君はチラリ

メディアの中の少女たち。
ヒロインからエキストラまで。

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シュヴァンクマイエルの『アリス』

Posted by AK on 23.2007 映画   6 comments   0 trackback
Tag :シュヴァンクマイエル アリス Alice クレイアニメ 小児性愛
幼年期に「終り」はない!
スメタナの祖国が生んだ地上最強の少女映画


 昔、繰り返し読んでいた童話がある。ハンス・クリスチャン・アンデルセン作『眠りの精のオーレ・ルゲイエ』。図鑑ほどのサイズもあるアンデルセン全集で、私はこの話ばかりを読んでいた。

 中国の女性とチャットをしたとき、子供の頃にいちばん印象深かった本は何か、という話になり、私はアンデルセンの名を挙げた。「へえ、偶然。私もなの」と彼女は言い、好きな場面やエピソードを矢継ぎ早に畳み掛けてきた。私は内心焦った。いちばん印象深いのは間違いないが、憶えている話といえば「オーレ・ルゲイエ」だけなのだ。

 殴れば人も殺せそうな童話全集の中で「オーレ・ルゲイエ」だけを何度も読み、逆にそれ以外の話は鼻歌雑じりで斜めに眺めただけ。『赤い靴』の主人公が何色の靴を履いていたかも憶えていない有様だ。彼女は『人魚姫』がお気に入りだと言ったが、はてそのお姫様が魔女にもらったものは手か足か。いや、髪の毛だったかな?

 「オーレ・ルゲイエ」は夢の物語だ。オーレは北欧の伝承に登場する睡魔の一種で、彼の持つ魔法のミルクを瞳に受けた子供はたちまち深い眠りに落ちる。物語では、7晩の夢の冒険をする少年が登場し、絵画の中の泉からオモチャの兵隊の結婚式まで様々な場所を探訪した。子供にとって、もっとも身近でアクセスしやすい非現実は夢である。ディズニーアニメのように、魔法の粉に包まれて異世界を冒険するといった趣ではなく、あくまでも「身近」なファンタジーとして夢は有効的だ。

 子供の世界と夢は親和性が高い。この手の物語が古来から独特の魅力を放ってきたのも、夢が単純な非現実ではなく、それが紛れもない現実の一部だったからであろう。たとえば空を飛ぶ夢にしても、一足飛びで深宇宙の彼方へジャンプできるというものではなく、電柱の高さ以上は浮遊できないとか、何か道具を使わなければ飛行できないとか、理不尽な制約があるのも夢の魅力である。

 近年もっとも成功を収めた夢の物語といえば『不思議の国のアリス』であり、そのパロディという断り書きがありながら類例を遥かに引き離すクオリティを見せた実写映画が、チェコのヤン・シュヴァンクマイエル監督による『アリス』である。本場英国でさえ「アリスの実写化」には微妙な作品が多い中、自らの幼児体験を下地に複雑怪奇で幻想的なワンダーランドを構築してみせたシュヴァンクマイエルは、童話フリークやシュルレアリストに感嘆と称賛の嵐をもって迎えられた。

 シュヴァンクマイエルの『アリス』は、ルイス・キャロルこと数学講師チャールズ・ドジソンによる童話『不思議の国アリス』を念頭に置いてはいるものの、その完全な実写映画化作品ではない。冒頭で“Inspired by Lewis Carroll's Alice In Wonderland”とクレジットされているように、あくまでもパクリ、じゃなくてインスパイア作品であるとのことだ。オマージュとかリスペクトとか、ああいう感じである。飲ま飲まイエイである。

 シュヴァンクマイエルは、この映画を自らのプライベートフィルムと位置づけている。3年の歳月を経て作り上げられた彼の「アリス」は、彼自身の幼年期の暗喩なのだそうだ。シュヴァンクマイエルへのインタビューを掲載した『アリス』のライナーノーツが手元にあるが、彼はその中でこう述べていた。

 「私は未だかつて自分の幼年期を、何かもう既に過ぎ去ったもの、何処かに置き去りにして来たものとして見たことは一度もありません」

 彼の「アリス」は冒頭、英国流のポップでカラフルな子供部屋とはかけ離れた、虫の死骸や壊れた人形が転がる薄暗い部屋に横たわっている。ふと隅に目をやると、そこにはガラスケースに収められた白兎の剥製が。兎は自らの意思で動き出し、釘で固定された両腕を引き抜いて騎士の装いを身に纏う。彼は鋼鉄の裁ちばさみを携え、岩と土くれが漠々と広がる荒野へ駆け出すのだ。彼を追って飛び出すアリスは、緩やかな丘の上に1脚の机を見つけ、その引き出しから遥かな地下の国へ迷い込む。

 インスパイアということで、細部に渡って「原作」からのアレンジが加えられている点もこの映画の魅力だ。アリスが不思議の国へ向かう直接の入り口である「兎の穴」は、本作では歪な木製エレベータへと変更されている。巨大な歯車で緩やかに下降するそれは正面の壁が抜けており、階層ごとに並ぶ棚には様々な物が並んでいる。ジェニー・ハーニバス(合成標本)や瓶詰めの画鋲、捨てられた人形など。

 エレベータは加速する。「Exit」と書かれた階層を過ぎたあたりでアリスは床を突き破り、直下の部屋へと投げ出される。このエレベータはシンドラー社製に違いない。ここから、アリスにとって文字通りの悪夢が始まるのだ。この映画が一部の層から「少女いじめ」と反発を買う原因も、ひとえにシュヴァンクマイエルの子供じみた――それ故にリアルな――ガジェットへの偏愛がある。壊れかけていたり、理不尽な改造を施されていたり……。それに付き合わされるアリスは堪ったものではない

 この映画でアリス役を演じるのは、クリスティーナ・コホウトヴァーという女の子だ。いつ、どこで生まれたのか判然とせず、ネットを適当に探してみてもバイオグラフィーらしきものは見当たらない。ただ、見た感じは7、8歳ぐらいで、ふんわりとした金髪に大きなグリーンの瞳が特徴的な、恐ろしく可愛い子だ。まさしくそれは、絵に描いたような金髪幼女であり、近代映画史上5本の指に入る美少女子役と言って過言ではない。

 この150年で数多のジャンルにおいて試みられた「実写アリス」のどれをも凌駕する、クリスティーナ・コホウトヴァー演じる「アリス」。演技過剰で妙に大人びていたり、どんな困難にぶち当たっても頭の弱い子みたいに終始ニコニコ笑っていたり、そういうハリウッド的な不自然さがまったく見られない。劇中はほとんど仏頂面で、演技もまったく素に近い状態である。フナムシの缶詰に本気で驚いていたり、固い引き出しを無理矢理こじ開けようと必死の形相を見せたり、とにかく「素顔のアリス」が文句なしに素晴らしい。

 シュヴァンクマイエルはアップを多用する監督としても知られている。季刊コミッカーズ2001年秋号のインタビュー記事において彼は、「私にとって全体は静的なもの、細部は動的なもの」と述べており、物や人の動きを直接的に見せる手段としてアップを使っていることが分かる。

 ともあれ、劇中においてクリスティーナ・コホウトヴァーちゃんのドアップが度々映し出されるものだから、変態には堪らない映画だ。それこそ耳の穴から足の指先に至るまで、およそクローズアップされない部分はない。(ある種の人にとって)妙齢の金髪幼女を全方位から、あらゆる部位をズームするシュヴァンクマイエルのカメラは、もはや静と動のバランス云々というよりも、凝視のそれに近い病的なフレームワークである。

 また、パンチラどころかパンモロがあったり、スカートが胸の辺りまでたくし上げられていろんな部分が丸出しになったり、凝視というか窃視の方面でも十二分に満たされることうけあいである。もっとも、これらは狙って撮られた絵ではなく、単純に構図の問題や撮影中のハプニングなのであるが、そこがまた素敵。エコールとかいう退屈な映画を撮った誰かさんにはぜひとも見習っていただきたいものだ。後ろめたいエロスを排したノスタルジーなど、どこにもありはしない

 ある方面では、この作品をして「ロリコンの好みじゃないと思う。グロいし、暗いし」などと囁かれているのだが、とんでもない話だ。変態を舐めてもらっちゃ困る。たしかに、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールちゃんは俺の嫁、などとのたまう2次元専科のエセ変態には辛い作品かもしれないが、我が国古来の稚児趣味の正統な継承者である現代ロリコンにとっては、文字通り「夢のような」映画なのだ。

 幼年期は忘れるものでこそあれ、失うものではない。谷の底に落として永遠に取り戻せない時間ではなく、部屋のどこかに仕舞い込んでその在り処を忘れてしまった記憶のひとつに過ぎない。これに因れば、小児性愛とは、物覚えが悪い懐古主義者の極論であるとも言える。

 観念の話はしていない。多くの小児性愛者にとって、彼らの幼年期は美化されている。実際の生活が幸福であったか不幸であったかに拘らず、義務や責任といった社会性から遠く離れた場所で社会の庇護を受けるという矛盾した存在の「子供」を、彼らは信仰の対象としている。Wikipedia日本版には「子供に性的夢想を抱く人間」と表現されているが、言い得て妙といったところだろう。

 「子供というのは、教育者的立場よりむしろ小児性愛者の観点からの方がよりよく理解出来る」とは、ルイス・キャロルを指して言ったシュヴァンクマイエル自身の言。彼もまた、この言に則って「子供の世界」を再現せしめたアーティストのひとりなのだろうか。私見によると、小児性愛者とは子供になろうとする者のことである。

 『アリス』は、ヤン・シュヴァンクマイエル監督の長編デビュー作だ。それまでショートフィルムばかり撮っていたシュヴァンクマイエルが満を持してベルリン映画祭へ出品した本作は、第1作とは思えないほど冷静な作りであり、この手のクレイアニメを初見の人にも概ね評判がいい。2000年に発売された最初のDVDは長らく廃盤となっていたが、最近トールケースで再版されている。アート映画だからと身構えず、紅茶にクッキーなど頂きながら深夜にダラダラと見るのがお勧めだ。



  原題 “Něco z Alenky”
  1987年 スイス・西独・英国合作
  ヤン・シュヴァンクマイエル監督
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『ダーク・ウォーター』

Posted by AK on 15.2007 映画   0 comments   0 trackback
Tag :ダーク・ウォーター アリエル・ゲイド 格差社会 子役 ロリコン アナ・トレント インベイジョン
オカルトなんてお呼びじゃないリアル
ハリウッド随一の貧乏母娘物語、ここに極まれり


 一時期、日本のホラー映画が「Jホラー」などと言われ、大層流行ったことがある。ここ十数年の話だろうか、『本当にあった怖い話』に端を発した平成ホラーブームはコピー作品の粗製濫造という袋小路に達し、今ではホラーという言葉すら聞かない。

 私は「ホラーだから」とか「SFだから」などという理由で映画を見ない。私が映画を選ぶ基準はただひとつ、子供が出ているかどうかだ。それも、そこそこ整った顔立ちで、演技が達者な子。大根は脚も演技も御免こうむる。

 映画『ダーク・ウォーター』は、しばしば「怖くないホラー映画」と形容される。そもそも「怖いホラー映画」など、ジャンル全体を見渡しても一握りしかないように思えるのだが、それはこの際置いておこう。スピルバーグは「伝えなければいけない物語があるなら、何よりもストーリーテリングを最優先する」と言った。純粋な観客である私も、これは同じ思いである。

 この作品はホラーというより心理サスペンスであり、広義のスリラーであり、家族の物語である。神経症に悩まされながらも娘を失うまいと戦う母親の物語であり、両親が離ればなれになった寂しさから死者に魅入られる少女の物語だ。そこには、「親は子の神」というビジョンがたしかに通底している。

 ジェニファー・コネリー演じるダリアは、幼い娘セシリアの親権を巡って元夫と対立している。「いいアパートを見つけたほうがセシリアをゲットな。ま、オレが勝つに決まってるけど」と、どこまでも小憎たらしい元夫を見返すため、ヒルトン姉妹もびっくりのセレブアパート探しへ奔走するダリア。しかし、無職の彼女に理想の物件など見つかるはずもなく、インチキ臭い不動産屋に案内された先は、ニューヨーク郊外ルーズベルト島にある前世紀の遺物みたいな集合住宅であった。

 とはいえ、彼女は形振りを構っていられる立場でもない。住めば都とばかりに開き直り、「こんな汚いところはイヤ」と訴えるセシリアのつぶらな瞳も押し切って前金を払ってしまう。さあどうする、ここ絶対なんか出るよ姐さん。住んでる連中も住人ってより患者だし。神経細いのに、こんなところで暮らして大丈夫? ていうか娘の情操教育に絶対良くない。10年したらハッパ噛みだすぞきっと

 どうにかこうにか棲家を手に入れ、福祉企業の事務職にも就いたダリア。これであのボンクラ男にセシリアを取られることはない、なんとか2人だけの静かな生活を作るのよ、と息巻く彼女であるが、肝心のアパートは天井から盛大な水漏れ、幼い娘は見えないお友達とブツブツ話し出し、頭痛薬を飲めば丸1日眠りこけてしまう始末。幽霊より手強い日常を相手に孤軍奮闘する彼女は日に日に参っていく。

 その他、同じ棟に住むDQN少年の陰険なセクハラとか、どこからどう見ても変質者全開な東欧訛りの老管理人とか、彼女の心労は絶えることがない。……これいちおうホラー映画だよな? 幽霊はどこ行った? まあ、それどころじゃないのは分かるんだけれども

 始終そんな感じで、超常現象なんて要らないぐらいシビアな境遇に置かれる母娘なのである。セシリアの「ニューヨークはあっち。こっち(ルーズベルト島)はちがう」という指摘通り、富める者とそうでない者とが明確に住み分けられた「格差社会」の本場アメリカは、日本の生ぬるいそれとは一味も二味も違うようだ。

 さて、この映画の見所はなんといっても、上記の無駄にシビアな脚本以外に、それを演じる俳優たちへも注目したい。オスカー像の在庫一掃セールと言わんばかりの実力派と脇を固めるベテラン俳優たち、そして競争率900倍の全米オーディションを勝ち抜いた最強の子役は、さながらハリウッドのグリーンベレーといった感がある無敵の布陣だ。これで駄作になるわけがない。実際、俳優の掛け合いだけを見ても充分楽しめるレベルに仕上がっている。

 アリエル・ゲイド。1997年5月1日、米CA州サンノゼ生まれ。劇中、アンテナ体質の少女セシリアを演じ、私のハートを鷲掴みにした6歳の女の子である。ジェニファー・コネリーの相手役として彼女と遜色ない演技を見せ、全米のペド野郎共の涙腺とカウパー腺を決壊させた期待の新人だ。

 まんまるおめめとコラーゲンたっぷりのサラサラ髪、押せば返ってきそうなぷにぷにホッペ……。合格である。戦闘力6万5000である。もはや、21世紀のアナ・トレントと言っても決して過言ではない。

 『ダーク・ウォーター』という作品自体がちょっとしたキワモノ扱いなために知名度は低いが、アリエルの強みは何もそのガチ幼女スタイルだけではない。先述した通り、本作中において実力派女優のジェニファー・コネリーと対を張るミラクルスキルを発揮し、ハリウッドの関係者全員が涙そうそう、私のムスコも白い涙で号泣だ。

 全国の変態紳士諸君、もうダコタ・ファニングで一喜一憂している場合ではないぞ。我々が『宇宙戦争』でダコタ嬢の成長っぷりに涙している間も、こうして次代の幼女優がスクリーンデビューしているのだ。

 劇中、拾ったリュックサックからお人形を見つけて「う~♪」と喜ぶときのあの笑顔、あれが素でないとすれば只者じゃない。そのお人形をアパートの管理人にリュックごと取り上げられて、「来週まで待って持ち主が出てこなければやる」と宣告されたときの仏頂面、あれも演技だとすれば、彼女のスキルは天性のものなのだろう。部屋へ戻るときの、意地悪な管理人にベッと舌を出す場面で、何人のロリコンがKOされたことか。腐ってもハリウッド、優れた才能を発掘するノウハウは21世紀の今もなお健在である。

 アリエル・ゲイドは現在、TVシリーズ『インベイジョン』に主人公の娘役で出演し、Young Artist Awardのベストパフォーマンス部門へノミネートされた実績を持つ。私はこのドラマを未見だが、公式サイトのギャラリーを見る限り『ダーク・ウォーター』の頃からまったく変わっていない。通な書き方をすると「劣化していない」。ぽちゃっとした愛くるしい容姿そのままで、まだ見ぬ次回作にも期待が持てそうだ。

 子役の賞味期限は短い。人種や環境にもよるが、11、2歳ぐらいで別人のように変わってしまう。使えるうちは端役でも使いまわし、大作映画への起用を奨励し、各国労働法ギリギリの線で消化し尽くすべきだ。

 もちろんそれは、役という役へマシンガンのごとく当てろという意味ではない。優秀なエージェントの優秀な仕事で、製作費をペイできるぐらいの皮算用は提示し、端数でちょっと冒険をさせるということだ。ちょうど、スピルバーグの大作映画を蹴ったジョデル・フェルランドが『ローズ・イン・タイドランド』でその地位を不動のものとしたように、である(あの作品が採算を取れていたかどうかは知らない。もっとも、監督のテリー・ギリアムは諸事情から「米国版DVD不買運動」の先陣を切っていると風の噂に聞いた)。

 アリエル・ゲイド。この名前を憶えておくといい。彼女が万が一、何かの作品でブレイクし「期待の新星!」などと喧伝されようものなら、即座に「ああ、ダーク・ウォーターに出てた丸っこい子ね」と通ぶれることうけあいである。もっとも、よほど打ち解けた場でない限りは下手に通ぶらないほうがいいかもしれないけれど。



  原題 “DARKWATER”
  2005年 アメリカ映画
  ウォルター・サレス監督

『エコール』

Posted by AK on 07.2007 映画   1 comments   0 trackback
Tag :エコール ルシール・アザリロヴィック 少女 INNOCENCE 乳首
変態お断り! パンツなんてただの布!
『エコール』がヌケないこれだけの理由


 ロリコンも長いことやっていると、いくつかの小さな問題にぶち当たる。ひとつはオカズの確保。当然にして究極の命題だ。もうひとつは周囲のリアクション。変態性欲者と性犯罪者とを混同している人間が多いせいで、「私は子供が好きです。特にひと桁の子」などと告白しても中々理解を得られない。そして、それらをどうにかクリアしたとしても、女児サイドの自由意志の問題が頭をもたげてくる。

 自由意志は責任能力と言い換えてもいい。とどのつまり、街でかわいい子に声をかけてホテルで一戦を交えたとして、罪に問われるのは大人だけである。未成年売春(要は援交)で、身体を売った側の責任が問われることはない。刑事上では14歳未満の者を無責任能力者として扱い、その一切の違法行為を咎めないという原則がある。だが現実の司法においては、16、7歳の女子高校生が無届の売春行為を行ったとしても、実質的なペナルティが科されることはない。せいぜい補導員から「自分の体を大切にしなさい」云々とお説教を食らう程度だ。

 このことをして「フェアじゃない」と憤る向きがあることを私は知っている。未成年といっても言葉を知らない幼児ではあるまい、合意の上で成されたことはその責任も等分されて然るべきである、と。だが私は、あくまでも本気で考えた場合、このような言説は不条理ではないかと思う。抽象的な話になるが、子供に自由意志の機会を与えるべきではないというのが私の立場だ。色目を抜きに見て、ありのままの子供というのは一種のモンスターなのだから。

 先日『エコール』という映画を見た。劇場公開時から何かと話題の作品であるが、私はいまいち興味をそそられなかったためにDVDで拝むこととなったのだ。まして原作小説なんて……。この映画の公式宣伝サイトをめぐって「乳首が見えた」とか「乳首が丸見え」とか「乳首乳首乳首ヒャッホイ」とか、いろいろと議論が紛糾したことは記憶に新しい。

 とはいえ、あれだけ盛大に脱いでいれば乳首ぐらい見えて当然だ。蚊に刺された跡というかピンクの豆粒というか……。いっそのこと下の豆もシネスコサイズで映せば、DVD発売後に即回収されてプレミア価値がつくのではないかとも思うけれど、そこまでやらないのが所詮は映画といったところだろう。

 肝心の内容だが、見る前のあんな想像こんな想像がいろんな意味で当たりすぎて、いささか拍子抜けしてしまったというのが正直なところだ。押井守のせいで使えなくなった“INNOCENCE”という原題の通り、少女時代の危うさとか思春期の心の揺れ動きとか、まあそういうものを主題に戴いたアート映画である。女流監督が挑んだ「少女性」の追体験、深い森に佇む秘密の学校へ送り込まれた少女は、美しさの先に現実の悲哀を垣間見る……などと新聞の文化欄で褒められる類の作品

 舞台となる学校そのものが少女期ということの暗喩であろうことは容易に察しがつく。脱走を試みて死んだ少女、無事に逃げおおせたけれど初めからいなかったことにされた少女、しっかり者で年少組の面倒見もいいのに土壇場で「卒業」を恐れる少女。高い壁と深い森に囲まれ、隠された地下道を通らなければ入ることも出ることも叶わない少女たちの庭は、現実に存在する風景というよりも、目に見えない何か、たとえば人間の心などをメタフォリックに再現した絵画的な舞台とみればしっくりくると思う。

 ……という風に書けと言われたような気がしたので、無理して書いてみた。さて次は下世話な話題である。この映画は変態のめがねに適うか? 児童ポルノみたいな予告映像の通り、ちゃんとその方向で使える作品になってる? 結論から言う。答えはNOだ

 そもそも、予告映像でも使われた水浴びのシーンへみられるように、この作品にはダイレクトな絵が多すぎる。結局のところ、パンツはスカートの下にあってこそエロいのだ。それらをかなぐり捨てて「ほぉら純真無垢な少女だよ~」などと言われても、無粋としか言いようがない。暗がりの中の白い布を拝むために写メや手鏡を駆使し、彼の社会生命を投げ打った捨て身のエロこそがパンツァーの至高ではないか。

 乳首の問題にしたところで、初めから半裸の少女などよりも、タンクトップの脇からピンクのつぼみをチラチラと覗かせる「無用心」な子のほうが何倍もアツいだろう。「見えている」のではない、「見ている」という主体的な意識が、我々のリビドーをより強く燃焼させるのだ。それなのに、この映画ときたら

 とまあ、このあたりは製作サイドの思うつぼだろう。そういう目的で見に来た観客をいかに白けさせるかという点において、随分と考えられているように思う。「肌を映さなければ変態は欲情しない」などといった我が国の良識とは対極に位置する、見事なコペルニクス的転回だ。

 ただ、そういうことを抜きに考えても、この映画は「甘い」ように思う。

 主人公のイリスという子が森で転び、脚に切り傷を負ってグズグズと泣く場面がある。ここで一緒にいた女の子が傷口から血を掬い取り、ペロッと味見をする。しかし、これだけでは場面のインパクトとしてはイマイチだ。やはり、傷口に直接しゃぶりつくぐらいのことはしてくれないと。こちらとしてはそういうハードコアな絵を期待しているのに。

 そもそも、少女が脱いでいるだけの映像など、高速インターネットが世界中に張り巡らされたこのご時世、ある種のソフトで然るべき探索を行えば掃いて捨てるほど手に入る。私が求めているのはそういうものではないのだ。強烈な物語性とフェティッシュとに裏打ちされた、その作品でなければ成り立たないエロス、癖の強いご当地料理みたいな卑猥さを私は願ってやまない。そういう意味で、これまで私がお目にかかった映画の内でもっとも強烈な作品は、ジャン=ピエール・ジュネの『ロスト・チルドレン』であった。

 そして、これを書いてしまうと『エコール』という作品そのものを全否定するようで気が引けるのであるが、今後誰かがどこかで書くとは思えないので私が率先してみる。

 多くのアーティストが畏れ、敬い、崇め奉る「失われた少女性のイノセンス」とやらは、それほど大したものなのか? まして120分ものフィルムを費やすほど語られるべき内容があるのか? 私には、どうにもこれらがある種の人々に顕著な、過剰な自意識の排泄物に思えてならない。たとえばそれは、失われた魂を素人催眠術で掘り起こして現世の補償とする、昨今流行の稚拙な霊感セラピーと手法の上では大差ないのではないか。

 さらにこの映画における「美」や「幻想」は、人間の子供が本来持つべき動物的な欲望や、雨後の泥溜まりのように暗く不潔な怨念を体よく覆い隠し、彼らの性善説をでっち上げる小道具へ成り下がってしまっている。年長少女の自慰行為をもって「後戻りのきかない成長」を演出するあたり、製作サイドの前時代的な児童観すら透かし見えるようだ。単純な話、オナニーぐらい幼稚園児だって知っている。性の象徴として使うにはあまりに安易だ。もっとも、キリスト教的な背徳がバックグラウンドにありそうなことぐらいは分かるけれど。

 ジュネほどの屈折も、シュヴァンクマイエルほどの悪趣味もない、ただひたすらに綺麗な風景と「リアル」な少女像とをパンする純粋無垢な映像美が『エコール』という作品のすべてである。そういう意味で、真にピュアなのは劇中の少女たちではなく、監督のルシール・アザリロヴィック自身ではないだろうか



  原題 “INNOCENCE”
  2006年 白英仏合作
  ルシール・アザリロヴィック監督

『青い目撃者』

Posted by AK on 07.2007 映画   0 comments   0 trackback
ダイナちゃん7歳危機一髪!
夜は獣のパパが百獣の王の胃袋に収まるまで


 映画に限った話で、「隠れた名作」という言い回しがある。

 マイナーだけどコアなファンがいる作品、という意味ではない。それではただのカルト映画だ。そうではなく、劇場公開時に単館系のハコでしか上映せず、あるいは劇場公開の機会そのものがなかった低予算映画で、後に販売されたVHSやDVDから「これ、意外といい映画じゃん」と好意的な評判に恵まれた作品のことである。この手の映画の定義として「感動作」という形容がついてまわるのも、ひとつの大事な特徴だ。

 ただ、感動と言っても、仕事帰りの茶汲みOLが何気なくレンタル店で借りて、メールを打ちながら横目で見ていたらグイグイ引き込まれ、エンドロールで滝の涙を流して顔面がマスカラで染まる、というような大げさなものでもない。気分がちょっと晴れやかになるとか、DVDがメニュー画面に戻ってもしばらく消さずに余韻へ浸るとか、そういう意味での「感動」である。

 私も普段はロリ映画ばかり見ている変態ではなく、いろいろ手をつけている雑食人間であるので、そういう「大事な映画」というものはいくつかストックしてある。んで、今回もひょっとしたらそういう作品にありつけるものと邪まな心持ちで買ったDVDがあった。ジェニー・ボーエン監督の『青い目撃者』だ。

 ジャケットの煽り文句には「エリート医師の父親から虐待を受け続けた7歳の少女・ダイナ」などと書かれており、これは否が応でも期待せざるを得ない。そのすぐ下、キャプチャされた劇中画像に被る「身体的虐待 心理的虐待 性的虐待」というチープな文字列は炎の画像をマスクしたものらしく、いい具合にB級感バリバリだ。「一見面白そうだけど聞いたことのないタイトルだし、まあ洒落で見てやるかと思って買ったら、本当にクソつまらなくてゲンナリした」というこれまでのケーススタディをすっかり忘れ、ダイナちゃん7歳ハァハァ、パソコンのDVDトレイに挿入しちゃうぞぉハァハァ、などと怪気炎を上げていた私なのであった。

 話としてはよくあるサスペンス映画である。実の父親から性虐待を受けていた疑いで警察に保護されたダイナ・ウォルコットという7歳の少女が、報復を恐れるあまり裁判の証言台で口をつぐんでしまう(証言拒否をした理由は他にもあるのだが、物語の核心へ触ってしまうので割愛する)。

 この事件を担当する女性検事ジョイは、次の公判での被害者証言を判事に確約してオフィスへ戻るも、肝心のダイナが施設から失踪したことを告げられる。「迷子探しは検事の仕事じゃない」と自分に言い聞かせ帰宅するジョイの車中にダイナは潜り込み、逃亡を図ったのだ。「私を追い返さないで」と懇願するダイナの瞳にただならぬ事情を察したジョイは、あろうことか単身彼女を連れ出して、父親から引き離そうと逃避行に出る

 一方、政財界へのコネで警察の告訴を退けたダイナの父親は、信用のおけない警察の代わりに探偵を雇って2人の行方を追う。当局も即座にジョイへの逮捕状を出してその行方を捜索するが、彼女は逃亡先で出会った保安官と親しくなり、ダイナと共に過ごせる隠れ家を提供してもらう。深い山の中でのナチュラルな生活は、虐待の傷も記憶もすべて忘れて、ダイナが笑顔を取り戻すきっかけになると思われたが、父親の雇った探偵はすぐそばまで迫っており……。

 たぶんこれを読んで眠くなった方がいるだろうが、書いているこっちも眠い。話運びがあまりにも定石すぎて、突っ込みどころがない。良くも悪くもB級サスペンスだ。きっと、睡眠不足で目尻の下がったシャブ中野郎が鼻歌混じりに脚本を手掛け、ハイネケンを箱で開けてベロンベロンに酔っ払った契約切れ間近の雇われプロデューサーが二つ返事でゴーサインを出したに違いない。そのぐらい、何も考えてなさそうな物語展開

 ただ、キャストはそれぞれにいい味を出していた。検事役のクレア・ランキンは演技とは思えないヒス具合だし、保安官役のジュリアン・マクホマンもいい声をしている。ルックスもイケメンだ。

 そしてダイナ役のアレクサンドラ・カイル。何やら各所で美少女と評判であるが、おそらく誰も言わないと思うので私が言おう。ビッチ顔。いや本当に。申し訳ないとは思うけれど、これが素直な感想だ。GyaOのレビューに「ダイナ役の子役が妙に色っぽいのが気になった」と書かれているように、これは男を誘う顔である。父親が自制を失うのも致仕方ないのではなかろうか。

 やはり同じレビュアーが「この映画を見て変な気分になる変態男どもがぜったいいると思うから、こういう映画を作る人々は変態を煽情しないように気をつけるべし」と書いているけれども、いや本当にその通りですという感じ。勃ったし、実際

 この映画を作った奴、耳の穴をかっぽじってよく聞け。俺はパパの味方だ。あんなセクスィーな娘をどこの馬の骨とも知れないヒス女にさらわれた挙げ句、性犯罪者のレッテルを貼られて最後はライオンの餌になっちゃうなんて、お兄さんコレ見てて涙が止まらなかったぞ。次はパパが地獄から甦って、のうのうと幸せに暮らすヒス女ジョイをなぶり殺して愛娘を取り戻すスプラッタームービーを製作しやがれ。それがパパへのせめてもの供養だ。あと、ダイナちゃんはパパを辱めた罰として裸踊りの刑な。

 映画は娯楽である。だがそれは、作り手が楽しんで終わりというわけではない。見る者を笑わせたり泣かせたり、悲しませたり考えさせたり、そういうものをすべて網羅してこその娯楽だ。この映画と似たテーマを暗喩として扱ったであろう『エイリアン2』は、実際にすごい映画だった。女は強く、少女は健気に、男は潔く、敵はあくまでも狡猾で、そして最後は観客そろってスタンディングオベーションを送りたくなる、娯楽映画の大傑作だ。『青い目撃者』という映画は、そういう意味でエイリアンのエの字にも及ばない。どこかで拾ったアイディアにどこかで見た物語を継ぎ接ぎして、ちょっと色気のある俳優を起用しただけの「いいお話」に過ぎない

 私はダコタ・ファニング主演の映画が嫌いだ。製作サイドがどう思っているのか知らないが、あれはダコタのプロモーションビデオである。映画じゃない。彼女が主演したタイトルはことごとく「ふぅん、それで?」と言いたくなる凡作の連続で、そうこうしている間にダコタちゃんはティーンに……

 宝の持ち腐れとはこのことで、どんなにいい俳優へ恵まれようと、どんなに贅沢なバジェットが組まれようと、駄作になるべくして作られた映画は駄作と化し、20年に1度のロリータ子役はロリ系AVのインチキ女優みたいに萎びてしまうのである。これは業界の悲劇ではなかろうか。相応の人材を相応の作品へ投入できる体制を、米映画界は今一度確立すべきではないだろうか。

 この映画、正直なところを言うと、作品としては残念な出来だ。だがビッチ顔幼女のあんな姿やこんな姿を見たいという鬼畜の向きには、まあお薦めできないこともない。劇中で事件解決のキーとなる「ポラロイド写真の束」も、フェイクとは思えない出色のクオリティである。この作品で褒められる部分といえば、そこぐらいしかないのだが。

 ただしその写真に関しても、ダイナちゃんが笑顔で写っていればなおリアルだった、と付記しておく。誤解を恐れずに言えば、悲劇の当事者は笑っているものだ。それが子供であれば尚更である。そして、実際にそういうポルノグラフィーがここ数十年の欧米の主流であることも、重ねて留意されたい。



  原題 “In Quiet Night”
  1998年 アメリカ映画
  ジョニー・ボーエン監督・脚本

『生存者』

Posted by AK on 27.2007 映画   0 comments   0 trackback
9.11の前後で米国社会はどう変わった?
…などと考えさせられない、まっすぐな娯楽小品


 ジョディ・フォスターの『フライト・プラン』を見ていて、ひとつ感心した部分がある。9.11同時多発テロ以降、米連邦航空法が改正され、乗客名簿と実際の搭乗者の数が合わなければ最寄りの空港へ緊急着陸しなければならなくなったというのだ。もちろん、劇中では乗客名簿そのものが改竄され、狭い機内で愛娘を探すジョディはキチガイ扱いされるわけなのだが。

 クーンツ原作のTV映画『生存者』は、凄惨な航空機事故で妻と娘を失った男が米政府の陰謀へ立ち向かうSFサスペンスだ。作品の冒頭、順調にフライトしていたはずのネーションワイド353便が原因不明の航路逸脱を起こして山中へ墜落、乗客乗員330名は全員死亡する。その中には主人公ジョー・カーペンターの妻子も含まれていたのだが、事故からしばらく経ったある日、彼は墓地でローズという女性に遭遇する。彼女こそ、353便の搭乗客の1人であり、事故で死亡したはずの人物だった。

 ジョーは大いに混乱する。「死は終わりじゃない」という彼女の言葉、事故の裏に見え隠れする謎の組織の影……。ローズが本当に事故の生存者であるなら、妻と娘もどこかで生きているかもしれない。ジョーは自分の仮説へ半信半疑になりながらも、単身事故調査へ乗り出す。

 353便の犠牲者遺族の元を点々とするジョー。しかし、彼の赴く先々で遺族らが不審死を遂げ、物語はいよいよ陰謀臭に満ち溢れ始める。彼はついに、当時の事故処理において現場指揮を執った元NTSB(米国家運輸安全委員会)調査官バーバラを訪ねるが……。

 とまあ、今どき懐かしい感じがする真っ当なSFサスペンス映画。今にもデイビッド・ドゥカブニーが現れて「スカリー、こいつはただの事故じゃない」などと口走りそうだ。が、そこは低予算B級TV映画の真骨頂、『生存者』の主人公は一介の雑誌記者である。それも妻子を亡くして以来ふさぎ込み、職場に1年近く顔を出していない鬱モード全開の内向き中年。これでクビにならないところがアメリカだなあ。あまり知られていないことだが、あの国で「正社員」というシステムは決して主流ではない。

 TV映画ということで、劇中何度か場面が暗転し、同じシーンが繰り返されることがある。おそらくここにCMを入れていたのだろう。「映画は最初から最後までひと息で見せやがれ」という通な方には向かない作品だ。内容のほうも、決してつまらなくはないが特に面白い部類でもなく、ふうんこういう映画ね、という感じ。おまけにちょっと宗教がかっていて、人によっては気持ち悪い映画と感じるかもしれない。

 ただ、キャストが無駄に豪華で、脇を固める子役陣もなかなかの逸材であるため、その旨エントリーを割いて紹介させていただこう。

 この映画に登場する少女は2人いる。ひとりは353便墜落で死亡したニーナ・カーペンター。主人公ジョーの娘だ。もうひとりは、政府の研究所で超能力研究のサンプルとして育てられた、暗号名「21-21」という少女。2人とも6歳で、少女というより幼女である。

 さて、エンドクレジットを見て驚いたのだが、ジョーの愛娘を演じた少女の名はジョデル・フェルランドという。そう、『ローズ・イン・タイドランド』でヒロインのジェライザ=ローズを演じ、各方面において波紋を呼んだ、あのジョデル・フェルランドだ。幼少から様々なメディアで活躍していたとは聞いているが、まさかこんなマイナー作品にまで顔を出していたとは。

 いや、主人公の娘役なのだから、顔出しという程度の話ではない。これは立派な芸歴だろう。私が『生存者』というタイトルを手に取ったのはまったくの気まぐれであり、この映画にジョデルが出ているなど、1本だけ伸びた冬場の鼻毛ぐらいに知る由がなかった。これはもうロリータの神様に感謝せねばなるまい。ちなみにこの作品でのジョデルは幼児全開、歳相応の可愛らしい女の子である。後にあんな役やこんな役をやることになるなどと誰が予想しただろう。

 その幼ジョデルと並んでお絵描きする格好がとてもラブリーな女の子、超能力少女21-21がこれまた凄い。何が凄いって、まずテトリスの腕前が神級だということ。次に、この手の白人幼女にしては珍しい垂れ目の持ち主であり、ぷくぷくホッペと一緒にぎゅっと抱き締めて高い高いをしてやりたい衝動に駆られる通好み美幼女という点。

 そして何よりも表情が素晴らしい。無口で感情を表に出さないというオタク臭い設定のおかげで、劇中では始終ぶすっと仏頂面なのだが、物語の重要な場面で時折見せる笑顔が100万ドルのスマイルって感じですんごくキャワユイのである。

 特に、映画の終盤で酒場のオヤジ相手にある能力を発揮したときなど、実時間にして1、2秒にも拘らず、私の中では数時間にも感じられる奇跡みたいな笑顔を見せてくれた。さながら、この映画はこの瞬間のために撮られたといっても過言ではない、そのぐらい神々しい笑顔。あれが素なのか演技なのかは分からないが、演技だとすればダコタ・ファニングなど敵にならないレベルである。この子を後の大作映画へ起用しなかった欧米の能無しプロデューサー共は全員、鉛のオスカーで順繰りにぶん殴られた上でさっくりと首を括るべきだ。

 というのも、21-21を演じたレイチェル・ヴィクトリアちゃんは、その後の女優活動の音沙汰がまったくなく、ジョデルと同期であることを考えれば今が旬真っ盛りであるはずなのだ。ちょっとだけ大きくなった垂れ目美少女レイチェルちゃん……。惜しい。本当に惜しい。世界はまた1人、貴重な逸材を逃したのである。これを教訓とし、欧米各国は子役専科の高級エージェンシーを設置すべきであろう。そのためには私自身も、資金面以外での協力を惜しまない所存だ。

 何? 「垂れ目美少女」が「割れ目美少女」に見えた? 眼科に行ってください



  原題 “Sole Survivor”
  2000年 カナダ映画
  マイケル・ソロモン監督
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