な女の子が突然泣き出した。ついさっきまで、壕の天井に頭をぶつけてのた打ち回っていた私を指差しケラケラ笑っていた子が、だ。彼女の隣に座っていた別の女の子が肩を抱いて慰めている。私たちは目を見合わせた。老人の話にとりたて情感がこもっていたわけではないし、彼女はそもそもそういう「物語」に共感して涙するようなタイプじゃない。わけが分からなかった。いっぽうガイドの老人は、満足気な目で彼女を見ている。

 この話を他校の友人にしたところ、「その子、何かに憑かれたんじゃないの」と言われた。私も冗談交じりに同意し、あれは絶対におかしい、急に腹痛へ見舞われでもしたのではないか、と言った。

 私にはいわゆる霊感が皆無なようで、この話以外に「変なこと」は体験していない。幽霊なんて見たことがなく、見たという人間にも出会ったことがない。けれど、そういうモノに対する恐怖感は、殴られれば痛いと云わんばかりに本能として備わっているようだから不思議である。

 正直な話をすると、私はテクモのPlayStation2用ゲーム『零~zero~』を途中で投げ出した。怖くてやってられるかこんなもん、と文字通りコントローラーを放り投げたのだ。『バイオハザード』のようなスプラッター的な恐怖とは違い、感性や想像力といった人間の根源部分にじわじわと来る『零』のそれは、不快感や居心地の悪さを伴う恐怖だったのだ。

 あるとき、友人に「面白いゲームがある」と薦められたのが、続編の『零~紅い蝶~』である。私は第1作のプレイを諦めたことを話したが、それでも友人は、絶対面白いからやれと言う。物語は前作と直接つながっていないとか、恐怖度が減っているとか、戦闘システムが洗練されていて爽快だとか、ゲーム屋の店先で延々と喧伝した。

 「お前の好きな幼女も出るぞ。幽霊だけど

 結局私は、BEST版が出ていて安かったということもあって『零~紅い蝶~』を購入する。家に帰ってすぐプレイしてみると、華麗なCGで物語感あふれるオープニングムービーからして、前作とはちょっと様子が違うなと感じた。今回の主人公は15歳の双子の姉妹だ。うむ、これは和みそう

 『零』は数多のホラー物と違って、「射影機」という特殊カメラを武器に迫り来る怨霊たちを鎮めるという、独特のゲームである。いわゆる心霊写真を逆手に取った発想で、幽霊をカメラで撮影することにより写真へ封印したり、除霊したりできるというものだ。

 射影機を構えたときはファインダーモードという主観画面に切り替わり、いわゆるFPSゲームに近い操作感となる。レンズを覗いた光景がそのまま戦闘画面となるため、視認できる敵は正面の怨霊のみ。そのため、プレイに際してはヘッドホンを装着しての聴覚による怨霊探知が推奨されている(独自の立体音響技術により霊の居場所が音で表現されている)。

 さて、『零~紅い蝶~』の主人公は双子姉妹であると先述した。美少女バトル物を得意とするテクモらしい演出だが、それとは別にガチンコ幼女も登場する。物語の舞台となる廃村で特に大きな家である立花家の長女、立花千歳だ。

 冥府から噴き出した暗黒の瘴気によって村が闇へ閉ざされたとき、元来臆病な少女であった千歳は、押入れに隠れているところを瘴気に呑まれて絶命する。その怨霊が浮遊霊となって主人公に襲いかかるという寸法なのだが、この霊がまたとんでもなくカワイイ。顔はもちろん、闇を作り出して主人公の視覚を奪う特殊技を繰り出すときに、自分で出した闇に脅えて泣きじゃくるというところが、何とも言えずにラブリーなのである。

 こんなかわゆい子を倒さなきゃならないなんて! むしろ押し倒してえ! 成仏しなくていいから俺のそばにずっと居てくれ! というか、もうちょっと着物の裾をこう、チラッと……。俺だけのフェイタルフレームを是非……。

 恐怖度が減少したとはいえ、物語のムードやシステムは前作を凌駕する出来だ。永遠の夜に閉ざされた廃村「皆神村」に双子の姉妹が迷い込み、行方不明者の足跡や民俗学者の手記を辿るうち、近隣の民や村民にすらタブー視されていた秘祭の存在を知る。それは、定期的に開く黄泉への門を封じる目的で行われるのであるが、地下の祭壇で双子の姉が妹を……という凄惨なもの。迷い込んだ姉妹の命運や如何に。

 バイオハザードは言わずもかな、『サイレン』はやや大味な種明かしで、『サイレントヒル』に至ってはパラノイアの妄想然としたオチが賛否両論を呼んだ。しかしこの『零』は極めて正統派のストーリーであり、それ故にのめり込んだが最後、明快かつショッキングなエンディングが待ち受けている。

 Youtubeで“Fatal Frame 2”と検索すると、本作のプレイ動画の他にトレーラームービーがヒットするだろう。そのひとつをご覧頂きたい。姉妹がどこかの湖畔で話をしているシーン、やがて姉が仰向けに倒れて妹を抱き寄せながら「殺して」と呟くのだが、この場面はゲーム本編のある重要な局面で、シチュエーションを替えて再現されている。

 Amazon.co.jpの購入者レビューでは「ノーマルモードでクリアしたら超バッドエンドでした! ダルくてもう1度クリアする気になれません」などと書かれていたけれど、このレビュアーはホラーというものを根本的に勘違いしているのだと思う。死者と交感した人間が只では済まないのが綺譚や恐怖譚の定石ではないか。生命の限界を超えた世界に接した者の心や体が、無事でいられるはずがない。望むと望まないとに拘らず、何らかのペナルティを受けるのが霊媒の宿命というものだ。

 このゲームには2種類のエンディングが用意されている。最初に誰もが見るノーマルエンディング「紅い蝶」と、2周目でラストの展開を異にする別エンディング「虚」だ。比較的マシな「ややハッピー」エンディングは「虚」のほうなのであるが、私はノーマルエンディングのほうが秀逸だと思う。天野月子の主題歌のサビに合わせて廃村へ朝陽が昇る演出は、他に類を見ない、ある意味でとても感動的なシークエンスだろう。私は、このエンディングをバッドだとは微塵も思っていない。

 私はこのゲーム、怖い怖いとヒーヒー言いながら3度クリアした。いくら前作よりソフトタッチになったとはいえ、心臓が悪い人は夜中にプレイしないほうがいいかもしれない。



  『零~紅い蝶~』
  2003年 テクモ株式会社
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