君はチラリ

メディアの中の少女たち。
ヒロインからエキストラまで。

君はチラリ

メディアの中の少女たち。
ヒロインからエキストラまで。

君はチラリ

メディアの中の少女たち。
ヒロインからエキストラまで。

スポンサーサイト

Posted by AK on --.-- スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

シュヴァンクマイエルの『アリス』

Posted by AK on 23.2007 映画   6 comments   0 trackback
Tag :シュヴァンクマイエル アリス Alice クレイアニメ 小児性愛
幼年期に「終り」はない!
スメタナの祖国が生んだ地上最強の少女映画


 昔、繰り返し読んでいた童話がある。ハンス・クリスチャン・アンデルセン作『眠りの精のオーレ・ルゲイエ』。図鑑ほどのサイズもあるアンデルセン全集で、私はこの話ばかりを読んでいた。

 中国の女性とチャットをしたとき、子供の頃にいちばん印象深かった本は何か、という話になり、私はアンデルセンの名を挙げた。「へえ、偶然。私もなの」と彼女は言い、好きな場面やエピソードを矢継ぎ早に畳み掛けてきた。私は内心焦った。いちばん印象深いのは間違いないが、憶えている話といえば「オーレ・ルゲイエ」だけなのだ。

 殴れば人も殺せそうな童話全集の中で「オーレ・ルゲイエ」だけを何度も読み、逆にそれ以外の話は鼻歌雑じりで斜めに眺めただけ。『赤い靴』の主人公が何色の靴を履いていたかも憶えていない有様だ。彼女は『人魚姫』がお気に入りだと言ったが、はてそのお姫様が魔女にもらったものは手か足か。いや、髪の毛だったかな?

 「オーレ・ルゲイエ」は夢の物語だ。オーレは北欧の伝承に登場する睡魔の一種で、彼の持つ魔法のミルクを瞳に受けた子供はたちまち深い眠りに落ちる。物語では、7晩の夢の冒険をする少年が登場し、絵画の中の泉からオモチャの兵隊の結婚式まで様々な場所を探訪した。子供にとって、もっとも身近でアクセスしやすい非現実は夢である。ディズニーアニメのように、魔法の粉に包まれて異世界を冒険するといった趣ではなく、あくまでも「身近」なファンタジーとして夢は有効的だ。

 子供の世界と夢は親和性が高い。この手の物語が古来から独特の魅力を放ってきたのも、夢が単純な非現実ではなく、それが紛れもない現実の一部だったからであろう。たとえば空を飛ぶ夢にしても、一足飛びで深宇宙の彼方へジャンプできるというものではなく、電柱の高さ以上は浮遊できないとか、何か道具を使わなければ飛行できないとか、理不尽な制約があるのも夢の魅力である。

 近年もっとも成功を収めた夢の物語といえば『不思議の国のアリス』であり、そのパロディという断り書きがありながら類例を遥かに引き離すクオリティを見せた実写映画が、チェコのヤン・シュヴァンクマイエル監督による『アリス』である。本場英国でさえ「アリスの実写化」には微妙な作品が多い中、自らの幼児体験を下地に複雑怪奇で幻想的なワンダーランドを構築してみせたシュヴァンクマイエルは、童話フリークやシュルレアリストに感嘆と称賛の嵐をもって迎えられた。

 シュヴァンクマイエルの『アリス』は、ルイス・キャロルこと数学講師チャールズ・ドジソンによる童話『不思議の国アリス』を念頭に置いてはいるものの、その完全な実写映画化作品ではない。冒頭で“Inspired by Lewis Carroll's Alice In Wonderland”とクレジットされているように、あくまでもパクリ、じゃなくてインスパイア作品であるとのことだ。オマージュとかリスペクトとか、ああいう感じである。飲ま飲まイエイである。

 シュヴァンクマイエルは、この映画を自らのプライベートフィルムと位置づけている。3年の歳月を経て作り上げられた彼の「アリス」は、彼自身の幼年期の暗喩なのだそうだ。シュヴァンクマイエルへのインタビューを掲載した『アリス』のライナーノーツが手元にあるが、彼はその中でこう述べていた。

 「私は未だかつて自分の幼年期を、何かもう既に過ぎ去ったもの、何処かに置き去りにして来たものとして見たことは一度もありません」

 彼の「アリス」は冒頭、英国流のポップでカラフルな子供部屋とはかけ離れた、虫の死骸や壊れた人形が転がる薄暗い部屋に横たわっている。ふと隅に目をやると、そこにはガラスケースに収められた白兎の剥製が。兎は自らの意思で動き出し、釘で固定された両腕を引き抜いて騎士の装いを身に纏う。彼は鋼鉄の裁ちばさみを携え、岩と土くれが漠々と広がる荒野へ駆け出すのだ。彼を追って飛び出すアリスは、緩やかな丘の上に1脚の机を見つけ、その引き出しから遥かな地下の国へ迷い込む。

 インスパイアということで、細部に渡って「原作」からのアレンジが加えられている点もこの映画の魅力だ。アリスが不思議の国へ向かう直接の入り口である「兎の穴」は、本作では歪な木製エレベータへと変更されている。巨大な歯車で緩やかに下降するそれは正面の壁が抜けており、階層ごとに並ぶ棚には様々な物が並んでいる。ジェニー・ハーニバス(合成標本)や瓶詰めの画鋲、捨てられた人形など。

 エレベータは加速する。「Exit」と書かれた階層を過ぎたあたりでアリスは床を突き破り、直下の部屋へと投げ出される。このエレベータはシンドラー社製に違いない。ここから、アリスにとって文字通りの悪夢が始まるのだ。この映画が一部の層から「少女いじめ」と反発を買う原因も、ひとえにシュヴァンクマイエルの子供じみた――それ故にリアルな――ガジェットへの偏愛がある。壊れかけていたり、理不尽な改造を施されていたり……。それに付き合わされるアリスは堪ったものではない

 この映画でアリス役を演じるのは、クリスティーナ・コホウトヴァーという女の子だ。いつ、どこで生まれたのか判然とせず、ネットを適当に探してみてもバイオグラフィーらしきものは見当たらない。ただ、見た感じは7、8歳ぐらいで、ふんわりとした金髪に大きなグリーンの瞳が特徴的な、恐ろしく可愛い子だ。まさしくそれは、絵に描いたような金髪幼女であり、近代映画史上5本の指に入る美少女子役と言って過言ではない。

 この150年で数多のジャンルにおいて試みられた「実写アリス」のどれをも凌駕する、クリスティーナ・コホウトヴァー演じる「アリス」。演技過剰で妙に大人びていたり、どんな困難にぶち当たっても頭の弱い子みたいに終始ニコニコ笑っていたり、そういうハリウッド的な不自然さがまったく見られない。劇中はほとんど仏頂面で、演技もまったく素に近い状態である。フナムシの缶詰に本気で驚いていたり、固い引き出しを無理矢理こじ開けようと必死の形相を見せたり、とにかく「素顔のアリス」が文句なしに素晴らしい。

 シュヴァンクマイエルはアップを多用する監督としても知られている。季刊コミッカーズ2001年秋号のインタビュー記事において彼は、「私にとって全体は静的なもの、細部は動的なもの」と述べており、物や人の動きを直接的に見せる手段としてアップを使っていることが分かる。

 ともあれ、劇中においてクリスティーナ・コホウトヴァーちゃんのドアップが度々映し出されるものだから、変態には堪らない映画だ。それこそ耳の穴から足の指先に至るまで、およそクローズアップされない部分はない。(ある種の人にとって)妙齢の金髪幼女を全方位から、あらゆる部位をズームするシュヴァンクマイエルのカメラは、もはや静と動のバランス云々というよりも、凝視のそれに近い病的なフレームワークである。

 また、パンチラどころかパンモロがあったり、スカートが胸の辺りまでたくし上げられていろんな部分が丸出しになったり、凝視というか窃視の方面でも十二分に満たされることうけあいである。もっとも、これらは狙って撮られた絵ではなく、単純に構図の問題や撮影中のハプニングなのであるが、そこがまた素敵。エコールとかいう退屈な映画を撮った誰かさんにはぜひとも見習っていただきたいものだ。後ろめたいエロスを排したノスタルジーなど、どこにもありはしない

 ある方面では、この作品をして「ロリコンの好みじゃないと思う。グロいし、暗いし」などと囁かれているのだが、とんでもない話だ。変態を舐めてもらっちゃ困る。たしかに、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールちゃんは俺の嫁、などとのたまう2次元専科のエセ変態には辛い作品かもしれないが、我が国古来の稚児趣味の正統な継承者である現代ロリコンにとっては、文字通り「夢のような」映画なのだ。

 幼年期は忘れるものでこそあれ、失うものではない。谷の底に落として永遠に取り戻せない時間ではなく、部屋のどこかに仕舞い込んでその在り処を忘れてしまった記憶のひとつに過ぎない。これに因れば、小児性愛とは、物覚えが悪い懐古主義者の極論であるとも言える。

 観念の話はしていない。多くの小児性愛者にとって、彼らの幼年期は美化されている。実際の生活が幸福であったか不幸であったかに拘らず、義務や責任といった社会性から遠く離れた場所で社会の庇護を受けるという矛盾した存在の「子供」を、彼らは信仰の対象としている。Wikipedia日本版には「子供に性的夢想を抱く人間」と表現されているが、言い得て妙といったところだろう。

 「子供というのは、教育者的立場よりむしろ小児性愛者の観点からの方がよりよく理解出来る」とは、ルイス・キャロルを指して言ったシュヴァンクマイエル自身の言。彼もまた、この言に則って「子供の世界」を再現せしめたアーティストのひとりなのだろうか。私見によると、小児性愛者とは子供になろうとする者のことである。

 『アリス』は、ヤン・シュヴァンクマイエル監督の長編デビュー作だ。それまでショートフィルムばかり撮っていたシュヴァンクマイエルが満を持してベルリン映画祭へ出品した本作は、第1作とは思えないほど冷静な作りであり、この手のクレイアニメを初見の人にも概ね評判がいい。2000年に発売された最初のDVDは長らく廃盤となっていたが、最近トールケースで再版されている。アート映画だからと身構えず、紅茶にクッキーなど頂きながら深夜にダラダラと見るのがお勧めだ。



  原題 “Něco z Alenky”
  1987年 スイス・西独・英国合作
  ヤン・シュヴァンクマイエル監督
スポンサーサイト

『わたしを離さないで』

Posted by AK on 09.2007 小説   1 comments   0 trackback
Tag :カズオ・イシグロ わたしを離さないで
慈愛と哀しみに満ちた、もうひとつの世紀末
彼女の思い出は誰かの人生となりうるか?


 子供の頃、歩いて4、5分の近所に友達がいた。用もないのに互いの家を行き来し、自転車で連れ立っては近くの動物園でソフトクリームを食べ、「学研の科学」の付録を一緒に組み立てる。そういう友達だ。

 随分近くにあるのに何年も歩いていない道、というものが誰にでもあると思う。今の私にしてみれば、友人の家はそんな場所の一角にあり、先日気まぐれにその道を歩いてみた。憶えている限り十数年ぶりだ。歩こうと思えばいつでも歩けるのに、私はそうしなかった。その場所に格別嫌な思い出があるとか、放し飼いの猛犬が道を塞いでいるとか、そういうわけではない。私の家は坂の上にあるが、友人の家はさらに急な坂道を登った場所にあった。要するに面倒くさかったのだ。

 友人とは、彼が遠方の寮制学校へ進学して以来会っていない。携帯電話なんかが普及する前のことだから、今となっては彼がどこで何をやっているのかも知らない。彼の家族とも、彼が単身遠くへ行ってからなんとなく疎遠になり、これまた十数年会っていない。親交のあった2つの家族が、ある時期を境に赤の他人になったと言えば分かりやすいかもしれない。

 久しぶりに友人の家を訪ねた私は、暫し面を食らう。そこは当時の面影を残したまま、無人の廃屋と化していた。窓という窓がブルーシートで覆われ、壁は所どころ崩れており、猫の仔1匹住んでいる気配がない(昔は3匹の猫が飼われていた)。いつからこの様なのか。そういえば、数年前の冬に遠目で玄関付近を眺めたところ、階段の積雪がそのまま残されていて、そのときすでに人が出入りしている気配はなかった。

 廃屋の前に立って周りを眺めているうち、だんだんと奇妙な気分になる。長い旅行から帰って馴染みの公園に行き、砂場で数日前の自分の足跡を発見した子供のような気分。自分が去ってからというもの、誰にも省みられることがなかった場所。なまじ新しい住人がいなかっただけに、そういう思いは一層強くなる。昔の写真を眺めるよりも、当時の記憶が鮮烈に蘇る

 連休明けの職場で自分の机がなくなっていようが、納めたはずの国民年金が給付されまいが、自分という人間はたしかに存在している。出会いや別れ、獲得と喪失を繰り返し、幸も不幸も経験してその存在は確固たるものとなる。社会的な価値や理由は、そうした現実存在(実存)を修飾するための方便に過ぎない――これを哲学の方面で「実存は本質に先立つ」などと言う。目に見える自分を認めてそれを活かせ、人間は魂(本質)の容れ物ではない、というわけだ。

 無神論などでしばしば用いられる概念であるが、これをテーマとした文芸作品で近年もっとも重要なタイトルといえば、英国人作家カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』ではないだろうか。SF的な舞台設定にも拘らず過度なドラマは避け、ある女性の回想という形を取って展開されるその物語世界には、不思議と宗教的な「安らぎ」が通底している。

 神の慈愛と実存主義、相容れないはずの両者が同じ根から出た2本の枝葉のように寄り添って見える理由は、何も彼がブッカー賞受賞にかこつけて女王陛下に見初められたというわけではあるまい。また、女性の回想文という設定から来るフェミニンな「安らぎ」でもないようだ。その原因は、彼が作り出した物語世界そのものにあると私はみている。

 1990年代末のイギリス。31歳のキャシー・Hは「提供者」と呼ばれる特殊な人々の介護に携わっている。彼女はこの道11年のキャリアであるが、その役目もあと数ヶ月で終えようというところだ。退職間際の彼女が思い起こすのは、かつて自分がいた「ヘールシャム」と、そこで共に育った仲間たちのこと。美術教育に特化したその不可思議な養育施設で、彼女は親代わりの「保護官」たちに見守られながら子供時代を過ごしている。

 このように、物語の導入では「ヘールシャム」で過ごしたキャシーの少女時代が描かれる。いわゆる寄宿舎物と言っていいかもしれない。「ヘールシャム」には肉親を欠いた――社会的な意味ではなく、生理的に――特殊な子供たちが集められ、それはある種の施策に則って運用されている。彼らは規則的な寮生活を送り、決められたテリトリーから出ることを許されていない。また、部外者が「ヘールシャム」に入ることもタブーだ。

 唯一の例外として、「マダム」と呼ばれる謎の女性が年に数度「ヘールシャム」を出入りし、生徒たちが授業で作り上げた美術品の数々を持ち去っていく。マダムのめがねに適うことは、生徒たちにとって大変な名誉らしい。彼らは、持ち去られた作品群が「マダムの展示館」に整然と並べられる、と信じている。

 やがて小説は、何かをひた隠す「保護官」たちの不穏な言動や、「ヘールシャム」出身者を色目で眺める他施設の若者たちへとフォーカスし、英国が、あるいはこの世界全体が見ないふりをしてきた理不尽な真実へと突き当たる。「提供者」とは何か? 孤児たちの間で都市伝説のように語り継がれる「ヘールシャム」出身者だけの特権とは? 子供たちの美術品を収集していたマダムの真意は?

 イシグロがこの小説へ着想したのは、今から17年も前だそうだ。その頃は、核兵器で短い生涯を終える英国の若者たちを描いた、ある種の終末物として構想されていたらしい。しかし、1997年に現実のニュースとして取り沙汰され、バチカンが非難声明まで出したある事件によって、今日我々が見る長編小説『わたしを離さないで』が誕生したのだという。このあたりの経緯は去年の読売新聞に掲載されたインタビュー記事に詳しい。

 まがりなりにもハードコアな文学者として知られるイシグロがサイエンス・フィクション的な舞台設定を行ったのは、この作品に対する数多の書評で伝家の宝刀のように振りかざされる「科学万能主義への警鐘」や、「人類の未来を憂慮」した結果ではあるまい。それにしては話題の中心が個人の言動へ偏りすぎてしまっている(というか、そういう書評を出す連中は本当にこの小説を読んだのかと小一時間問いたい)。

 とどのつまり、そういうキャッチーな舞台設定の真意は、誰の目にも荒唐無稽な世界観を、身分も境遇も異なる読み手1人ひとりの生活のメタファーとして機能させたかったというところだろう。スリップストリームと呼ばれるオーバージャンルな作品ではよくある手法だ。事実、上記のインタビュー記事でイシグロは、これらの世界観がさして重要ではなく、そこから連想されるであろう映画的なムードやアクションも意図的に排したと断じている。不必要とまでは言わないが、カルチャー雑誌の誌面を割いてオタク的に深読みするほどの背景ではない。

 その代わりに読み手を圧倒するのは、主人公キャシーが回想する子供時代の小話の数々である。モデルの存在を意識せざるを得ないほど緻密に、しかし叙情的に書かれたそれは、数珠のように紡ぎ上げられた苦楽のひと粒ひと粒であり、Hという暗号姓を持つ1人の女性の壮絶な人生を彩るピースである。

 そして、この小説を一読した私が抱いた感慨――神性と実存の相似形――の正体は、この物語が主人公キャシー・Hの回想ということ以上に、彼女が死にゆく「提供者」の1人へ語り聞かせた「噺」だということだ。『異邦人』の真の主人公はムルソーの裁判で彼の半生を目撃した新聞記者、という説があるように、『わたしを離さないで』の一人称は実はキャシーではなく、彼女の思い出話を根掘り葉掘り聞き、それを自分のものにしようとした瀕死の「提供者」ではないのか。ちょうど、神父にキリストの復活を説かれてリラックスする死刑囚のように。

 物語の冒頭でキャシーに介護されている名もなき「提供者」は、彼女のような恵まれた出身ではない。国営の粗末な「ホーム」で育ち、思い出らしい思い出など何ひとつないまま自らの「使命」へ邁進した彼は、その生涯を終えようという間際に怖気づく。死の恐怖ではない。幸も不幸もなく、無味乾燥な人生を送った自らの魂に対する空虚感だ。同じ「使命」を持ちながら、大多数の英国民がそうであるような黄金の幼年期を過ごしたキャシーに対し、彼は羨望よりシビアな渇望を露にして、彼女の思い出話へ聞き耽る。天国への階段を昇るには豊かな魂が要る、とでも言わんばかりに。



 「人の一生は私たちが思っているよりずっと短く、限られた短い時間の中で愛や友情について学ばなければならない。いつ終わるかも知れない時間の中でいかに経験するか。このテーマは、私の小説の根幹に一貫して流れています」

  ――カズオ・イシグロ 2006年6月12日、読売新聞のインタビューで



 尚、『わたしを離さないで』という題名は、作中に登場する歌の名前でもある。「ヘールシャム」のリサイクルバザーで買ったカセットテープに収録されているこの曲を、幼いキャシーは体を揺らしながら何度も聴く。彼女は、「……オー、ベイビー、ネバー・レット・ミー・ゴー、わたしを離さないで……」とリフレインするこの歌に、ある光景を重ねているのだ。

 それは、字面から想像できるような、恋人同士のくんずほぐれつなどという話ではなく、まだ見ぬ肉親の幻影でもない。あるものを生来の「使命」と引き換えに喪失している幼い少女が夢見た、キュートで物悲しいビジョンなのである。



  原題 “Never Let Me Go”
  2006年 早川書房
  カズオ・イシグロ 著

『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』

Posted by AK on 26.2007 ゲーム   0 comments   0 trackback
Tag :ドラゴンクエストV ドラゴンクエスト5 会話システム
RPGの常識を塗り替えた大河ストーリー
息子よ、孫よ、俺の屍を越えてゆけ!


 CIAとFBIの違いはXファイルで覚えた。型の違う血液を混ぜると固まることを手塚治虫の漫画で読み、呼吸を整えると健康に良いことはジョジョの奇妙な冒険で知った。石鹸が回りくどい工業製品であることをファイト・クラブで、マクドナルドの店員に未来がないことをダグラス・クープランドの小説で学んだ。

 私はギャンブルをやらない。パチスロは誘われても断るし、麻雀はルールすら知らず、宝くじにも国民年金にも興味がない。なぜなら、それらが徒労であることをドラゴンクエストで学んだからだ

 1990年発売の『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』には致命的なバグがあった。カジノでコインを買うときに「838861」と指定すれば、タダみたいな金額で同枚数を購入できた上、ルール通りに各種の貴重なアイテムと交換できるというものだ。

 Wikipediaによると、24ビット整数のオーバーフロー現象などという暗号みたいな理由が書かれているが、要するにプログラム上のバグだろう(当時私は製作サイドが設定した裏技だと思っていた)。小学生のときに買ったドラクエIV公式ガイドブックの裏表紙には、赤ボールペンで当時自分が書いたであろう「838861まい」という字が消えずに残っている。

 さて、続編の『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』である。当時の最新鋭ゲームハード「スーパーファミコン」で発売されたこのタイトルには、気がかりなことがひとつあった。ずばり「カジノであの裏技は使えるか?」……。常識的に考えて、他ハード且つ他タイトルで環境依存の裏技が使えるわけがないのだが、当時私は子供だったし、なんとなく「使えるかもしれない」などと期待していた。

 結局、旧ハードで出た前タイトルの裏技など使えるはずもなく、コイン売り場のお姉ちゃんに「お金が足りませんわ」などとカードを忘れた成金オヤジみたいなことを言われて愕然とした記憶がある。一度カジノを出て教会でセーブし、「鋼鉄の剣」を買うお金でコインを購入しスライムレースなどやってみたけれど、当たる当たらないということ以前に「カジノ、つまんねえ」と勝手なことを呟いた上、リセットして本筋に専念した。要するに、イカサマができないギャンブルは私に向いていなかったのだ

 さて、最近その『V』がプレイステーション2でリメイク発売された。このブログのアカウントに懸けて誓うが、ドラクエファンでリメイクVをやっていない人間は人生の8割9分6厘を損している、と断言したい。カジノの裏技云々ということではなく、純粋に面白いのだ。

 旧作のリメイクというと、どうしても「見てくれは良くなったけど中身は変わらん、むしろ余計な調整が入ってつまんねえ。ネクロゴンドの洞窟はマヒ攻撃で全滅するのが醍醐味じゃねえか」などと、古参ゲーマーという名の懐古オヤジが文句タラタラ言い出すのが定石であるが、PS2版ドラクエVに関してそういうネガティブな評価はほとんど聞かない。

 スーファミ版でいちばんの不満点だったであろう3人パーティ制限も撤廃され、いつものドラクエよろしく4人戦闘が可能になっている。ただしその分モンスターの同時出現数が増え、序盤の攻略で苦しくなる場面もあろうが、それこそが本来のドラクエと割り切れば何ということはない。廃城探検の前にブーメラン(全体攻撃武器)を買う甲斐性ぐらいなくては、このゲームはとてもやっていけないだろう。

 また、サウンドトラックがフルオーケストラに変更されており、旧ハードのピコピコ音では表現し切れなかったすぎやまこういちサウンドが前面に出ているのも嬉しい改良点だ。音源の大半はNHK交響楽団演奏の『交響組曲 ドラゴンクエストV』からのもので、同盤に未収録の音源は他オケによる新規収録やシンセサイザー演奏などによって補われている。

 そして、それらの改良点が霞むぐらい素晴らしいのが「会話システム」の導入だ。これは『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』で初めて組み込まれたシステムで、「話す」コマンドを空打ちすることによりパーティ内の仲間が場面に応じた台詞を喋るというもの。正直な話、『VII』やリメイク『IV』に導入された段階では蛇足に思えた会話システムであるが、このPS2版ドラクエVにおいては、物語へのめり込むために必要不可欠なものへと昇華されている。

 今回の会話システムは、台詞のレパートリーが尋常じゃない。全部集めれば別のゲームのシナリオが1本書けてしまうのではないかと思うほど、各場面に応じた多種多様な台詞が用意されている。それはたとえば、町民Aの「西の海から禍々しい空気が感じられます」という話を聞いた直後、それに応じて「わたしも感じるの……くやしい……ビクンビクン」と仲間が喋りだすという具合。これまでのような、「新しい町」「新しいイベント」レベルではなく、町人1人ひとりに応じたリアクションまでもが楽しめるという、何人のプログラマを過労死させたか分からない凄まじいシステムに生まれ変わっている。

 上記を踏まえた上で、今一度ドラゴンクエストVの基本へ立ち返ってみよう。このゲームは親子孫3代に渡る壮大な物語で、プレイヤーの分身たる主人公もシナリオに即して少年から青年へと成長を遂げる。そして、冒険のパートナーも各段階に応じて変遷する仕組みだ。

 ここで話題に挙げたいのが2人の女の子である。物語で終始重要な役割を果たすビアンカの幼少期と、それに物語後半で仲間に加わる主人公の娘だ。序盤のビッグイベントであろう「レヌール城のお化け退治」では、いばらのムチを持った金髪幼女ビアンカと2人っきりで夜の大冒険をするという、これは何のメタファーだと叫びたくなるような通好みのシチュエーションを満喫できる。戦闘画面でビシバシと打ち鳴らされる幼女のムチ……。これはモンスターのほうも魔物冥利に尽きるといった感じではなかろうか。ちなみにビアンカちゃんの初期装備はナイフである。このままでは刃傷沙汰まっしぐらなので、必ずムチを買うこと。お店で

 そして物語の後半においては、成長した主人公が双子を授かる。男の子と女の子。ある事情で生まれてから8年間ずっと会えなかった我が子を「僕が君たちのパパだよ」と認知し、晴れて冒険の伴侶とする様は、ネグレクトで引き裂かれた親子の絆が今一度固く結ばれるようで何とも感動的である。

 このパーティには主人公のお嫁さんも加わるため、さながら世の巨悪へ立ち向かう武闘派一家という風情だ。頑張って双子を育て始めたのに自治体からは補助金のホの字も出ねえ、こうなったら全面戦争だ! よーしてめえら、いろいろあったがこれからは共闘するぞ! 手始めに隣町で得物を調達だ! かくして血の気が多い一家は下僕(仲間モンスター)を引き連れ、身内(囚われのお婆ちゃん)の釈放ついでに厚生労働省ならぬ魔界へ殴り込みをかけるのである。

 この、物語後半でパーティに加わる女の子が非常に可愛い。当節の流行語で言うところの萌えである。スーファミ版においては再会場面でちょろっと会話をする程度で、どことなく空気メンバー扱いだった主人公ジュニアであるが、今回は凄い。前述の会話システムのお陰で子供たちのキャラクターが非常に立っており、ロリコン(とショタコン)のチンコも勃ちっぱなしだ。

 たとえば、女の子のほうは夜に弱いらしく、とっぷりと日も暮れた街を親子で散策していると「…………ぐう。……え、なんですか……? ちゃんと起きてます……」などと半死半生の状態である。

 (*´ω`*) ←その台詞を見たときの私。

 何? この子は父親に敬語を使うのかって? その通りである。何せ8歳で父親の顔を初めて見たのだ。ちょっとぐらいぎこちなくて当然だろう。というか、むしろそれがいい。「わたしお父さんとうまく話せるかな、とりあえず丁寧にお話してみようかなドキドキ」などという、背景に点描でも浮いてそうなシチュエーションが堪らなく素晴らしいのである。

 カジノに連れて行けば「さっきね? 泣いてるおじさんがいたの……。お父さんは泣かないでね」と嬉しい気遣い。ストリップショーを見せれば「あんなお洋服で…。みんな見てるのに、はずかしくないの?」とムフフなリアクション。それが作戦なのだ娘よ(ガンガンいこうぜ)。お姫様役の舞台役者と話せば「わたしお姫さまだけど、あんなドレス着たことないです」などと、泣けることを言う。よーしパパ、お手伝いさんに子供用ドレス作らせちゃうぞー。

 他にも、某所某イベントの直後に飛び出す「おにいちゃんのお嫁さん」発言や、踊り子のお姉さんの真似をして「今日はどうもお化粧の乗りが悪いわぁ。…なんでもないです。ちょっと言ってみたかっただけ……」と言う場面は、過酷な戦いの日々における一服の清涼剤と言っても過言ではない。

 ちなみにこの子たちは、父親へ再会するまでにちょっとした旅を経験している。ストーリー上割愛されているが、これはもうスクウェア・エニックスが『ドラゴンクエストV外伝 パパをたずねて三千里』を出すしかないのではないか。ちょうど男の子と女の子が揃っているから、性別セレクトもできて実にドラクエらしい。

 物語の出だしは『IV』の「おてんば姫の冒険」的に、何年も蒸発中の父親へしびれを切らした双子が「お父さんを探しに行く!」と家出。従者のサンチョが飛び出し「私めもお伴いたしますぞ!」とかなんとか言って3人パーティを結成する。父親にかけられた呪いを解く魔法の杖を求めて、いざ冒険の旅へ。意表を突いてアクションRPGなんかにすればかなりイケるのではないか。

 と思ったら、スピンオフの漫画でそういう作品がすでにあるらしい。調べてみたら11巻もある。どれ、久々にビーケーワンで全巻漢買いするか……。



  『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』 (PlayStation2)
  2004年 マトリックス/アルテピアッツァ
  スクウェア・エニックス発売

憂国少女ヘザー・マーティン

Posted by AK on 19.2007 WEB   0 comments   0 trackback
Tag :ヘザー・マーティン Heather Martin イラク戦争 米軍
「おにいちゃんに会いたいよぅ…」
金髪幼女の涙の訴えに、全米のお兄ちゃんたちがK.O.


 今、ヘザー・マーティンちゃんという6歳の女の子が、アメリカでちょっとした有名人らしい。

 イラク戦争に従軍した20歳の叔父へのラブソングを熱唱する姿が動画投稿サイトYouTubeにアップされ、おいおいなんだこのカワイコちゃんは、幼児を政治キャンペーンに使うほどリベラルは落ちぶれたのか、などと各方面で波紋を呼んでいる。



Heather Martin - When Are You Coming Home - by Bye2luv




 百聞は一見にしかず。上は最も有名な動画で、現時点で200万PVを超えている。「いつになったら帰ってきてくれるの? 戦争なんてすぐ終わるって私に言って。お兄ちゃんに会いたい……」と、達者なジェスチャーを交えつつ情感たっぷりに歌い上げる様は全米を感動の嵐へ叩き込むと同時に、共和党の支持率ダウンへ拍車をかけるには充分すぎたようだ。

 この動画は「Bye2luv」というユーザーによってシリーズ化されており、Heather Martinで検索すると、ニュース映像も含めた関連タイトルがズラズラ列挙される。作詞、作曲はヘザーちゃんのママで、伴奏も担当しているようだ。また、ヘザーちゃんの音痴、じゃなくて純真な歌声に感動した多数のユーザーが「お返事動画」も投稿している。変な被り物をつけた奴はやる気があるのだろうか。

 動画のタイムスタンプを見て分かる通り、これは昨年末の話題である。2007年5月現在、イラク戦争における米兵の死者数は3000名をマーク、今後も増加見込みだ(米軍が駐留し続ける限り)。金髪幼女をベタ惚れさせた罪作りな男の名をショーン君というらしいが、彼が遥か中東の地で今もなお健在かどうかは知らない。どこかに書いてあるのだろうけれど、私は駅前留学とかしていないので中学英語以上の英文はさっぱりだ。

 そもそも私がこの動画を知ったのは、偶然YouTubeの検索窓に「Littlegirl」という卑猥なクエリを打ち込んだからだ。反戦関係のWEBサイトを巡って見つけたわけではないし、だいたい、日本でこの子が話題になっているところをまったく見かけない。

 どこかの市長が凶弾に倒れたり、不登校児が母親の首を切って交番に持ち込んだりと、いろいろ忙しいのは分かるが、それにしてもドライすぎやしないか。こんなことでは、鬼畜米人共に「ヘイ、君たち黄色猿はポリティカルな話題に興味がないのかい? ANIMEもいいけどたまには新聞ぐらい読めよHAHAHA~!」などと煽られても文句は言えまい。

 冗談はさて置き、この話題がアメリカの国内で留まっている理由がなんとなく想像できる。インターネットに国境はないと言われるが、それはある意味で完全に間違っているのだ。英文のコンテンツを理解するには、ある程度の英語力が要る。ぶっちゃけた話、言葉の壁が「全世界的なムーブメント」を阻んでいるとも言えるだろう。WEB上で世界同時革命を起こすには、基礎言語をエスペラント語にでも統一しない限り無理かもしれない。

 そしてこのヘザーちゃんブームに関しては、イラク戦争に対する各国間の温度差がダイレクトに影響している。湾岸地域に駐留する米兵へ興味を持つのは、同じ米国人だけなのだ。むしろ、「イヤならさっさと帰ってくれば? 誰も頼んでないよ」という声を抑え込まんがため、ブッシュ政権は頑なに増派を推し進めているようにも見える。

 だいたい、ヘザーちゃんの動画を見て「感動」した日本人が果たして何人いるだろう。正直なところ、私は居心地の悪さみたいなものを拭いきれなかった。どこかのブログでヘザーちゃんがダコタ・ファニングに似てるなどと書かれていたけれど、とんでもない。この子はジョンベネ・ラムジーだろう

 あの当時、これを映せばスポンサーが喜ぶと言わんばかりに数多の局で垂れ流されていた、ジョンベネちゃんが歌って踊るあの映像。あれを見たときのなんとも表し難い不快感が、ヘザーちゃんのカラオケ動画で今一度よみがえってくるようだ。

 また、この一連の動画を単純に「反戦」で括ってしまっていいものかどうか、という疑問も残る。動画の断り書きにあるような、リベラルの陰謀云々という話ではない。あの国の行動パターンはいつも同じだ。他所の国へちょっかいを出し、出先で米兵がバタバタと死に、その惨状をジャーナリズムが伝えて「息子を返せ」コールが巻き起こる……。

 そもそもあの国は19世紀以降、1度たりとも本土決戦というものを経験していない。「戦場」はいつだって海の向こうだ。48時間以内に地球上のあらゆる地域へ威力を行使できる立場にありながら、大多数の合衆国民は殺戮の現場を知らない

 究極外交であるところの「戦争」が、あの国では内政の諸問題として片付けられている節がある。外国人の命をダシに、兵士の待遇を改善しろとかレーションの質を上げろとか、衛星中継で息子たちの顔をいつでも見られるようにしろとか、さながらちょっと大きな労働争議といった趣だ。これでは、いたいけな少女の「君死にたもうことなかれ」を見せつけられたところで、いつもの国内向けデモンストレーションと邪推されても致仕方あるまい。

 ちょっとここで、米国人たちの高い政治意識を確かめるために、件の動画のコメント欄を斜め読みしてきた。そのいくつかを君チラ的超訳で抜粋してみよう。



 「可愛いなあ」

 「か、可愛いいいいいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃ」

 「この子のママは天才だね、いい歌作るよ本当。ヘザータソの声も完璧。ショーンは幸せ者だぜ」

 「敢えて言おう! 萌えであると!」

 「こりゃすげえ、ヘザータソGJ!@テキサス」

 「全米で俺が泣いた」

 「おいお前ら! ショーンは戦場の尊い犠牲のひとつに過ぎないんだぜ、他の連中はどうでもいいってのか? でも、この歌はイイな……。なんていうか、すごく……」

 「ギザカワユス(^ω^)」

 「こいつ誰?

 「ヘザーは俺の嫁」



 いっぽう彼女は、こんな歌も披露している。



Heather Martin - God Bless America




 周りの大人はどうあれ、彼女のほうがよほど国を想っているのは間違いないようだ。憂国少女……このジャンル流行らないかな?



  “When Are You Coming Home” “God Bless America
  唄:Heather Martin

『Lotta Love』

Posted by AK on 11.2007 音楽   0 comments   0 trackback
Tag :m-flo lotta love B系 MINMI
ガチンコ小学生が過激に踊りまくり、飲みまくり
現代版『ダウンタウン物語』はB系でノリノリです


 生涯で最初に買ったポップスアルバムがglobeのファースト、といえば何やら自分が健全な20代に思えてくる。アッパーミドルに憧れていた母親のせいで、私は幼少時からバイオリンを嗜んでおり、家のリビングでかかるBGMもロマン派を中核とした19世紀の西欧クラシック音楽であった。そんな私がなぜglobe。これには海よりも深いわけがある。

 小学生時代はまだいい。ちょっとぐらい流行りの音楽に疎くたって、それは個性の一環としてスクールカースト内で一定の地位に安住できる。だが、同級生らが次々と俗化されていく中学時代となると、そうはいかない。小室ファミリーを全員知らなければ人間じゃないと言わんばかりの重苦しい空気。毎週金曜日はドラえもんじゃなくてミュージックステーションを見るのが日本の中学生の正しいライフスタイル、という無言の圧力

 正直、日本のポップスがそれほど質の高いものとは(今でも)思えないのだが、文化としてのポップスが個人の嗜好よりも優先される我が国の悪しきAVEXストリームにはちょっと抗い難い。20代も半ばを過ぎた今となっては、そんなものは至極どうでもいいことの部類に入るのだけれど、多感な中学時代となればそうもいかないのだ。

 農林水産省が病気まみれの米国産牛肉を買わなければならないように、日本の中学生はナケナシのお小遣いをAVEXのCDへつぎ込まなければいけない……10年前はそんな時代であった。私の周りだけかもしれないけれど。

 そういうわけで、中学生時分の私がひと月の小遣いを全額出して買ったのが、globeのアルバムなのである。とは言ってもこれ、実を言うと、今聴いてもまんざらでもないCDなのだ。何せ中学時代である。物の印象や思い出がいちばん残りやすい時期に買ったアルバムである。心に残らないわけがない。深夜FMで『Precious Memories』が流れて目頭を熱くするのは私だけではないだろう。

 時は流れて西暦2007年。恐怖の大王とかアホなことを言っていた人間を尻目に迎えた21世紀も小慣れた感がある現在、私は生涯2度目となるポップスアルバムの購入へ踏み切った。m-floの5thアルバム『COSMICOLOR』である。

 どうした俺。ロリコンをこじらせて頭がおかしくなったのか。これより前に買ったCDがヒルデガルト・フォン・ビンゲンの聖歌アルバムであるからして、何らかの変調が私の身を襲ったのではあるまいか。……これには、竹島領有権問題よりも根の深い理由が存在する。

 『COSMICOLOR』は、m-floが長らく続けてきた「loves Who」シリーズの最終作という位置付けであり、その販売形態は通常盤に加え、数百円ほど価格を上乗せしたDVD付きのパッケージがリリースされている。私が買ったのはこっち。DVD付き。というかこの特典DVD欲しさに買ったので、メインであるCDのほうは未だにアルバムケースから出していない

 このDVDには、loves MINMIのクレジットを冠した楽曲Lotta Love』のミュージックビデオが収録されている。VERBALやMINMIがクラブでノリノリに踊りまくり、脇を固めるエキストラたちの華麗なダンスも見ものの本作であるが、そこにはm-flo本人たちが1人も出演していない。いや本当に。

 じゃあ誰が出ているのかと言うと、そっくりな子供たちがVERBALや☆Taku、MINMIを演じ、クラブで遊んでいるエキストラたちも全員小学生という異色のミュージックビデオなのだ。ちなみに彼らがビデオの中で景気良くあおる白っぽいカクテルは、もちろん牛乳である。

 特筆すべきはMINMI役の女の子だ。もう、そっくりってもんじゃない。友人と一緒にこのビデオを見ていて、彼が発した第一声が「MINMIが小っちゃくなった!」であるからして、そのクリソツ加減が分かっていただけるだろう。おまけにこの子、ものすごく色っぽい。若きジョディ・フォスターのような病的な色っぽさではなく、きわめて健康的に色っぽい。たぶん虫歯とか1本もないよこの子。パンツは見えているし、言うことナシだ(コマ送りで確認。まあ見せパンだろうけど)。

 衣装のほうもなかなかツボを突くチョイスである。足の次にヘソが大好きな私が大喜びするコスチューム、と書けばどんなものかは大体想像がつくだろう。バックで踊っている子たちも、乳首ぐらいは隠れますと言わんばかりの過激なコスチュームだったり、やたらとおっぱいが大きな子がいたり、フリフリのフリル付きミニスカートで腰をフリフリしているアグレッシブな子がいたり、まるで欧米のアングラ子供ファッションショーといった風情である。ジョンベネちゃんが在籍してたアレね。

 B系でキメた子供たちが器用にダンスをするミュージックビデオといえば、EXILEの『Choo Choo TRAIN』が思い起こされる。が、この『Lotta Love』はそうした類例を遥かに引き離し、2007年現在におけるベスト・オブ・変態ミュージックビデオだ。

 大体、EXILEのあれはちゃんと本人たちが登場し、子供たちは彼らを引き立たせるオマケ的演出でしかなかった。それに対しm-floのほうは、主役共々ガチのオール小学生、見渡す限りのロリコン天国である。ネバーランドである。ロリコンが夢見るネオテニーの桃源郷が、そこには存在する。

 このミュージックビデオを見ていて気づいたことがひとつある。子供の動きにはブレがあるのだ。いかに達者なダンスを繰り広げようと、大人のダンサーにはないブレが、彼らが年端のいかない子供であることを否応なく認識させられる。

 大人の重たい四肢をコントロールすることを主眼としたブレイクダンスを、全体重で30kgもないような子供にやらせればブレのひとつぐらい出て当然なのだろう。が、そこに私はどうしようもない場違い感、シュール絵画におけるデペイズマンのようなものを感じるのである。

 要するに『ダウンタウン物語』なのだ。大人の役を子供が演じ、大人の物語を子供が語るあれは、大人社会の縮図云々という話よりもまず、かつて我々が子供の頃にスペキュレートしていた世界の姿という観点で論じられなければならない。

 『不思議の国のアリス』の映像化の歴史において、アリス役に成人女性を起用したパチ物が多い中、ヤン・シュヴァンクマイエルが敢えてガチンコ金髪幼女で映画を撮った理由が、そこにはある。大人のマネをしたところで大人にはない「ブレ」を自覚させられた子供時代、それを忠実に再現することこそが、大人が子供を描く際に有効なたったひとつのリアリティなのだ。

 さて、この『Lotta Love』というミュージックビデオに、私はひとつ注文をつけたい。このビデオを撮影するにあたって、オーディションからトレーニング、カメラテストや演出の決定など、製作サイドの労苦には計り知れないものがあるだろう。そこで、それらを時系列に収めた60分枠のドキュメンタリー映像作品をリリースして、関係者の労苦を供養されてはいかがだろうか。ドニー・ダーコのエントリーでも似たようなことを書いていた気がするけれど、私はいつだって本気だ

 「Making of Lotta Love! MINMI役のあの子のオーディション、撮影、SPACE SHOWER Music Video Awardsの特別賞受賞までを追った、笑いあり涙あり激動の60分! 君は刻(とき)の涙を見る……」

 どうだろう。すごく面白そうではないか。ガチペド変態ロリコン、じゃなくて子供好きのお兄さんお姉さんに大受けしそうな企画じゃないか。TV局の連中も、納豆ダイエット捏造とかサクラ街頭インタビューとかアホなことやってないで、こういうニッチな需要へ地道に応えていけば視聴者を再び騙くらかせ、いやまた間違えた、視聴者の信頼を取り戻せるかもしれないのに、なぜそれをしないのだろう。

 というか私これ、このミュージックビデオのメイキングドキュメンタリー、かなり本気で見たいんですがどうですか、関係者の皆さん。6000円までなら出せるぞ。



  m-flo loves MINMI 『Lotta Love』
  2006年 日本作品
  久保茂昭監督
 HOME 

バックナンバー

ジャンル

ブログ内検索

プロフィール

AK

Author:AK

しりとりしようぜっ!
まず俺からな。

「ロリコン」


励ましのお便り

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。