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『わたしを離さないで』

Posted by AK on 09.2007 小説   1 comments   0 trackback
Tag :カズオ・イシグロ わたしを離さないで
慈愛と哀しみに満ちた、もうひとつの世紀末
彼女の思い出は誰かの人生となりうるか?


 子供の頃、歩いて4、5分の近所に友達がいた。用もないのに互いの家を行き来し、自転車で連れ立っては近くの動物園でソフトクリームを食べ、「学研の科学」の付録を一緒に組み立てる。そういう友達だ。

 随分近くにあるのに何年も歩いていない道、というものが誰にでもあると思う。今の私にしてみれば、友人の家はそんな場所の一角にあり、先日気まぐれにその道を歩いてみた。憶えている限り十数年ぶりだ。歩こうと思えばいつでも歩けるのに、私はそうしなかった。その場所に格別嫌な思い出があるとか、放し飼いの猛犬が道を塞いでいるとか、そういうわけではない。私の家は坂の上にあるが、友人の家はさらに急な坂道を登った場所にあった。要するに面倒くさかったのだ。

 友人とは、彼が遠方の寮制学校へ進学して以来会っていない。携帯電話なんかが普及する前のことだから、今となっては彼がどこで何をやっているのかも知らない。彼の家族とも、彼が単身遠くへ行ってからなんとなく疎遠になり、これまた十数年会っていない。親交のあった2つの家族が、ある時期を境に赤の他人になったと言えば分かりやすいかもしれない。

 久しぶりに友人の家を訪ねた私は、暫し面を食らう。そこは当時の面影を残したまま、無人の廃屋と化していた。窓という窓がブルーシートで覆われ、壁は所どころ崩れており、猫の仔1匹住んでいる気配がない(昔は3匹の猫が飼われていた)。いつからこの様なのか。そういえば、数年前の冬に遠目で玄関付近を眺めたところ、階段の積雪がそのまま残されていて、そのときすでに人が出入りしている気配はなかった。

 廃屋の前に立って周りを眺めているうち、だんだんと奇妙な気分になる。長い旅行から帰って馴染みの公園に行き、砂場で数日前の自分の足跡を発見した子供のような気分。自分が去ってからというもの、誰にも省みられることがなかった場所。なまじ新しい住人がいなかっただけに、そういう思いは一層強くなる。昔の写真を眺めるよりも、当時の記憶が鮮烈に蘇る

 連休明けの職場で自分の机がなくなっていようが、納めたはずの国民年金が給付されまいが、自分という人間はたしかに存在している。出会いや別れ、獲得と喪失を繰り返し、幸も不幸も経験してその存在は確固たるものとなる。社会的な価値や理由は、そうした現実存在(実存)を修飾するための方便に過ぎない――これを哲学の方面で「実存は本質に先立つ」などと言う。目に見える自分を認めてそれを活かせ、人間は魂(本質)の容れ物ではない、というわけだ。

 無神論などでしばしば用いられる概念であるが、これをテーマとした文芸作品で近年もっとも重要なタイトルといえば、英国人作家カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』ではないだろうか。SF的な舞台設定にも拘らず過度なドラマは避け、ある女性の回想という形を取って展開されるその物語世界には、不思議と宗教的な「安らぎ」が通底している。

 神の慈愛と実存主義、相容れないはずの両者が同じ根から出た2本の枝葉のように寄り添って見える理由は、何も彼がブッカー賞受賞にかこつけて女王陛下に見初められたというわけではあるまい。また、女性の回想文という設定から来るフェミニンな「安らぎ」でもないようだ。その原因は、彼が作り出した物語世界そのものにあると私はみている。

 1990年代末のイギリス。31歳のキャシー・Hは「提供者」と呼ばれる特殊な人々の介護に携わっている。彼女はこの道11年のキャリアであるが、その役目もあと数ヶ月で終えようというところだ。退職間際の彼女が思い起こすのは、かつて自分がいた「ヘールシャム」と、そこで共に育った仲間たちのこと。美術教育に特化したその不可思議な養育施設で、彼女は親代わりの「保護官」たちに見守られながら子供時代を過ごしている。

 このように、物語の導入では「ヘールシャム」で過ごしたキャシーの少女時代が描かれる。いわゆる寄宿舎物と言っていいかもしれない。「ヘールシャム」には肉親を欠いた――社会的な意味ではなく、生理的に――特殊な子供たちが集められ、それはある種の施策に則って運用されている。彼らは規則的な寮生活を送り、決められたテリトリーから出ることを許されていない。また、部外者が「ヘールシャム」に入ることもタブーだ。

 唯一の例外として、「マダム」と呼ばれる謎の女性が年に数度「ヘールシャム」を出入りし、生徒たちが授業で作り上げた美術品の数々を持ち去っていく。マダムのめがねに適うことは、生徒たちにとって大変な名誉らしい。彼らは、持ち去られた作品群が「マダムの展示館」に整然と並べられる、と信じている。

 やがて小説は、何かをひた隠す「保護官」たちの不穏な言動や、「ヘールシャム」出身者を色目で眺める他施設の若者たちへとフォーカスし、英国が、あるいはこの世界全体が見ないふりをしてきた理不尽な真実へと突き当たる。「提供者」とは何か? 孤児たちの間で都市伝説のように語り継がれる「ヘールシャム」出身者だけの特権とは? 子供たちの美術品を収集していたマダムの真意は?

 イシグロがこの小説へ着想したのは、今から17年も前だそうだ。その頃は、核兵器で短い生涯を終える英国の若者たちを描いた、ある種の終末物として構想されていたらしい。しかし、1997年に現実のニュースとして取り沙汰され、バチカンが非難声明まで出したある事件によって、今日我々が見る長編小説『わたしを離さないで』が誕生したのだという。このあたりの経緯は去年の読売新聞に掲載されたインタビュー記事に詳しい。

 まがりなりにもハードコアな文学者として知られるイシグロがサイエンス・フィクション的な舞台設定を行ったのは、この作品に対する数多の書評で伝家の宝刀のように振りかざされる「科学万能主義への警鐘」や、「人類の未来を憂慮」した結果ではあるまい。それにしては話題の中心が個人の言動へ偏りすぎてしまっている(というか、そういう書評を出す連中は本当にこの小説を読んだのかと小一時間問いたい)。

 とどのつまり、そういうキャッチーな舞台設定の真意は、誰の目にも荒唐無稽な世界観を、身分も境遇も異なる読み手1人ひとりの生活のメタファーとして機能させたかったというところだろう。スリップストリームと呼ばれるオーバージャンルな作品ではよくある手法だ。事実、上記のインタビュー記事でイシグロは、これらの世界観がさして重要ではなく、そこから連想されるであろう映画的なムードやアクションも意図的に排したと断じている。不必要とまでは言わないが、カルチャー雑誌の誌面を割いてオタク的に深読みするほどの背景ではない。

 その代わりに読み手を圧倒するのは、主人公キャシーが回想する子供時代の小話の数々である。モデルの存在を意識せざるを得ないほど緻密に、しかし叙情的に書かれたそれは、数珠のように紡ぎ上げられた苦楽のひと粒ひと粒であり、Hという暗号姓を持つ1人の女性の壮絶な人生を彩るピースである。

 そして、この小説を一読した私が抱いた感慨――神性と実存の相似形――の正体は、この物語が主人公キャシー・Hの回想ということ以上に、彼女が死にゆく「提供者」の1人へ語り聞かせた「噺」だということだ。『異邦人』の真の主人公はムルソーの裁判で彼の半生を目撃した新聞記者、という説があるように、『わたしを離さないで』の一人称は実はキャシーではなく、彼女の思い出話を根掘り葉掘り聞き、それを自分のものにしようとした瀕死の「提供者」ではないのか。ちょうど、神父にキリストの復活を説かれてリラックスする死刑囚のように。

 物語の冒頭でキャシーに介護されている名もなき「提供者」は、彼女のような恵まれた出身ではない。国営の粗末な「ホーム」で育ち、思い出らしい思い出など何ひとつないまま自らの「使命」へ邁進した彼は、その生涯を終えようという間際に怖気づく。死の恐怖ではない。幸も不幸もなく、無味乾燥な人生を送った自らの魂に対する空虚感だ。同じ「使命」を持ちながら、大多数の英国民がそうであるような黄金の幼年期を過ごしたキャシーに対し、彼は羨望よりシビアな渇望を露にして、彼女の思い出話へ聞き耽る。天国への階段を昇るには豊かな魂が要る、とでも言わんばかりに。



 「人の一生は私たちが思っているよりずっと短く、限られた短い時間の中で愛や友情について学ばなければならない。いつ終わるかも知れない時間の中でいかに経験するか。このテーマは、私の小説の根幹に一貫して流れています」

  ――カズオ・イシグロ 2006年6月12日、読売新聞のインタビューで



 尚、『わたしを離さないで』という題名は、作中に登場する歌の名前でもある。「ヘールシャム」のリサイクルバザーで買ったカセットテープに収録されているこの曲を、幼いキャシーは体を揺らしながら何度も聴く。彼女は、「……オー、ベイビー、ネバー・レット・ミー・ゴー、わたしを離さないで……」とリフレインするこの歌に、ある光景を重ねているのだ。

 それは、字面から想像できるような、恋人同士のくんずほぐれつなどという話ではなく、まだ見ぬ肉親の幻影でもない。あるものを生来の「使命」と引き換えに喪失している幼い少女が夢見た、キュートで物悲しいビジョンなのである。



  原題 “Never Let Me Go”
  2006年 早川書房
  カズオ・イシグロ 著
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『バナナフィッシュにうってつけの日』

Posted by AK on 03.2007 小説   0 comments   0 trackback
大文豪の蒼きリビドーが燃え上がる
法を犯さない変態男とピュアな幼女の火遊び水遊び


 私は女児の足が好きだ。脚ではなく足が好きだ。つまり、くるぶしから下、踵とか土踏まずとか指とか、そういうのが付いている部分が好きだ。

 ロリコンという時点ですでに変態の極みであるので、「ひょっとして俺っておかしいんじゃないか」などと人並みに悩むことはなかったけれど、それでも自分で自分を不思議に思うことはある。冷静に考えてみて、汚いだけだろう足なんて。臭いし

 それでも魂の欲求には抗い難いものだ。暑がりなのに夏が好きなのはサンダル履きの女児が見たいから。日本の過疎掲示板がたまに外人連中に乗っ取られて、アレなモロ画像が大量に貼られることがあるが、そういう画像を見ても欧米の女児というのは基本的にペディキュアを塗っている。「洋炉(白人少女)じゃ抜けない」という人間が同じロリコンに多いのも、そういう分不相応な出で立ちに道義的な反感を覚えるからかもしれない。

 だが、ペディキュアを塗っていようがいまいが、足は足だ。携帯にストラップをつけても基本機能が損なわれることはない。それは足も同じことである。装飾の有無は足の魅力に何らの影響も及ぼさない。プラスになりこそすれ、マイナスに転じることはあり得ない。小さければそれでいい

 日本文芸界における足フェチの重鎮といえば谷崎潤一郎であり、その正統な後継者が村上龍だろう。前者は興味がないのでよく知らないが、ドラゴン村上の著作中に何の脈絡もなく登場する足描写ではずいぶんと笑わせてもらった。連作エッセイ「すべての男は消耗品である」で村上は、丸1回を使って足フェチとはなんぞやということについて自己問答している。曰く足は進化から取り残された唯一の器官であり、そこへ劣情を覚えるフェティシズムが存在するのであろう、というようなことを書いていたように思う。だが、私はドラゴン村上のそういう教養主義的な姿勢に疑問を呈したい。

 考えてどうする? 感じるんだ!

 フェチにおける快楽とはフィーリングにそのすべてが委ねられている。考えれば負けなのだ。いや、もしかすると村上は「思考」をオカズにする高度なオナニストであるのかもしれない。そうだとすれば彼のスタンスは極めて合理的なものだといえるだろう。

 私が『バナナフィッシュにうってつけの日』という短編小説を読んだとき、まず初めに抱いた感想が「話の筋はよく分からないけれど、やっぱり幼女の足は最強だな」というもの。たった23ページの短編小説において幼女の足首を掴む描写が3度も書かれているのだから、これは只事ではない。この短編において、主人公シーモアは半ば精神異常者として書かれているけれど、彼の強烈なフェティシズムの前ではそういったサイコな文脈も霞んでしまう。

 ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー。第二次大戦中は英国諜報部でスパイ訓練を受け、ノルマンディー上陸作戦へ参加した軍歴の持ち主であり、戦後は自著のメディアミックス(映画化等)を頑として認めない偏屈な物書きとして知られている。長編の代表作が『ライ麦畑でつかまえて』、『フラニーとゾーイー』であるならば、短編の代表作は紛れもなく『バナナフィッシュにうってつけの日』であろう。

 この短編小説は内容的に2部構成となっている。前半は、リゾートホテルに泊まっているミュリエルという女性が長距離電話で母親と会話をする描写が延々12ページ。ミュリエルはシーモアの妻であり、彼の「異常な言動」を憂慮した母親から「あのキチガイは大丈夫なの? 海岸で合衆国憲法を朗読してたりしない?」などと確認の電話を受けているというのが前半のシークエンスだ。

 それから後は、主人公シーモアがビーチで幼女と戯れる描写が続き、唐突なラストで幕を閉じる。シーモアの相手をする幼女の名はシビル・カーペンターといい、セパレート水着が可愛い白人少女の鑑みたいな子。さて、この子が母親にサンオイルを塗ってもらう場面では、さすが大文豪というべき秀逸な描写がみられる。



 カーペンター夫人はシビルの肩に日焼け止めのオイルを塗っていた。翼を思わせる華奢な肩甲骨のあたりにまで一面にひろげてゆくところである。 (J・D・サリンジャー 『バナナフィッシュにうってつけの日』)



 「翼を思わせる華奢な肩甲骨」とは、要するに天使だと言っているわけだ。決して「天使みたいに綺麗な」だとか「この世のものとは思えない美少女」などと書かない、シャイな巧さ。美少女を美少女と書くことは簡単だけれど、それを敢えて読者のイマジネーションに任せるところが「文学」たる所以なのである。想像力に訴えるということはそれだけ物語世界へ没入させやすいということで、これができるかできないかが、巧い作家とそうでない作家の分かれ目であるといえる。

 ちなみに、シビルの年齢に関してもサリンジャーは「カナリヤ色のセパレーツの水着を着ているが、その上の部分が実際に必要になるのは、あと九年か十年してからのことだろう」と書いている。就学前の女児をこれほどまで陰湿に書く男を私は知らない。おそらくムッツリスケベなのだろう。

 文学談義はこのぐらいにして、主人公シーモアがいかに変態性欲者かという話題へ移る。彼がホテルでピアノを弾いているときにシャロンという少女を膝に乗せた話を引き合いに出し、シビルがやきもちを焼く場面がある。そこで彼がシビルに言ったことといえば「シャロンを君だと思うことにしたのさ」という台詞。アメ公はどうしてこうも殺し文句が冴えているのか。私がシビルだったら骨の髄までメロメロにされた挙げ句、無毛の股ぐらをパックリと差し出していたことだろう。というか、これは大人の女に使うべき台詞ではないか。シーモア、お前……。

 先ほど足首がどうのこうのと書いたが、シーモアがシビルの足に執着する場面はたしかに数度書かれている。というか、そこだけ妙に浮いた、異常な描写といってもいい。挙げ句の果てには、沖合でシビルと戯れているとき、おもむろに彼女の足を掴み上げて土踏まずにキスをする。なんと羨ま、いやけしからん男だ。全世界の女児足フェチが夢に見ていることを、よくもヌケヌケと……。

 しかし、シーモアが本当に異常だと分かるのはこの後の描写だ。彼はシビルと別れたあと、ホテルのエレベーターでどこぞのご婦人に「あなた、ぼくの足を見てらっしゃいますね」などと言い出す。「こそこそ盗み見するのはごめんだ」と。変態呼ばわりされた婦人はすぐにエレベーターを立ち去ってしまうのだが、この描写には2つの意味があると私はみている。ひとつはシーモアが真性のサイコであるということ。もうひとつは、彼のシビルの足に対する執着へ、明らかに性的なニュアンスが含まれていたということだ。

 この小説には、シーモアという男がいかに異常かということがそれとなく、しかし強烈に書かれているが、それは彼の足に対するフェティシズムへすべて集約されている。とどのつまり、足フェチは異常者なのである。私は異常者なのである。そんな私が全国の足フェチ諸氏へ言いたいのは、決して間違いを犯すなということだ。同志よ早まるな。生きている限り、(合法的な)機会は巡ってくるぞ。多分。

 この『バナナフィッシュに~』を手に取ったとき、始めは強烈なオチも含めて話の意味がよく分からなかった。が、今なら少し理解できる。この短編は、不可解な死を遂げた異常者の言動を、その背景を織り交ぜながら時系列に追ったフェイクドキュメンタリーなのである。彼が心を病んだ原因にしても、明確ではないにせよ「戦争」「軍隊」というキーワードが随所へちりばめられており、想像は容易だ。またその人物造形は、大戦兵士であったサリンジャー自身の映し鏡であるとも言える。サリンジャーが足フェチであったかどうかは知らないが。

 この短編には『バナナ魚日和』『バナナフィッシュに最適な日』等、いくつかの日本語訳が存在する。原書で読めればそれに越したことはないが、とりあえず野崎孝の秀逸な訳である『バナナフィッシュにうってつけの日』がいちばんうってつけであることは間違いない。短編集「ナイン・ストーリーズ」収録なので、書店で見かけた場合はぜひ手にとってみてほしい1冊だ。



  原題 “A Perfect Day for Bananafish”
  1974年 新潮社
  J・D・サリンジャー 著

『ダンス・ダンス・ダンス』

Posted by AK on 25.2007 小説   0 comments   1 trackback
中国人女性は春樹がお好き?
羊男をめぐるネット懇談


 学生時代、私はハヤカワSF一辺倒で、いわゆる純文学には縁遠い読書生活を送っていた。たまに村上龍を読んだりもしていたが、とりたて文学ということは意識せず、『コインロッカー・ベイビーズ』や『五分後の世界』をスリップストリーム小説の感覚で手に取っていたぐらいだ。

 当時、熱心な漫画読みだった友人に小説を勧めてみた。(多くの)小説には挿絵がない、場面や情景は自分で想像するしかない、故に1冊を読み終えたときの充足感や印象は漫画の比じゃない。そんな文句で、とにかく何でもいいから読んでみろと捲し立てた記憶がある。

 それから数年が経ち、友人の読書量は私のそれを遥かに超えていた。一方私はといえば、読んでもいない若手作家の新刊を「こんなものはブンガクじゃない」などと罵っては看破した気になり、表紙がふにゃふにゃになったお気に入りの文庫を飽きもせず読み返す、という生活をしていた。同じ本好きにも、いろんなタイプがいるようだ。

 さて、いつしか私が友人にお薦め本を乞う立場になり、村上春樹の名前を聞かされる。「有名だから読んでみたけど、やっぱり面白かった」と、友人は本屋で『ダンス・ダンス・ダンス』の文庫本を指差した。私は村上春樹に対して、時代の波に乗った薄っぺらいベストセラー作家という偏見を持っていたため、そのときは素直に手に取る気になれなかった。

 後日、再び書店へ赴き、『ダンス・ダンス・ダンス』上巻の225ページを開いた。ヒロインの美少女ユキがバージニアスリムを吸う場面。未読の方のために注釈しておくと、彼女は13歳だ。私は上下巻を棚から引き抜き、「中」という巻がないことを確認してから、急ぎ足でカウンターへ向かった

 『ダンス・ダンス・ダンス』は旅行記のような小説である。冬の札幌、東京赤坂、そしてハワイと、舞台が目まぐるしく移る。文体も、比喩が多いことを除けば、社会保険庁の年金啓発パンフレットみたいに平易な文章で、とても読みやすい。

 この小説はシリーズ第3作目という位置づけなのだが、私は著者の他の作品を読んだことがなかった。おかげで話の冒頭が何を言わんとしているのかよく分からなかったが、すぐに物語展開へ移ってくれたので、何事もないように読み進めることができた。曰く、高度成長に陰りが見え始めた1980年代の空気だとか、丸腰で世界に正対する個の不安だとか、いろんな人がいろんなことを言っている小説ではあるが、そんなことはこの際どうでもいい。私の目当ては喫煙女子中学生ユキちゃんだったのだ。

 「ふん、馬鹿みたい

 これ、作中で彼女が事あるごとに言う口癖。AKIBAライクな言い方をすれば、ツンとかデレとか、ああいう感じだ。おまけに、物のルーツや他人の記憶、少し先の未来などを幻視する特殊感覚の持ち主で、同世代の友達から気味悪がられた挙げ句に中学校を逃げ出した不登校児でもある。

 私の胸は俄然高鳴った。なんてことはない、ロリコン向け深夜アニメが隆盛を誇るずっと以前から、この手の不思議少女は日本人のハートの内に完成形として存在していたのだ。私は歴史の重みを噛み締めながらページをめくった。それこそ、かつての文豪たちも同じ思いを古典文学へ抱きながら、それでもわしゃあ理想のロリロリ少女を書きたいんじゃあ、などと怪気炎を上げていたに違いないのである。

 三十路も半ばのしょぼくれたライターである主人公を「あなた」と呼ぶ、13歳の美少女。ここには村上の、いや男のロマンがたっぷりと詰まっている。また、主人公も主人公で、ユキのことは「」呼ばわりだ。こういう感じはたしかに、80年代をピークに流行したことがあった。貴族になれなかったミドルクラスの儚い夢とでも言うべきか。そういったファンタジーとは別に、ザーメン臭いエログロ・バイオレンス路線でワニを飼う美少女アネモネを描き出したのが、同じ村上でも龍のほうなのであるが、こちらはいずれ別エントリーとして観想してみようと思う。

 ところで私は以前、インスタントメッセンジャーで中国の女性と知り合い、しばらく話をしていた時期がある。彼女は現地の大学で日本語を専攻しており、こちらのIMは9割方通じていた。曰く彼女は日本文学へ興味があり、中でも村上春樹がお気に入りなのだという。中国で春樹が流行っているという話は聞いていたが、どうやらそれは対中和解派の陰謀ではなかったらしい

 『アフターダーク』が出版された時期であるので、2004年の暮れだろうか。チェコ人やアメリカ人と話をしたことはあったが、中国人というのは初体験だった。彼女とメッセージを交わすのは、毎晩9時から0時までの3時間。それ以上は彼女の仕事の都合から「それじゃあまたね」と次の機会へ持ち越す。モニタ越しの国際交流、話題は比較文化、文学……。なんだこれは、まるで春樹の小説じゃないか。一人称も「僕」に変えようかな。ビールを買ってこなくては。そんなことを悶々と考えながら、彼女と様々な話をした。

 ある日、私は話の流れで彼女にこう訊く。『ダンス・ダンス・ダンス』は中国でも出版されているか? 彼女はYESと答えた。

 「なんだか寂しい感じがして好き。『羊をめぐる冒険』(注・『ダンス~』の前作)もね。もともと持っていなかったものを失くした気になって、打ちひしがれる感じがする」

 なるほど、これは重度のハルキストだ。いや貶しているのではない。海の向こうの、食べ物も税制も宗教観も違う労働者階級の女性が、日本人の感性へ通じる感想を春樹文学へ抱くということへ、純粋に驚いているだけだ。考えてみれば、今の中国は高度成長の最中にあり、かつて日本が通ってきた道に近いものがあるのかもしれない。80年代的センスの文芸作品が現代の中国で受け入れられることは、想像に難くない。

 そこで私が本性を現し、ユキちゃん萌え~ハァハァ、などと言えば果たしてどうなっていたか。こちらも想像に難くない。



  出典 講談社文庫『ダンス・ダンス・ダンス』上・下
  1991年 講談社
  村上春樹 著
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